先人たちの軌跡「ラーゲリより救われて」

ー映画を観て父娘で語るー

奥田直明・みよ子

戦後、ソ連によるシベリア抑留の体験を描いた『ラーゲリより愛を込めて』という映画が、昨年暮れから上映されて、多くの若者も観て涙しました。
この映画では、日本が敗戦し、ロシア語に秀でた主人公がソ連軍によりラーゲリ(強制収容所)へと連行されます。彼は、多くの日本兵と共に、極寒の大地で重労働と飢餓に耐え、仲間を励ましつづけた実在の人物です。
祖父がラーゲリからの生還者である本誌編集員の私もこの映画を観て、父娘で語り合いました。

 この映画は実話を元にしているけど、この歴史は知っていた?

 少しは知っていたけど、お父さんも私たちに話してないよね。

 機会がなかったから話さなかったけど、父さんのおじいさん、みよ子にとってのひいじいさんは、ラーゲリに抑留されていたんだよ。

 え、それは知らなかった。言ってくれたら、ひいおじいさんのことも思って観れたのに。

 先入観なしに観てほしかったんでね。それで、どう思った?

 ひいおじいさんの世代が体験した歴史なんだけど、今もありえることだと思って観たよ、ロシアがウクライナと戦争しているから。

 確かに、現在にも通じる話だね。当時、シベリアなどソ連各地やモンゴルに強制連行され、抑留された日本人は約60万人、亡くなられた方は約6万人だったんだ。

 ラーゲリで亡くなった人や生き残った人それぞれに人生があって、母や妻、子供への思いが観ている私にも伝わってきて泣けたよ。

 隣の席の若い人たちもラストシーンは感動して、鼻水ずるずるで泣いていたな。

シベリア抑留とは

1945年8月15日、大東亜戦争が終結する。しかしその1週間前、突如、日ソ中立条約を一方的に破棄したソビエト連邦(現在のロシア)が日本に宣戦布告した。
終戦後も満州や樺太(からふと)などに侵攻しつづけたソ連軍は、多くの日本人の将兵や民間人を捕らえ、強制収容所(ラーゲリ)に、労働力として連行した。
収容所の多くは、冬になれば零下40度にもなる地域にあり、抑留者は粗末な小屋に宿営させられ、食事も少量の黒パンや粥(かゆ)などしか与えられなかった。
森林の伐採や鉄道工事などの重労働と飢えや寒さで、最初の冬に4万人以上が亡くなったといわれる。抑留は最長で11年間続いた。

生き残りと洗脳

 ひどい生活環境で重労働させられて、日本人同士なのに、パンの取り合いで険悪になるシーンもあったね。

 映画では、黒パンと少しのお粥だったけど、ひいじいさんの体験では、食事がゆでた昆布だけの日もあったと言っていたよ。
40歳を超えていたひいじいさんは、若者たちに「生き延びたければ昆布はトロトロになるまでよく嚙(か)んで食べろ」と言ったそうだ。
でも、腹をすかした青年たちは、がっついて食べてしまい、消化不良を起こして衰弱し、倒れてしまった者もいたそうなんだ。

ラーゲリで集められる抑留者たち

 それってひどすぎる。映画の中でも「おれたちは家畜じゃない」と抑留者が叫んでいたけど、昆布だけなんて人間扱いじゃない!

 それに、洗脳もあったんだよ。ソ連は共産党の国だったから、このラーゲリで共産主義を日本人に教育していた。
当時の世界は、自由主義の国々と共産主義の国々とが、覇権を争いはじめていたんだ。だからソ連は、抑留者の60万人を教育して共産主義者に仕立て、日本に送り込もうとした。
それで、洗脳されたと見なされた人からダモイ(帰国)が許され、日本に帰ることができたんだ。

 極寒の中での重労働は知っていたけど、洗脳教育まであったなんて知らなかった。戦争の現実って戦闘だけでなく、人間の精神性まで変えてしまう恐ろしさがあるんだね。それで、ひいおじいさんも洗脳されちゃったの?

極寒の中での森林伐採

 兵隊ではなくて民間人だったひいじいさんなのに、どうしてかはわからないけど、すぐには帰国できなかったらしい。きっと日本人として、ソ連の洗脳に抵抗したんじゃないかな。

 主人公の山本幡男(やまもと はたお)も、日本人として俳句や歌、野球を通して周りの人たちの心をつないでいたし、一人ひとりに心を寄せていたね。

家族との再会を信じて

 山本が皆を元気づけるシーンは、感動して涙が出たよ。彼が、人は希望がなければ生きられない、と言う場面があったでしょう。

 絶望のラーゲリの中では、帰国という希望をもっていなければ、生きていけないよね。日本にいる家族も、一日も早い帰国を待っていたと思うよ。
映画では、夫の病死を知らされた妻が子供に「母さんは大丈夫」と言うでしょう。そして、庭の隅で泣く姿で私はまた泣けたな。

 そのシーン、父さんも泣けた。
ひいじいさんは幸い、生き抜いて帰国できたんだ。引揚船で舞鶴港に着き、実家がある福井にたどり着いた。その時ひいじいさんは、栄養失調で顔がどす黒く、紫色にはれ上がっていたそうだ。
実家の玄関先で倒れ、何日も死んだように寝たと言っていたよ。
体が回復して、家族が待つ札幌の家にようやく帰ることができたけど、再会を喜んだ妻は、1週間もしないうちに亡くなるんだ。
満州から子供4人を連れて帰国する時の過労で体を壊し、再会を待っていたように亡くなった。

 ラーゲリから帰れても、悲惨だったんだね。奥さんも死に、人生が大きく変わってしまって。

 そうだね。でもひいじいさんから話を聞きながら、ラーゲリから生きて帰れただけでもほんとうによかったと、父さんは思ったよ。

引揚船から岸壁に手を振る抑留者
シベリア抑留者が上陸した引揚桟橋(復元 舞鶴市)

信仰の家族の始まり

 うちは祖父の保(たもつ)じいちゃんから幕屋の信仰で生きるようになったと聞いているけど、ひいおじいさんのラーゲリ抑留と関係あるの?

 そうだね、直接的ではないけどそう言えるかもしれない。満州では何不自由なく暮らしていたわが家は、日本が敗戦し、ひいじいさんがラーゲリに連行され、大きく運命が狂ってしまったからね。
シベリアから帰還できたひいじいさんは、男手一つで子供たちを育てていくことになるんだ。
わが家は、北海道南部の日高町で開拓生活を始めた。ラーゲリを生き抜いたひいじいさんは、子供にも厳しかった。兄としてまだ年少の弟、妹たちの面倒を見ていた保じいちゃんは苦しんだんだ。
母親がいない家族で、愛情を受けられず毎日のように泣く弟妹たちを見ては、たまらなかったそうだ。
精神的に追い詰められ、いつしか自殺を考えるようになった。そんな時、キリスト教に出合うんだ。やがて、教会で結婚した。
後に『生命の光』を読むようになって、幕屋の集会に集い、そこで聖霊を受けて回心したんだよ。
もしこの時、保じいちゃんが自殺していたら、父さんも生まれていないし、みよ子もいないよね。
最悪と思える運命を、キリストは信仰で生きる人生へと変えてくださったんだ。

 ひいおじいさんは、それからどうなったの?

 ひいじいさんは仏教徒だったから、キリストを信じることはなかった。でも、晩年にがんを患い、余命わずかになった時、死の恐怖からか、保じいちゃんにこう言ったそうだよ、「おまえが信じている聖書を読んでくれないか」と。
保じいちゃんたちは、毎日聖書を読み、祈ったんだ。するとね、ひいじいさんは病室の天井を指さして、「光が見える、光が見えるだろう?」と言って、喜んで息を引き取っていったんだよ。
地獄のようなラーゲリを、ひいじいさんは耐え抜いた。そして人生の最後、死の恐怖からも、光を見て解放されたんだ。天の喜びの中で亡くなっていけたことはよかったなと、父さんは思うよ。

 そうだね。ひいおじいさんや映画の主人公だけでなく、多くの人がラーゲリで生き死にされたことで、今の日本があることを忘れちゃいけないし、感謝しないといけないと思ったよ。
今年も8月には、靖國(やすくに)神社に行こうね。ラーゲリのことも、もっと詳しく知りたいし。
今日は、ひいおじいさんの話を聞けてほんとうによかった。


本記事は、月刊誌『生命の光』845号 “Light of Life” に掲載されています。