友を訪ねて「すべては神様だよ」
ー五十鈴川の畔に店を構えてー

太陽の光に輝く五十鈴川の宇治橋
外村允子(とのむら のりこ)

新しい年を迎え、伊勢の神宮を訪れました。内宮(ないくう)の宇治橋から五十鈴川(いすずがわ)沿いに、おはらい町という石畳の通りが延びています。多くの商店が軒を連ねる中でも、ひときわ大きな店構えの一軒が「二光堂(にこうどう)」さんです。今回は、このお店を営まれている外村允子さんを訪ね、お話を伺いました。(編集部)


ここ二光堂さんは、内宮への入り口のすぐ傍らという、とても素晴らしい場所にありますね。

外村允子 はい。ありがたいことに、ここからすぐの所に、五十鈴川を渡って内宮さんの神域に入っていく宇治橋があります。

私は伊勢で生まれ育ったので、子供のころから何度もお参りに行っていますが、今でも宇治橋を渡って神域に入ると、サーッと清らかな空気に変わるのを感じますね。また玉砂利を踏む音が、何ともいえず清々(すがすが)しい気持ちにさせてくれます。

伊勢の神宮は、皇室のご祖先として尊ばれる、日本人にとって最も神聖な場所ですね。

外村 ええ、ここは日本人にとっての大切な心のふるさと、聖地ですね。神宮は内宮、外宮(げくう)さんだけでなく、三重県内の摂社・末社など、合わせて125社あり、それら全部を含めて伊勢神宮といいます。ですからそういうお社の前を通る時は、必ず立ち止まって頭を下げてお参りするんだよ、と母に教えられて育ちました。

またこの神宮は、式年遷宮といって、20年ごとにお社から神宝に至るまで、すべてを新しく造り替えるんです。それは常若(とこわか)ともいわれて、常に新しく新鮮になる生命を表しています。

以前、イスラエルから高名な聖書学者のアンドレ・シュラキ先生が来られて、ここにお迎えした時「世界にはたくさんの神殿があるけれど、それらは今、遺跡や観光地になってしまっている。でもここ伊勢神宮は、生きた神殿として、今も生きた礼拝がなされている」と語られていましたね。

わが家の贖い

確かに神宮を訪れると、新鮮な気持ちにさせられますね。手島郁郎先生は、伊勢をはじめ、日本人にとって歴史的、精神的な聖地といわれる場所をとても尊ばれて、そういう所で集会をされましたね。

外村 そうなんです。わが家が幕屋の信仰に触れたのも、手島先生が1967年にこの先にある神宮会館で開かれた、伊勢聖会がきっかけでした。

五十鈴川を背景に語る外村さん

当時、主人は心の支えになるものを求めて、神道の道場に通うなどしていました。そのころ、ある人から、「近々、手島郁郎というキリスト教の偉い先生が来られて大きな会があるらしい」という話を聞いて出かけていったのが、伊勢聖会だったんです。

けれども、参加は『生命の光』の読者に限る、と言われて参加できませんでした。でも、受付におられた方がその後、『生命の光』を送りつづけてくださり、三重県におられる幕屋の方を紹介してくださったことを通し、主人は幕屋の信仰で生きるようになりました。

実は当時、私の弟が精神的に病んで、入院していました。弟は高校の先生の影響で、社会主義思想に染まってしまったんです。潔癖すぎる性格から、社会に出ていろいろな現実の矛盾に直面して思い詰め、とうとう心を病んで、それがひどくなってしまいました。

病院では、面会はできないと言われていました。それでも私が行ってみたら、弟は重い扉の奥の重症患者が入る、畳一畳とトイレだけの独房のような部屋にいて、小さな窓から食事をもらうほどひどい状況でした。記憶が全くない時期が、ひと月以上もあったんです。

主人はそのころ、車で1時間の山道を通って、伊勢・志摩におられる幕屋の方々と毎日、朝早くから祈り会をしていました。その祈り会で皆さんが、弟のことをずっと祈りつづけてくださったんですね。

するとある日、不思議なことに、社会復帰はもう無理だと言われていた弟でしたのに、「あれ? おれ、なんでこんな所におるんやろか」と言って、全く正気に戻ったんです。弟はそこからこの信仰によって、人生がすっかり変えられたんです。

私の支えとなった言葉

それは弟にとっても、私にとっても、ものすごく大きな感謝で、私の信仰の始まりとなりました。それ以来、私はキリストの神様に祈るようになり、わが家でも家庭での集会が始まりました。ただ、日曜日は店が忙しかったので、私はなかなか三重の幕屋まで行って集会に集うことができませんでした。

けれどもそれから数年後、伊豆で開かれた夏期聖会に、幼い3人の子供を抱えて初めて参加しました。その聖会で祈りになった時です。本会場ではなく、離れた子供部屋で祈っていた私にも熱い聖霊が注がれて、涙があふれてあふれてならない体験をすることができたんです。それはうれしかったですね。

またその後、私は手島先生が引率された最後のイスラエル聖地巡礼に参加することができました。巡礼は毎日がうれしくて、とても恵まれた旅路でした。

帰り際に先生にぜひ一言お礼を申し上げたいと思い、「先生、ほんとうにありがとうございました」と言ったら、先生は「奥さん、間違えちゃだめだよ。ぼくは何もしていないよ。すべては神様だよ」と、優しく諭すようにおっしゃったんです。

それ以来、その言葉は私の心から離れないで、いつもよみがえってきます。一切はキリストの神様が導いてくださると、それが、その後の私の信仰の支えとなっているんです。

私は、ここに嫁いできて、60年になります。今日まで多くの山坂を越えてきましたけれど、今はどんなことがあっても、「神様」と祈ると「大丈夫だ!」と思えることが、何よりありがたいですね。

この地で信仰を表して

五十鈴川の宇治橋から徒歩1分のところに店を構える二光堂
二光堂は妻入り様式で町並みになじむ昔風の店構え

この通りでも、二光堂さんほどの大きな妻入り様式の建物は、珍しいですね。ところで、このお店はいつごろから始められたのでしょうか。

外村 ここは創業者が大正時代の初めに、内宮さんにお参りに来られた方々の休憩所として始めたお店なんです。そしてその後、土産物屋と食堂を兼ねた店となりました。私の主人で3代目でしたが、今は息子が後を継いでいます。

実は、30年前にこの店を建て替えるまでは、主に団体のお客様を扱っていました。団体客を扱うには人手がいるので、当時は従業員が50人もいたんですね。それで、経営も赤字続きで大変でした。

そんな時、伊東市で旅館を経営されていた幕屋の方が、信仰の励ましと共に具体的な助言を下さいました。それで店を新たにすることになった時、紹介してくださった設計士さんの助言を得て、昔風の妻入り様式の店構えになりました。

二光堂名物・松坂牛の牛丼
二光堂名物・松阪牛の牛丼

また、以前はどこの食堂にもあるカレーライスや親子丼などをお出ししていましたが、店を新しくするに当たって、当時この辺りではどこも扱っていなかった、三重県名産の松阪牛の牛丼一本に絞ろう、ということになりました。おかげさまでそれが大変評判がよく、今ではあちこちに松阪牛を扱うお店ができました。

主人はこの地でも、原始福音の信仰を鮮明に打ち出していました。時には、イエス様のお顔が描かれた、特別集会の大きなポスターを店の前に貼(は)り出すなどしていたので、周りの人たちからは、かなり変わり者だと見られていました。

でも13年前に主人が亡くなった時、息子たちも、お父さんを幕屋式の葬儀で送ってあげよう、と言ってくれました。その葬儀には、地元の方々がなんと250人も参列してくださいました。

幕屋の方々の熱い祈りと、キリストへの賛美、心のこもったお別れの言葉に、とても明るく、うれしい野辺送りの時となりました。葬儀の後、参列者の皆さんが、「今日の告別式はほんとうに感動した」と言ってくださったのを聞いて、うれしかったですね。

最後に、ここにお店を構えていて、何か思われることはありますか。

外村 お正月や祭日にはたくさんの方々が訪れてくださって、ありがたくうれしいですね。

でも一つ残念なのは、新しいお店も増えたこの通りですが、祝祭日に日の丸の旗を掲げるのは、うちと、あと数軒だけなんです。日本の伝統や精神的なものが尊ばれ、やがてずらりと国旗が揚げられるようになることを祈っています。

それにしましても、今日まで、こうしてキリストに導かれてきたことを思いますと、ただただ感謝以外には何もありません。

お忙しいところ、今日はありがとうございました。私も、多くの人々が日本の伝統や精神をもっと尊ぶ日が来ることを願っています。


本記事は、月刊誌『生命の光』851号 “Light of Life” に掲載されています。