エッセイ「巨星墜つ ―天への凱旋 富塚陽一兄―」 

長原 眞

「巨星墜(お)つ」。そういって、山形県庄内地方の新聞は、鶴岡市の元市長・富塚陽一さんの死を悼みました。

東京のような大都市に、経済や人口が集中し、地方都市が衰退していく中にあって、富塚さんが市長になって以来、鶴岡市はあらゆる面で変貌し、経済的にも発展、若者が定着しています。

かつて私が山形で伝道していた時、富塚さんは山形市にある県庁で、総務部長として活躍しておられました。とても温和な方でしたので、後年、名誉心や権力闘争の渦巻く政治の世界にどうして身を投じられたのか、私には大きななぞでした。

庄内の五十嵐熊蔵さん(東北における幕屋の初穂)のお宅で開かれる家庭集会には、富塚さんは、時間の許す限り参加されました。その行き帰りの片道2時間半の車中、鶴岡の素晴らしさや歴史、人物を私に語ってやみませんでした。富塚さんは、心底、鶴岡を愛しておられたのですね。

その時に、耳新しい言葉で「アルカディア構想」を何度も語られます。なんでも、明治11年のこと、イギリスの紀行作家イザベラ・バードが山形を訪れた時、「ここは東洋のアルカディアである」と言ったことに始まるといいます。アルカディアとは、昔、ギリシアにあった理想郷のことです。

たしかに、庄内平野に広がる田園風景と、それほど高くはないけれど雪を頂いて朝日に輝く月山(がっさん)を見ると、恵まれた自然環境があり、それに育まれた、素朴ではあるが芯のしっかりした人物が輩出する土壌であることがうかがわれます。

多くの人に推されて市長に就任した富塚さんは、永く心に抱いていた構想を次々と打ち出します。

単なる東京の模倣ではなく、地元の人たちの能力や可能性を引き出し、やる気を起こさせれば、そこにいろいろな人材が生まれ、魅力ある地域を創造できる。それが富塚さんのアルカディア構想でした。

その具体化の1つとして、慶應義塾大学の先端生命科学研究所を誘致しました。それが実を結び、産学1つになって新しい産業を生み出しつつあります。今や、人材を募集しなくても意欲ある若者がどんどん集まってきて、活気ある町になりました。

何よりも富塚さんは、郷土・鶴岡に対する深い愛情と、市民一人ひとりへの思いやりがありました。そして、多岐にわたる市民の身の回りの問題を解決するだけでなく、30年後を見据えた政策に、最初はさまざまな抵抗がありましたが、次第に多くの協力者が現れて、富塚さんを助けるようになりました。

幕屋のテレビ番組の制作で富塚さんをインタビューした時、富塚さんは、若き日に出会った佐藤定吉先生(元東北大学教授)のことを語ってくださいました。

「佐藤先生は、幼い愛娘を天に送るという悲しみの中で、『全東洋をキリストへ』との大使命に、大学での地位も財産もなげうって、立ち上がられた方です。 『キリストの僕(しもべ)となろう! 神の祭壇に霊肉を捧げよ!』、それは、絶叫に近いもので、泣かんばかりにお語りでした。私たち学生は、全身で燃えに燃えました」

富塚さんは、ご自分のもてるものすべてを注いで、鶴岡市のために捧げました。それは、佐藤先生のようにキリストを伝えるという直接伝道ではなかったかもしれません。けれども、悲しむ者、苦しむ者と共に生きようとした、その生涯もまた、キリストの僕としての生き方ではないでしょうか。

インタビューの最後に、「ひたすら己を無にして生きてください」と言われた言葉が忘れられません。


本記事は、月刊誌『生命の光』792号 “Light of Life” に掲載されています。