人は神の御影

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに人を創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して『生めよ、ふえよ、地に満てよ。地を従わせよ』と言われた」

創世記1章27~28節

この聖句は聖書の信仰上に非常に重要な言葉であります。神のかたち、「Imago Dei イマゴ デイ(God’s Image ゴッズ イメージ)」が何であるか、ということは、神学の問題としても重大で、神学者のカール・バルトとエミール・ブルンナーが大論争をしたことでも有名です。

神は人間を創造なさった時に、その「像(かたち)」の如くに創造された。人間は神のイメージである。そこに人間の尊さがあるのです。

この「かたち イメージ」と訳してある原語は、ヘブル語でツェレムですが、ツェレムとは「影」という意味です。人間は神に似た影である。形のあるところに、影がある。本体の動くところに、影これに従って動くように、真の人間は、神の在りたもう所、神の行きたもうところ、どこにでも共にある影のように、と創られた存在である。そのように大昔、エデンの園では、アダムとエバは神と共に歩きました。随神(かんながら)に生きました。神を離れて、人の影も存在しません。

しかし、アダムとエバが知識の木の実を食べて、神御自身のように独り立ちしようとして、罪を犯しました。二人は神と共に歩くことを欲しなくなり、エデンの園でエホバの神が歩まれる音を聞くと、二人は神の顔を避けて、林の中に身を隠しました。暗黒の影は、光を失った状況です。暗黒は光を忌み嫌います。

エデンの園を追放されて、アダムは地上に呻き、苦しまねばならぬ運命となったというのが、聖書の古い神話です。形に添う影のように愛された人が、奇妙なことに、形を離れて彷徨いいでると、本質を離れた虚像が動きだします。「神の影」として神を映す鏡のようだったアダムが、造り主エホバの神を避けるようになった心――ここにオリジナル・シン、原罪というものの発生があります。人間が神の影であることを忘れたら、神の形であることを忘れたら、どんなに利口でも怪奇な動物でしかなくなります。

神の御真影

エホバである神により添う影のように、神と共に歩いた者――これ真のアダム、人間です。エデンの園を追われたアダムの後に、例外ですが、ただ二人、まことの神の人がいました。そのひとりはエノク、もうひとりはイエスです。

「エノクは神とともに歩いたが、神が彼を取られたので、いなくなった」

創世記5章24節

とあるように、肉体の死を見ずして、昇天したと伝えられます。神が移したもうたからです。このエノクは、主イエスのプロトタイプ、ひな型でして、常住坐臥(じょうじゅうざが)、地上で神と共に歩く人、神なくしては生きられぬ人間――これイエス・キリストの御姿でした。生まれる以前から、イエスの別名は「インマヌエル(神共に在ます)」と呼ばれる、とマタイは記しています。イエス・キリストの最後の遺言は、弟子たちに「見よ、われは世の終わりまで、あらゆる日に、なんじらと共におるぞ」という御言葉でした。新約聖書の鍵音(キー・ノート)は、「インマヌエル、神われらと共に在ます」のリズムです。なんと美しい信仰のリズムで聖書は脈打っていることでしょう! 「インマヌエル」神と共にあること、これが原始福音の基調であります。神のいます所に影を映します。

インドの聖者、スンダル・シングは「生けるキリストと共に歩いているか、否か」で、クリスチャンの真偽を判断しました。私も同感です。

現今のキリスト教会は「十字架の代罰説」を中心に教理を立てて、それを信じようとします。しかし、新約聖書の一貫したリズムは「インマヌエル」。それは「生けるキリストと共に歩む信仰」です。イエス・キリストは人々に十字架にかけられて殺され、血しおしたたる御手をひろげて、今も生命を受けよと、叫び訴えつつあります。この生けるキリストに出会って罪を清められ、「神の面影」を写しだすまでに一新せられ、一変する回心の経験に入ることこそ、私たちの信仰の出発点であり、また最後のモットーとしなければなりません。

キリストの福音書を読んでみて驚くことは、ひとたびイエス・キリストに出会っただけで、罪ふかい心も救われ、盲人は目が開かれ、足萎えは立って歩み、死人まで生き返ったりする、という不思議な記事がいっぱい書いてあります。イエスの御衣に触れただけで、12年間の血漏の女がいやされ、強欲あくなき人でなしと呼ばれた取税人のザアカイもマタイも、ただひと目キリストの御眼差しを受けただけで、回心して、キリストと共に歩む弟子とはなりました。ただ神の御真影ともいうべきイエス・キリストに出会って、キリストの御霊にふれるだけで救われ、祝される信仰の経験が数多く記されてあります。

神にともなわれて

「インマヌエル! 神われらと共にあり」と、福音書の全編は美しく、このメロディーの協奏曲で響き渡っています。神と共に歩く人は、神の姿を反映できます。使徒パウロも「神もしわれらの味方ならば、だれかわれらに敵しようか!」と言って勇み立ち、迫害と戦い、困難に挑み、輝かしい勝利を示しました。

私たち小さくとも自分を「神の御影」と信じて生きてこそ、主の弟子らしく御栄光を顕現することができます。お互いに聖霊の内住する御真影のようにも、聖別されるまでに、切に祈り願うものであります。

もう20年前のこと、弱い肺病の体ながらイエス・キリストの生き写しのようにも、精一杯に生きたひとりの青年がいました。その人は高知の吉井純男君、彼は短い生涯でしたが、光まばゆいまでに人格が霊的にさえわたり、神の愛と正義に生き抜いて死にました。しかし、彼は侮られて、家族からも捨てられ、古い無教会主義の先生からも忌み嫌われ、死体に鞭打つような追悼式が行なわれました。まことに彼は彼らの悲しみを担い、悩みを負うて、黙って砕かれて死にました。彼のように崇高な人格をほかに私は知りません。私は彼の後ろ影を偲んでは、いつも泣きながらこの歌をうたいます。

さあ、松井濱子さん。私に代わって歌ってください。

深葉水湧く 広河原辺
君と誓いし その誓いを
忘れはせじ ああ慕わし
わが友 吉井君のうしろかげは

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『生命の光』791号