エッセイ「『神の国』の姿」

村山悦斎

新しい年を迎えました。

今年(2019年)は、今上陛下がご退位になられる、そう思うと、誰しも陛下の御徳を慕い、平成の日々を振り返っては、感慨を深くしていることでしょう。

ソ連の崩壊やアメリカ同時多発テロ、地下鉄サリン事件など、平成は歴史に刻まれる出来事が多くあった年月でした。それだけに昭和は、今や隔世の感があります。まさに、昭和は遠くなりにけり、です。

世が昭和から平成に改まったのは、私が大学生の頃のことでした。剣璽(けんじ)等承継の儀から、大嘗祭(だいじょうさい)に至るまで、古式ゆかしい皇位継承の儀の数々を、メディアを通じて見聞きしました。日本史を専攻していて、多くの同世代よりはご皇室に関心を抱いていましたが、世界で最も長く続くご皇室のありがたさ、尊さを、知識ではなく肌で感じることができました。そして、歴史豊かなこの国に生まれた幸いを覚えました。それはきっと、私だけではなかっただろうと思います。

それ以来、皇居の一般参賀などの機会に、遠くからでも陛下のお姿を拝すると、込み上げる感激と涙をどうすることもできません。

平成にはまた、阪神淡路大震災、東日本大震災など、実にさまざまな災害が起こりました。そのたびに私たちは、被災地に赴かれ、被災者に親しくお近づきになられる陛下のお姿を拝見してきました。心に沁みる励ましのお言葉を漏れ聞くと、直接の被災者ではない私のような者も、ありがたくてなりませんでした。

皇太子殿下がご皇位を継承なさいます今年、私たちはご皇室を戴くこの国に生まれた幸いを、改めて深く覚えることでしょう。

聖書でいう「国」とは

日本人は、ご皇室を敬う気持ちの強い国民です。また私は、聖書を愛読し、その信仰に生きる者としても、ご皇室の存在はまことにありがたいと思います。

イエス・キリストは、伝道の初めに、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ伝1章15節)と言われました。

今の時代に「国」というと、多くの人は共和国のような姿を思い浮かべるかもしれません。しかし聖書で国という言葉は、旧約の原語のヘブライ語でも、新約のギリシア語でも、王という言葉から派生した語です。聖書においては王様のいない国は想定されていません。キリストも、もちろん王様の支配する国という意味で、国という言葉を使っておられるのです。

つまり、「神の国」というときに、民主的な選挙によって代表者を選ぶ、という国ではなく、神が絶対的な支配者として君臨し、統治したもう国を指すのです。

私たちは、支配されると思うと、なんだか嬉しくない気がするかもしれません。けれど、神は世の支配者とは違い、ただ愛によって支配したもう統治者でいらっしゃるので、私たち治められる民にとって、幸せは尽きることがない、それが神の国なのです。

天の映し絵として

愛によって治めたもう絶対的な統治者といわれても、多くの国では、それがどのようなものか思い描くことは難しいかもしれません。共和国はそのような政治形態ではありませんし、絶対的な統治者とはいっても、あるいは無慈悲な独裁者に支配されて、辛い日々を送る国民もあることでしょう。

けれど、幸いなことに日本には、天皇陛下がいらっしゃいます。今は統治こそなさいませんが、仁愛をもって民と苦楽を共にし、民の安寧をお祈りくださる、陛下というご存在のありがたさを実感する。これは、日本人の大きな特権です。

天皇陛下を戴く国柄に、私たちは聖書のいう「神の国」の姿を偲ぶことができます。ご皇室とわが国が未来永劫(えいごう)続いていくことは、日本国民としてのみならず、聖書の信仰が正しく後世に伝えられるうえでも、かけがえのないほど大事なことだと思います。

年頭に当たり、天の映し絵として、日本国がいつまでも存在しつづけることを祈念いたします。


本記事は、月刊誌『生命の光』792号 “Light of Life” に掲載されています。