愛国心の回復

いにしえのイスラエル詩人は、滅亡した祖国の有りさまに泣きながら、「わが目は涙につぶれ、はらわたわきかえる」(哀歌2章11節)と嘆きました。同じく、私は泣くにも泣けないで、今の日本の現状を見ています。私は顔をそむけて、人知れず涙を流し、魂は胸の底ですすり泣いています。

私の国、私の日本は、こんな国ではなかったはずでした。もう、大和魂は老人の心からも消え、日本精神は人々から失せ去り、若い人々の血が、愛国の熱情にたぎることもなくなりました。総理府の調査によると、今は日本人から愛国心が冷えてしまい、「自分の幸福を犠牲にしても、国のために尽くしたい」と答える人はわずか4%しかないという統計です。ああ、泣くにも泣けないのが、今の祖国日本の現状です。

バイブル・聖書は一個人の救いを説くだけでなく、民族の救いを問題にして教えています。それで、聖書を読むイスラエル人の愛国心は熱烈なのです。2000年間も国が亡び、民族が流浪している中に、人々はソロモンの築いた石垣に頭を突っ込んでも、もう一度、祖国の復興を祈りつづけ、泣いてきました。そして、彼らの悲しい祈りは聞かれて、国は再建され、今はエルサレムは回復し、イスラエルは隆々と建国の歩を進めつつあります。愛国の祈りは、恐ろしい力をもっています。

アメリカ合衆国に行って、キリスト教会の礼拝に出るたびに驚くことですが、正面の講壇には『星条旗』を立ててあります。「星条旗よ、永遠なれ!」と、起立して国歌を人々が合唱する時は、全員の心は、熱っぽく感激に打ち震うのを見ます。民主主義国の彼らが、世界の一等国民であることを誇り、優越感に眉を上げて、日本人の私を見下したりします。その視線に耐えかねて、私も見返してやりますが、私の魂は泣き、私の霊魂は愛する日本を偲んで断腸の痛みに悶えます。

ああ、恥知らずの日本よ! 少しばかりの経済的復興ができたからといって、商業主義を威張り、エコノミック・アニマルと言われて平気であるとは。こんなに物質の奴隷になって、精神の復興を忘れている日本の政治家、学校の教職者、また世論を指導する評論家たちよ、恥ずかしいとは思いませんか。すっかり道義が荒れすたれ、人の情けはゴミ箱のように腐り、エロ、グロ、テロ、ナンセンスにただれて、至るところで暴力が横行する新聞記事やテレビ、ラジオの報道が、毎日続いています。いずれの日でしょうか、いにしえのように日本精神の美と真を回復する時は。聖書の詩人と同様に、「主よ、いにしえの日のごとくに我らをなしたまえ」(哀歌5章21節)と、私は祈らざるをえません。

民族の使命を自覚せよ

スイス人のペーター・シュミット氏は文明評論家として有名な方ですが、25年前に敗戦後の日本の各地を視察して回り、日本精神の高さ深さに驚き、『日本美の発見』という本を書いて、一躍ヨーロッパでベストセラーになりました。このシュミット氏と、先日お会いして話しますと、美しい日本の姿がもう消え失せてゆく、それを嘆いていました。彼が言うのに、「もう一度、強く美しい日本精神が回復するためには、日本民族が世界史に負う使命を自覚し、愛国心がまず起こることだ」と言っていました。私も同感でした。

まず日本人に強い愛国心がわき立つために必要なことは、世界史に果たすべき民族の使命を自覚することからです。一般の人々は、世界の歴史は無目的に動くように思い、弱肉強食で、征服したり征服されたり国々がするから、強大な軍備をもつことを主張します。しかし、世界の歴史は強大な武力をもつ国々が、次々と亡びゆく記録ではありませんか。

また左翼の人々は、ジグザグながらも、弁証法的唯物史観の発展で、プロレタリアートの共産主義社会に到達するだろうと考えたりもしますが、現在のソ連などを見たら裏切られ、幻滅を覚えるではありませんか。また、国際協調を進めて、世界連邦政府を夢みる政治家もあります。しかし、世界の歴史が何を目標に進んでいるのか? と歴史の方向を問われると、彼らは皆お先真っ暗で、だれも世界歴史の潮流と方向を知る人はありません。

だが、聖書を読むと、世界歴史の目標と方向がはっきり示されています。神のプログラムは明らかです。歴史の運命が神の御手にあるのを知ります。

キリストを軸として

神はまずアブラハムを選んで、4000年前に聖なる神の民の祖となされ、祝福の基を置かれた。そして「地上のすべての民族は、おまえの信仰によって祝福される」と約束されました(創世記12章)。

1000年後に、この預言はダビデ王によって成就しかけましたが、イスラエル民族の使命感の不徹底さによって、亡国の悲運を味わい、挫折してしまいました。しかし、大バビロンやアッシリア帝国に征服されながらも、神の摂理が取り消されたわけではないと、声高くイザヤやエレミヤ、エゼキエルなどの大宗教家たちが口をそろえて叫び、地上的にも、エルサレムの再建と国家の復興を説いてやみませんでした。

1000年後にヘロデ王によってエルサレム神殿が再建されましたが、そのときイエス・キリストは「この都は亡ぶ」と言いましたが、予言のとおり、エルサレムの都はローマ軍によって、紀元70年に大破壊され、それ以来、イスラエル人は流浪の民となり、1900年間の歳月が流れました。

しかし、聖なる民が聖地カナンに帰り、神の楽土を築くだろうという聖書の言葉は、天地が失せても成就するとイスラエル人は信じ、イエスもそう語りました。

主イエスはエルサレムの滅亡を予言しながらも、その滅亡は永久的でない、「時満つれば、再び散らされたイスラエル人は帰ってくる」(ルカ福音書21章24節)と申しました。パウロも「時が満ちれば、イスラエル人もキリストに救われる日がある」(ローマ人への手紙11章25節)と予言しました。今、その時が満ちたのを見ます。2000年前どおりに、旧エルサレムがイスラエルの手に回復したことは、神の歴史の重大な進展を示すものとして、私たちは注目せざるをえません。

現代最大の西欧の哲学者として知られるカール・ヤスパースはこのように言いました。「人類はただ一つの起源をアダムに発する以上、また同一の目標に向かって人類の歴史は進んでゆくであろう。しかし、歴史の方向はよくわからない。だがアウグスチヌスからヘーゲルに至るまでの大思想家はひとしく、歴史の中に神の御業を見、神の啓示が歴史の決定的な切れ目に作用する、と言っている。ヘーゲルは、全歴史はキリストを目指し、またキリストに由来する。それで、神の子の出現こそ、世界史の軸である」と言って、世界の歴史がキリストを中心に回転することを喝破しております。

私たち人類が地上に多くの民族と国家を形成しています以上、多数の人間がもつ努力次第で、その目標に世界の方向を少しく変更できないでもありません。しかし、それは大量の魚の群れが、海の中から河口に密集してきまして、水が流れているのか、魚が泳いでいるのかわからぬほどになり、河や海の形勢が一変するのではないか、と思ったりすることがあります。三十数年前、樺太のホロナイ川を旅行した時、私はそれを見ました。しかし、それも一時的な現象でして、魚類が海の潮流を支配したり、変更することなんかありませぬように、同じく、人間がどんなに大衆デモをやって、世界史の潮流や方向を変更しようとしたって、できるものではないこと、ナポレオンやヒットラーなどが、一時は世界の歴史の方向を一変せしめるかに見えましたけれども、一度つまずくと大負け戦に負け戦を重ね、無惨な末路をたどりました。人間、なんぼ偉く見えても、神の手に握られた将棋のコマ、大芝居の小道具でしかありません。

聖書は「幻なき民は亡ばん」と言っていますが、全世界史の筋書きは地上の人間にはなく、天上の神の御手の中に秘められています。私たちの先祖は古くから「神の民だ。天孫民族だ」と自覚して、神の心を地上に実現しようという理想をもっていたではありませんか。

日本人に熱烈な愛国心が醸し出されるために、まず聖書を読む運動が起こることを、私は心から祈るものであります。

(1973年)