聞いてみたいこの方に「少しでも心が開いたら」

弓削田美穂子
若き日に手島郁郎に信仰を学ぶ。自宅を女子寮とし実生活を通して信仰で生きることを伝え、若者たちを育んでいる。
東京都在住。82歳

野村妙子
2男1女の母。元小学校教員。最近は『生命の光』誌の編集にも携わっている。
東京都在住。41歳

希望をもって生きられたら幸せです。でも今、将来を悲観する若者が増えているといわれます。そこで今回は、不幸の星の下に生まれたと言われた人生が大きく変わり、多くの若者に希望を与えてこられた弓削田さんにお話を伺いました。 (聞き手 野村妙子)

野村妙子 私には子供が3人いますが、将来を思うと、どう育てていけばいいか悩むことがあります。そんな時、弓削田さんになら相談してみたい、と思うのです。そのようなお人柄になられたのはどうしてでしょう?

弓削田美穂子 さあ、そう言われてもなぜかしら……。

ではまず、私の生い立ちの話をしますとね。戦時中のこと、近衛兵(このえへい)だった父は、私が生まれて間もなく亡くなりました。その後、母は家族の勧めもあってか、再婚したんですね。

私が小学6年生になった時、義父が事業に失敗し、私とすぐ下の弟を鹿児島の祖母のもとに残して、家族は義父の故郷の四国に引っ越してしまったんです。

そんなある日、近所のおばさんが「みほちゃんも、お父さんが生きていたら、こんな苦労はしなかったのにね」と言われたんですよ。私は義父が実の父と思っていましたから、何で「生きていたら」と言われたのかわからなくて、祖母に聞いたんですね。

すると、実の父が亡くなっていたことを、初めて聞かされました。私は、その事実に衝撃を受けました。

祖母はよく言っていたんです、「あんたは不幸の星の下に生まれた。それがあんたの運命だからね。運命というものは、変えることはできないんだよ」と。

野村 運命は受け入れるしかない、ということですか。

弓削田 そうですね。私は、この運命からは逃れられないから、決められた枠の中で生きるしかないと、子供心に思っていましたね。

野村 枠の中というと、今は自由な世の中ですが、かえって多くの若者が自分で可能性を狭めてしまい、何に希望をもてばいいかわからないのでは、と思います。私は子供たちが生きていくこれからの時代を考えると、少子化や若い人の閉塞感(へいそくかん)などが気になります。

弓削田 新聞やニュースを見ても、将来に希望がもてないという人は、確かに多いように思いますね。

でも私は若い時、そういう運命に縛られない人々と、熊本で出会ったんですよ。どうにもならない不幸な人生でも、喜んで生きている人たちがいました。そして、私自身も運命から解放される体験をしたんです。

「喜び」を知りたくて

私は学生の時、同級生から借りた『生命の光』誌で幕屋を知りました。そして集会に集ううちに、幕屋の皆さんが世の中にはない「喜び」をもって生きていることに気がついたんです。「あの喜びは何だろう?」と、私は不思議に思いました。そこで、この信仰をもっと知りたくなって、思い切って熊本の手島郁郎先生のもとに行ったんです。私がまだ18歳の時でした。

当時、手島先生の集会には、病気の方もたくさん集っていました。私は先生から頼まれて、林田千鶴さんという、結核を患っている方のお世話をしたんです。

千鶴さんは重症で、起きるのもやっとのお体です。でも、先生の集会に出たいと言われ、熊本市の郊外から町の中心部にある聖書塾まで、一緒に通いました。

千鶴さんは、歩くのも息が苦しくて、何歩か歩いては休みながらで、時間がかかるんです。でも、集会で抱きかかえられるように先生に祈られたら、帰り道はうれしくて、笑顔で歩かれるんですよ。

病で明日をも知れない千鶴さんが、たとえ短い命の運命であっても、喜んで生きておられる。私は不思議でなりませんでした。

親からは、「感染したらどうする。帰ってこなければ親子の縁を切る」とまで言われましたが、その喜びを知るまでは私は帰れない、と思いましたね。

熊本の夏は暑いです。ある日、千鶴さんが「皆は銭湯に行けていいな」と言われました。そこで私は洗濯用のタライを持ってきて、お湯を張ったんです。

千鶴さんは、やせ細った体でタライにちょこんと座られて、私はお湯で背中を流してさしあげました。そんな行水は初めてだったのか、「気持ちよかった。ありがとう」と、とっても喜ばれたんですね。

やがて千鶴さんは天に召されていきましたが、あの日々は、今も忘れることができません。

「運命は変わったよ」

そんなある日、熊本聖書塾で掃除をしていた時です。手島先生から「美穂子さん、あなたの運命は今日、変わったよ」と突然声をかけられたんですね。不幸な運命は変わらない、と祖母が言っていましたから、私は「どうしてですか」と聞いたんです。すると先生は、「あなたはもう、キリストの側につく運命になったんだよ」と言われたんですね。

千鶴さんと一緒に喜んで生きていた私を、先生がどう見ておられたのかはわかりません。でも「キリストの側につく運命」になった、と言われたんですよ。

その言葉の意味はよくわかりませんでした。けれど帰りがけ、歩いていると町並みがキラキラ輝いていて、なぜかとってもうれしいんですね。先生の一言で、私の心がパッと開いた感じがしたんですよ。

野村 「キリストの側につく」と言われた言葉が、私にはとても印象的です。そうして心が開いたんですね。

弓削田 そう。不幸な運命に縛られていた心が解放されたら、見えるものが輝きだしたんですよ。

私はその後、生涯忘れられない体験をしました。

希望のないはずの人たちが

ある日、私は誘われて、熊本市郊外にあるハンセン病患者の療養所での集会に行きました。

病が進んで手足が侵され、顔も崩れるほどの人もいました。それを見て私は初め、怖かったです。

でも、その方々が泣きながら神様を賛美して、「うれしい、うれしい」と言われる。その喜ぶ姿にびっくりして、私は目をみはりました。

病で何の希望もないような人たちなのに、キリストの神様から来る喜びを人々に伝えたい、と言われるんです。でも、その方々は療養所から出ることができないんですよ。私の目から、涙が滂沱(ぼうだ)と流れました。 

「この方々ができないことを、健康な私にさせてください」と突き上げるような祈りがわきました。 

それと同時に、聖霊が注がれて、私はうれしくて畳に泣き伏したのを覚えています。回心の時でした。

野村 その体験から、今までたくさんの人に、聖霊による喜びを伝えてこられたのですね。

私は中学生のころに幕屋の日曜集会で、神様に出会った人がその喜びの体験を語るのを聞きました。

すると、信仰に熱心でもなかった私の中に、急に「神様に出会いたい」という思いがわいたんです。

キリストを慕う思いで祈りつづけていると、喜びが天からくだって、幸福感で涙が止まらなくなりました。「いつまでも祈っていたい」、そんな気持ちになったんです。今思うと、キリストの側の世界があることを知った、そういう経験だったのでしょう。

知らなかった世界がある

弓削田 あなたも喜びを知ったのですね。聖書に記された聖霊の働きは、今もあるんですよ。

若い人たちに伝えたいのは、「どんな運命の人でも、少しでも心が開けさえすれば、自分が今まで知らなかった喜びで生きることができる。そういう世界がある」、このことなんです。 

若い人は、自分では知らなくてもいろんな賜物をもっているのだから、希望をもって生きてほしいですね。

野村 人生を悲観して運命を嘆く時でも、キリストの神様はやって来て、慰めと喜びと、生きる力を与えてくださるのですね。

今日は、大切なお話をありがとうございました。


本記事は、月刊誌『生命の光』849号 “Light of Life” に掲載されています。