聖書講話「聖霊による思想力」ヨハネ福音書14章26節

人間は、心に思い描くことを具体的に実現する力をもっています。その人が心の中で何を思い描き、何を願うかが、その人の未来を決めてゆくのです。この心、また信仰を最高に力づけるものは何でしょうか? 
今回もヨハネ福音書から、イエス・キリストの「最後の遺訓」に触れながら、手島郁郎が神の霊、聖霊の力について語っています。(編集部)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」

ヨハネ福音書14章26節

イエス・キリストは十字架にかかられる前、ご自分の死後、真理の御霊、聖霊が助け主となってやって来てすべてのことを教える、と語られました。このように、聖霊が教え、助けるという信仰を、キリストは最後に弟子たちに教えられました。

さて、この自然界には万有引力という大きな力が存在します。それによってすべての天体が運行しています。それとともに、もう一つ偉大な力があります。それは「生命の力」です。生命をもつもの、生物はみな動きます。それだけでなく、心というべきものをもっております。小さなミミズも、つつくと痛みを感じてか、もがきます。また、犬でもかまってやると、さもうれしそうな表情をします。しかし意地悪をしますと、警戒してもう近寄りません。これは、人間だけでなく動物も心をもっているからです。

同様に、植物も心をもっております。19世紀のアメリカに、ルーサー・バーバンクという植物育種家がおりました。ある時、彼はサボテンの品種改良を考えました。アメリカの砂漠にあるサボテンは、大きくて非常にとげとげしい棘(とげ)をもっています。ところがこのサボテンも、水や栄養を十分与え、彼が毎日声をかけながらかわいがって品種改良を続けてゆくうちに、荒々しい性質を変えて、ついに棘のないサボテンになったのです。そのようにしてバーバンクは、病気に強いジャガイモや香りの高いダリアなど、3000種にも及ぶ改良をしています。彼の行なったさまざまな改良を見ると、植物にもやっぱり心があることがわかります。

彼は後に、『ヒト科植物の育て方』という本を書いて、心をもっていないと思われている草木ですら変わるのなら、高い感受性をもっている人間が変わらないことがあろうか、と主張しました。人間は、導き方によって変わる。鬼のように恐ろしくも変わるけれど、天使のようにも変わることができる。これは、植物よりも動物、動物よりも人間のほうが精神が発達していますから、変わりやすいということです。

バーバンクが改良したウチワサボテン(カリフォルニア)

よき変化を与えるものは愛

私は中学2年のころ、英語の教科書でこのルーサー・バーバンクの話を読み、それ以来、興味をもつようになりました。私は子供の時、人から嫌なやつだと蔑(さげす)まれ、嫌われていました。けれども、とげとげしいサボテンですら変わるならば、自分も変われるかもしれないと、心ひそかに思うようになりました。そのことは、私に大きな光明でした。

私は自分に愛想が尽きて、「どうしてこんな嫌な自分に生まれたんだろう」とたまらなくて、何かにすがろうとしました。親にすがろうとしても、父親の愛が自分を満足させてはくれません。また母は、私にとって必ずしも優しい母親ではありませんでした。

だれにもすがりようがない時、私は聖書の中に、イエス・キリストが父と呼んだ存在を発見しました。その時の驚き、歓び。涙が出て涙が出てしかたありませんでした。地上を見ても天を仰いでも、だれも私を知ってくれる者がない。兄弟や友人は私を少しは知ってくれていても、深いところまでは知ってくれない。しかし、「天のお父様、野のゆりをソロモンの栄華よりも美しく飾りたもう神様! また、空飛ぶ鳥をも養いたもう神様!」と言って、神を見上げるようになった時に、神の愛は私を徐々に、ほのぼのと変えはじめました。

このように生物が変わるために、絶対に大事なことは愛です。進化論を唱えたダーウィンは「生物の進化は、生存競争における自然淘汰(自然選択)の法則により説明できる」と考えました。バーバンクはさらに、生物は人間が愛情をもって手をかけ、よい性質を伸ばすために淘汰を繰り返すことによっても進化する、ということを証明しました。

思想力 thought power(ソート パワー)の偉大さ

バーバンクの品種改良の例でわかるように、私たちには最も尊い心の力というものがあります。このことに気がつかなければ、宗教を学ぶ理由がありません。私たちはこの尊い心の力に気がついて、これをどのように啓発し、開発してゆけばよいのか。

生物は動作し、成長する。それは生物にも心があり、思う力、思想力 thought power というべきものがあるからです。生命の世界において最も重要なものは、この思想力です。そして、この思想力の中で最も偉大なものは、聖霊による思想力であります。聖霊に満たされた時に心が啓発され、思いがわかされる。この思想力ほど偉大な力はありません。

私はイエス・キリストのご生涯を見ますと、なんと素晴らしいお方だろうかと思います。人間として最高の作品といってもいいような、神の花が咲いた、神の栄光が現れたという以外にない素晴らしい見ものだと思いつつ、私は聖書を読みます。また、キリストには及ばずともそれに類するような、大小の預言者をはじめ偉大な霊的人物が、聖書には幾人も記されております。これは、イエス・キリストがありありと神の霊、聖霊に伴われ、また預言者たちもこの霊の感化の中に生きていたからです。

イエス・キリストは「最後の遺訓」の中で、直弟子たちに「助け主、すなわち父なる神がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ福音書14章26節)と言われました。これは直弟子だけではない、イエスの生前に弟子でなかった使徒パウロや、その後次々と出た宗教的偉人もみな、この聖霊による思想力に導かれたのです。

同様に、私たちはつまらない人間かもしれないけれども、普通の人が知らない聖霊による思想力を身につけますと、実にこれは全知全能であるということがわかります。

思いは実現する

イエス・キリストは同じ14章で「わたしの名においてあなたがたが願う何事でも、わたしはなす」(13節直訳)と言われました。私たちの胸の中で思っている願いをキリストが実現してくださる。それで、何を思うかということが非常に大切になってきます。

信仰をするときに大事なのは、私たちがどんな信仰をもって生きているかということです。暗く信じる人は、暗いことばかりが起きます。明るい信仰をもっている人には、明るい世界が開けてきます。あなたの未来は、そのもっている信仰のごとくになります。ですから、キリストはいつでも「なんじの信ずるごとく、なんじになれ」と言われるのです。すなわち、私たちが今思って信じていることは、やがてなるのです。

人間が考え、思い描くということは、実にありありとしたことです。それはやがて実現する。神が無から有を創造されたというけれども、天地の創造の前に何があったかというと、「想像、思い」です。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と聖書にありますが、光が存在する前に神が「光あれ」と思いたもうたことが先でした。ですから私たちが、この一年どのようであろうか、と思うことが、やがて理想的な姿へと導くのです。

私たちが何を信じ、何を祈り、何を考えるか。その思いはやがて実現します。すなわち、精神の力、思想力ほど偉大なものはない。そのことを徹底的に信じるなら、実に偉大な尊い生涯を遂げることができるのです。けれども、精神の力はあやふやなものだと思っておる人は、自分自身があやふやですし、精神力の偉大さ、実現性というものを疑っておりますから、そのような人の理想は実現しません。

連戦連勝した時の秀吉

豊臣秀吉がまだ偉くなる前、織田信長の命によって播州(ばんしゅう)の三木城(みきじょう)を攻略に出かけた時に、一つの歌を詠みました。

臆病者のきぐちいそぐ雪の上きえも果てなむ人のありさま

「のきぐちいそぐ」というのは、退却口(のきぐち)に急いで逃げてゆくことです。敵の一家臣が逃亡するのを見て、雪がやがて消えるように三木城主・別所長治(べっしょながはる)が死んでゆく運命も当然だろうと、勝負がつかぬ前に敵将の死を予見しています。

『太閤記』などを読みますと、その時代の秀吉は非常に精神力が旺盛です。そして連戦連勝しています。後に彼は天下を統一して京都に聚楽第(じゅらくだい)を築き、そこに天皇をお迎えして豪華な宴を張りました。位人臣(くらいじんしん)を極めて、得意の絶頂です。しかし、その時に秀吉は、

露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢

と詠みました。そのころから彼の運命は落ち目になってゆきます。そして晩年は、悲しい歌ばかり詠(うた)っています。母親が死んだといえば、形見の髪をなでて母親をいとおしみ、幼くして死んだ息子のことを思っては泣く。そのように気持ちがなえたら、だんだん人生は落ち目になります。これは、なぜ豊臣秀吉が「なにはのことも夢のまた夢」と言いながら死んでゆかねばならなかったかの理由を示すものです。

私たちがどういう考え方をしているかということによって、運命がずいぶん変わってきます。私たちが人生に失敗するようなとき、悪魔は「もうだめだ、さあ逃げよ、さあ死んだがましだ」とささやき、おどしてきます。そんな声も真理のように聞こえます。そして暗い心になると、「神を信ぜよ、キリストの不思議な御力を信ぜよ」と言われても信じることができなくなる。これが恐ろしいのです。そういう時に、「ノー!」と言ってたち上がるためには、信仰以前の問題、すなわちどんな考えを抱いているかが大事なのです。

聖霊によってわかされる思い

それで、どんな場合にも神を信じ、雄々しく、大平安を身につけておりますと、十字架を前にしても恐れがありません。実にイエス・キリストのご生涯は立派でした。

イエス・キリストはやがて十字架にかかって死んでゆかれます。しかし弟子たちに「最後の遺訓」を語る中に、「なんじら世にありては患難(なやみ)あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」と語っているように、すでに勝利感をもっておられました。この精神的な勝利感、この強い信仰が、やがてキリスト教という大宗教を打ち立てることになったのです。

普通の人にこのようなことを「信ぜよ、やれ」と言っても、できるものではありません。しかしキリストには、このような驚くべき勝利を確信せしめてやまない何かがあったことがわかります。これが聖霊の力であります。私たちに聖霊の力が働きはじめたら、現状がどうであれ、「最後の勝利は我らにある。必ず勝つ」という気持ちがわいてなりません。

それで、信仰をするといっても、どのように信仰をするのか。人生のみじめな負け戦(いくさ)を信じる者は負けます。私たちが神を信じることにおいて大事なのは、どんな困難にぶつかっても、明るく積極的に「私はできるんだ、やるんだ」と内側から突き上げてくる力、やらざるをえなくさせる力です。これが聖霊の力です。

キリストは、「わたしは十字架にかかって死ぬが、今後はおまえたちのそばにあって助けるものがある。それは聖なる御霊である。この聖霊がおまえたちにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせる」と言われました。このような不思議な thought power(ソート パワー)が、聖霊による思想力です。

私は、この不思議な聖霊による思想力 thought power を知るまでは、実にみじめでした。自分のありったけの力を絞って祈っても、祈りがなかなか聴かれない。それである時から、もう「自分が信じる」ということもできなくなった。その時に自分を神様に明け渡して、「主様、もう私はだめです。どうぞ、いいようになさってください」と降参し、キリストの霊をわが胸に迎えまつるようになってからというもの、聖霊が働き、キリストなる我が、私の魂の中に突っ込んできて働くようになりました。そして、私がキリストの僕(しもべ)として、キリストのなさることに協力をするようになったら、一切合財が変わってまいりました。

これは、ただ伝道のことだけではありません。物質上の問題につきましても、この力が働く時に、すべての必要が満たされることを知りました。また、多くの病んでいる人、悩んでいる人、苦しんでいるような人たちがありましても、聖霊が、キリストに宿ったあの御霊が、私ごとき者にも宿って、それが滲み出るように放散しはじめると、不思議ないやしと救いがなされる。まことに聖書に書いてあるとおりです。

聖霊を内に住まわせよ

無門関(※注)』という禅の本の中に、「殻(かく)を出でて殻に入(い)ること、旅舎に宿(しゅく)するがごとし」とありますが、ヤドカリが殻から出てほかの殻に入るように、私たちの心にもいろいろな思いがやって来ては逃げ、やって来ては逃げます。私たちにとって、自分の胸の中にどのような思想や信仰を宿すかが問題です。私たちはその宿っているものの感化を受けるからです。

キリストは、「真理の御霊があなたがたのそばにおり、あなたがたの内におるだろう」と弟子たちに言われました。キリストの霊が私たちに内住し、私たちに感化を与えはじめますと、その感化には驚くべきものがあります。人から教えられずして教えられるのです。

自分の信仰を高めようと思って、あれをしてはいけない、これをしてはいけないといって禁欲するクリスチャンがいます。これに対してキリストは、「聖霊を住まわせよ。内住の聖霊がすべてのことを教え、すべてのことを導く」と言われます。偉大なものが私たちの胸の中に宿り、どんな不可能なことを願ってもかなうというような思想力、信じる力がやって来ると、もう何をしてはいけない、かにをしてはいけないなどと禁欲しません。

ここに、「最後の遺訓」においてイエス・キリストが懇々(こんこん)と、聖霊がおまえたちに宿ったならば、もう何もいらない、これが一切だ、と説きたもうた理由があります。

聖霊が、生命の水が、腹の中から川のごとくに流れ、自分の内に満ち満ちてあふれてくるまでになる時に、外側から否定の声をささやく悪魔も忍び寄れません。私たちに、この内に満ちたもう聖霊、キリストの御霊が躍如として働きだすならば、何も考えることはいりません。考えずとも最善のことがなってゆきます。この宗教経験は実に尊いものであります。

どうぞ、大きな願い、不可能を可能にすることを信じて救われていただきたい。私たちのキリストは、私たちが栄え、私たちが成功し、勝利することを願って、何でもなすと言われるからです。

(※注)無門関

中国南宋時代の禅僧・無門慧開(えかい)によって編纂された仏教書。釈迦(しゃか)や高僧らと弟子との問答が収められている。理屈では不可解なやり取りを通して、悟りに至らせる内容が多い。さらに無門がそれを批評した「評唱・頌(じゅ)」が付されている。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』816号 “Light of Life” に掲載されています。