職場を訪ねて「ただ、愛すればいい」

大和の会長室で語る山根さん

大和ハウスグループの企業で、山根さんはキリストの信仰を基に生きてこられました。昨年、会長を退任された山根さんに、半生をお聞きします。(編集部)

山根さんは、長年にわたって代表取締役を務められましたが、何を大切にして経営をされたのでしょう。

私は今、顧問として、自社だけでなく4つの会社の若い社長たちと話す時間を設けています。

私には一つの方針がありまして、面授、つまり顔と顔とを合わせて語り合うことを大切にしています。

最近までコロナ禍でしたから、オンラインで会議をすることが多かったわけですね。でも、パソコンの画面越しに話すだけでは伝わらないものがある、と思っているんです。

ですから若い社長たちにも、社員と1対1で会って話すことを勧めます。よく言うんです、「これはぼくが言うんじゃないよ。聖書に書いてあるんだ、ほら」と。そして「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(マタイ福音書18章15節)と、聖書を開いてその箇所を示します。

私は仕事が終わると、ノートパソコンの上に聖書を置いて帰るんです。それは、翌朝オフィスに来た時、パソコンを開く前にまず聖書を開いて読み、しばらく声に出して、キリストの神様に祈るためです。

それから、今日はどうしようかと、祈った雰囲気で考える。すると、なすべきことが教えられるのです。

18年間経営をして、神様に祝福されてきました。私がキリストの信仰で生きていることを、社内では皆が知っていますよ。私が聖書や信仰の話をするのは、当たり前になっています。

宗教のことを会社内で話すと、抵抗を感じる人はいませんでしたか。

批判はありました。以前、大和ハウスグループの役員会で、社内で宗教を教えていると問題にされました。

でも、グループの会長だった樋口武男さんが、聖書や信仰の話をしてもいい、と認めてくださったのです。会社のトップは傲慢(ごうまん)になりやすいから、自分以上の存在に祈る謙虚さを、樋口さんは大事にされています。その思いで、私を信頼してくださいました。

入社されたころからのことをお聞かせください。

私は30歳のころ、家内と共に福岡県の飯塚市に住み、家庭を開放してキリストを伝える集会をしていました。当時は伝道を生活の中心にしていました。

ある日、1歳になったばかりの末の息子が、お風呂で亡くなったのです。私は外出先から駆けつけましたが、病院の医師も蘇生(そせい)させられず死んでしまいました。まだ温かいわが子を抱えて家に帰る途中、冷たくなっていくんですよ。思い出したくないほどの地獄でした。

それからというもの、妻はうつ病になり、子守をしていた次男は自分が目を離したせいだと、ひどく自分を責めはじめました。私は、「これでは家族が駄目になってしまう」と嘆きました。

集会もできなくなり、私は家庭を立て直そうと必死でした。そして、新しく仕事を探していた時、ハローワークでたまたま紹介されたのが、大和ハウス工業の子会社である、現在の大和ライフネクストでした。

私は、34歳でパート社員として働きだしました。1年半ほどたち、心に痛みを抱えた家内がイスラエルの聖地巡礼に行きました。そこで彼女は不思議な経験をしました。キリストが葬られたという園の墓で、死んだはずの息子を幻の中で抱きしめた、というのです。

家内は喜んで帰国して「義民(よしたみ)ちゃんが天で生きているよ。任せなさい、とキリストに言われたの」と言って、心がガラッと明るく変わったんですね。

それからです、私にも不思議なことが起きはじめました。たまたま支店長の代理で出席した会議で、雲の上の存在だった樋口さんに、「宅地建物取引士の資格を取ったら正社員にしてやる」と言われたのです。

その後、これもたまたま、空港でバッタリ樋口さんとお会いしたのです。飛行機の故障による待ち時間に、ラウンジで缶コーヒーを飲みながらしばらくお話ししました。すると樋口さんが私の経験に興味をもたれて、「イスラエルという国に行っていたのか。面白い! これから毎月1回、大阪の本社でおれとお茶を飲め」と。

それで毎月、親会社の本社にコーヒーを飲みに行きました。すると、「自分の金で簿記を勉強しに行け」などと、少しずつ課題を下さるのです。そして7~8年たったある日、突然「おまえ、社長をやれ」と、私は勤めていた会社の社長になるように言われました。

高校1年までの学歴しかない私ですから、「待ってください」とためらいましたが、そんな私を推してくださいました。息子が守護天使のようになって励まし、神様の導きに入れてくれたのだと思います。

天の導きがあって社長になられたのですね。

そうですね。でも、その後に試練がありました。それは私の人生を大きく方向づけた出来事でもあります。

私が49歳で社長になった後、3カ月ぐらいして樋口さんに呼ばれました。その後のようすを尋ねられたので、私は社内の愚痴をさんざん言ったのです。

実は、社長の私を取り巻く役員が全員、大和ハウス本体からの天下りで、しかも年齢が一回り上なのです。だから、若い私の言うことをだれも聞かないわけです。

私は、その不満を言いました。すると樋口さんから、「自分の会社の社員を悪く言うとは何事か」と言われ、「恥を知れ!」と雷が落ちました。そして「この状況を何ともできんかったら、おれはおまえをクビにせなあかん。出直してこい!」と言われたのです。

そう言われても自分ではどうしようもなく、「神様、ぼくにはできません」と社長室で祈ったのです。

その時です、突然、「ただ、愛すればいい」というキリストの御声が心に響きました。魂がひっくり返る衝撃でした。しかし現実は、全く無視された嫌な人たちをどうやって愛したらいいのか、と思いましたね。

でもある日祈っていると、ふと「若い社員には愛がわくな」と思ったんです。そこで、先輩役員の新入社員時代の写真を持ってきて、眺めるようにしたのです。

しばらくすると「彼らが入社した時、両親はうれしかったろうな」といった思いがわいてきました。そうして先輩役員一人ひとりに頭を下げ、苦労話をお聞きする努力もしました。すると、多くの先輩が応援者になってくださり、それを樋口会長も喜ばれたのです。

自分が変われば周囲も変わることを、神様が教えてくださいました。それは、愛においてでした。

山根さんがキリストの信仰に出合ったのは、いつですか。

私がどん底を生きていた若き日です。一人の伝道者との出会いを通して、回心したのです。

私の父親は性格が激しい人で、いつも母を泣かせていました。そんな家庭のせいか私は心が荒れて、高校1年の時にニュースになるような事件を起こし、学校も退学になってしまいました。

やけになって暴れ回っていた、そんな時です。中学時代に柔道部でお世話になった恩師と再会し、飯塚の幕屋に連れていかれたのです。

そこに、河野薫先生という伝道者がおられました。河野先生は、私が荒れて行き場がない事情を聞いていたのか、「君が山根君か、話を聞いとるよ」と、出会うなり玄関先で優しく抱きしめてくださったのです。

そして、「山根君、きつかったな。悔しかったな。つらかったろう」と二言三言、言葉をかけられました。そうしたら河野先生からキリストの愛が伝わってきて、体じゅうが震えだし、私は涙が流れて止まらず、ひざまずいてオンオン、20~30分泣きました。このことは生涯忘れられません。これが本当の伝道だと思いますね。

山根さんの今後の願いをお聞かせください。

私の願いは、「日本を担う若者を見いだして、生けるキリストを伝え、その魂に仕える」ことです。でも仕えるといいましても、私自身「なんじ、なお一つを欠く」でして、渇きというか、正直、不足感を覚えます。

今、思い出すことがあります。私が最晩年の河野先生にお会いした時のことです。先生ご夫妻が、三畳一間で貧しく暮らしているのを見て、若かった私はたまらなくなり、「先生は多くの人に伝道してこられたのに、最後はこんな生活ですか」と嘆きました。すると、怒られましたね。

「表面的にしか見ておらんな、山根君。ぼくの同窓の友人はみんな家も土地も金もあってな。でもこの年になると、今まで触れた物が触れなくなるんだよ」と言われるのです。そして、「教友の皆さんと過ごしたキリストの愛が通う日々は手触りできる」と、涙ながらに語られるのです。

涙しつつ信仰の心を教えてくださった先生は、その数カ月後、神様の御許(みもと)に逝かれました。

私は先生を通し、キリストに出会わなければ、滅んでいたかもしれません。ですから、私にとって贖いの感謝は揺るぎないのです。今後の人生、私は河野先生のように生きて死ねたら、と願っています。

子供たちに囲まれる山根さん
天王台幕屋(千葉県)に集う山根さんは、日曜集会の後、集まってきた幕屋の子供たちとスナップ写真を撮りました。子供たちは、山根さんが大好きです。

本記事は、月刊誌『生命の光』854号 “Light of Life” に掲載されています。

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