聖書講話「福音の成就」使徒行伝2章15~24節


イエス・キリストの昇天後、残された弟子たちが熱心に祈り合っていると、奇しくもペンテコステ(注1)の日に不思議な宗教現象が起きました。皆が神の霊、聖霊に満たされて、口からは賛美が不思議な言葉で、異言(いげん)の状態で噴き出てたまらない。こういう霊的状況になった時に、部外の人々は「彼らはぶどう酒で酔っぱらっているのだ」と批評しました。

なるほど、他人(ひと)の目にはそう見えたかもしれません。しかし、筆頭の弟子ペテロは立ち上がって、ペンテコステに起きた宗教経験の真意について語っております。

「……この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕(しもべ)たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう』」

使徒行伝2章15~18節

ペテロは旧約の預言者ヨエルの預言を引いて説明しています。ここで、神は終わりの日に、ご自分の霊を、神ご自身しかもっていない生命をすべての人に注がれる、とあります。

そして、神の霊が私たちに注ぎ出される時に、「あなたがたのむすこ娘は預言をする」とある。「預言する」とは、神の言葉を語る、という意味です。神の言葉が口から噴き出し、わいてたまらないという状況を経験したのが、真の聖書の預言者たちであります。また、私たちもそうでなければなりません。

ただそれだけでない。「若者たちは幻を見る」とあります。この幻とは、幻覚や幻聴という意味ではありません。霊的なものは目に見えないが、見えないはずのものが見えるような状況になることをいいます。何かの時に、今までは見えなかった神や天使の姿が急に見えだす。ペテロやパウロたちがこの出来事を経験しています。

「老人たちは夢を見る」。これは単なる夢ではありません、正夢です。私は、人生において何度か正夢に助けられたことがあります。夢に助ける者が現れて「こうせよ」と言う時、「ああ、そうですか」と即座に行動に移すと、不思議に成功したことでした。

イエスの父ヨセフは、夢に天使が現れて「さあ、危険が迫っているからエジプトに逃げよ」と言われ、幼な子イエスとその母マリヤを連れて逃げ出しました。そして助かった(マタイ福音書2章)。昔の人々がもっていたのに、今の人々が失ってしまっている感覚を回復せしめるのは、聖霊の働きであります。そうすると、未来を予知することができます。

「その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう」。この「僕」というのは、「奴隷」という意味です。男奴隷、女奴隷の上にも、聖霊が、神の御霊が注がれるであろう。その時に、貧しい者は富める者となり、乏しい者も「何もなくていい。これさえ得られれば、もう人間として最高の喜びです」と言ってはばからないようになります。 

天にかかる虹(イスラエル・ガリラヤ湖畔)

(注1)ペンテコステ

ギリシア語で「第50」を意味する言葉で、ユダヤ教の三大祭りの一つ、「七週の祭」のこと。過越の祭から50日目に当たる、春から初夏のころに祝われる。五旬節とも。キリスト教では聖霊降臨の時とされる。

福音に歓喜する人々

先週の木曜日、私は急に思い立って島根県の隠岐島(おきのしま)に行きました。隠岐には主な4つの島がありますが、そのうちいちばん本土に近い、知夫里島(ちぶりじま)という島があります。そこに、代々庄屋(しょうや)として続いた名家の、渡辺弁治郎さんという98歳になる方がおられます。

この方は明治33年(1900年)、28~29歳の若いころ、志を立ててアメリカに渡り、シアトル方面でいちごなどの農園を経営して成功されました。高齢になって帰国し、故郷の隠岐にアメリカで知ったキリストの福音を伝えようと決心された。10年間は、いろいろな教会の牧師さんを呼んできて伝道してもらったが、全然信者はできませんでした。

8年前、初めて幕屋に触れて、何とかこの原始福音を、この不思議な神の生命を伝えようと祈りつづけられるようになった。しかし、田舎の島ですから、キリスト教などと言ったら、皆が馬鹿にする。しかも、一番に妨害するのが近親の者たちでした。

ようやく数名の人たちが集まるようになったので、私はここで学んでいた若い竹内洋司君を送ったわけです。最初は受け入れられませんでしたが、この10カ月、次々と人が集まるようになり、彼の伝道が実を結びつつあるのを見て、私はうれしいでした。彼は夜間高校を卒業して働いている時に、機械に片腕を挟まれ、右腕を奪われて絶望に泣いていました。その真っ暗闇の中で発見したのが、この福音です。そして今では、お母さんも兄弟も共に、信仰に導かれて喜んでいる。彼が言うのに、「神様は私をひどい目にお遭わせになっても、いちばん大事なものを教えてくださった。貴神(あなた)の御名をほめ賛えます」と。

島に行く日は、前日まで荒れ狂って船も欠航になった海が、まるで穏やかに静まり返っていました。関西や山陰の教友と共に着いたら、やって来られた島の皆さんが泣きながら、口々に「うれしい! ありがたい」とおっしゃる。そして一晩の集会が終わりますと、渡辺さんも、「ほんとうによかった」と老いの目に涙をいっぱいためて喜んでおられるんです。

私は、いつ亡くなられるかもわからぬ高齢の渡辺さんが、一生の悲願として始められたこのことに、お礼を申し上げたい。そのためにお訪ねするのが目的だったんです。

私は何者でもないのに、なぜこういうことを貴神(あなた)はなさるのですか。私は船の中でいろいろ考えてみるんです。人は私が何者かであるように思っておられるが、まあずいぶんな誤解というものです。だが信仰のあるところ、求めの切なるところ、神は今も不思議に働き、人々の魂を潤してやみたまわない。このことを見て、切に実感しました。

ペンテコステの経験を、ペテロは2章25節以下にダビデのうたった詩篇16篇を引用して、こう言っております。

「ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう』」

使徒行伝2章25~26節

「わたしの舌はよろこび歌う」というのは、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、霊歌でもわき出るような状況をいうのでしょう。また、「わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう」の「生きる」は、原文では「κατασκηνοω カタスケーノオー 宿る」という字です。あの隠岐島で出会った皆さん方が、心も、口から出る言葉も、体も、ほんとうに望みに宿るといいましょうか、妙なる喜びに満たされた状況になられる。一体これは何だろうか。これを”福音”というのであります。

神の約束

キリストの宗教は「福音」と称されます。新約聖書には4つの福音書がありますが、それぞれ、イエス・キリストの伝道の生涯について記し、最後にイエスが十字架にかかり、しかしよみがえられたという、3つのポイントを述べています。イエスがいかに不思議な生涯を繰り広げられたか! このキリスト・イエス、ただ者でない人間の出現! この方にあやかろうとするところに、弟子たる私たちの学びがあります。

しかし、この超人ともいうべき神の人キリストが、十字架という極刑に処せられた。ところが、死んだと思ったキリストが復活して、今も生きて働いておられる──これを説いているものが、福音書であります。福音書の大きな主眼点はそれです。

さらに使徒行伝では、キリストは天に上げられる前に、懇々(こんこん)と弟子たちに「エルサレムに留(とど)まって、父なる神の約束を待つように」と言われた。その約束とは何か。「ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を施して、『悔い改めよ』と言って道徳的な悔い改めを説いたが、おまえたちは聖霊にバプテスマされるであろう。その時に不思議な力を受けるであろう」と約束された(使徒行伝1章4~8節)。新約聖書というけれども、これが新約の完成であり、福音の成就であります。この域に達しなければ、ほんとうに福音の信者とはいえません。

そうでなければ、福音というものは非常に難しい道となります。福音書の中の「なんじの敵を愛せよ」などという「山上の垂訓(注2)」の素晴らしい教えには、だれでも感動します。しかし、それをただ模範にして実践しようと思うと、大概の人が苦しむんです。

ロシアの文豪トルストイは、山上の垂訓を非常に愛読して、最高の倫理道徳と見て、それを地で行こうとしました。それで、家庭を顧みず、妻ともたびたび別居して聖別された生活をしようと試みましたが、家出の途上で行き倒れ、さびしく死んでゆきました。別居された妻は、彼を恨んで死にました。理想を掲げることはよい。キリストの弟子たる者は、キリストの弟子らしく生きなければなりません。しかし、トルストイや彼に感化された人たちを見ていると、福音とは非常に難しいなあ、という感じがいたします。

そのうえ理解困難なのは、あんなに立派な尊い生涯を送られたイエス・キリストが、当時の宗教家から、否、自分の愛した弟子ユダから裏切られ、ローマの兵隊の手によって十字架につけられて死んでしまう。こういう出来事はほんとうに不可解です。

十字架は悲しい出来事です。しかし、もしキリストが、殺されるのは嫌だと言って、十字架を回避されたとしたら、キリストの宗教は完成しませんでした。十字架にかかりえるというのは、英雄か、よほどの勇気ある人でなければ歩けない道です。十字架の道ほど強い道はありません。

ここに福音の一つの面があります。そして、ただ十字架上のイエス・キリストを仰ぐだけではありません。その御血汐(おんちしお)を身に受けてキリストの十字架を負う精神、これを与えるものが真の福音であります。さらに、キリストは死んでも死にたまわず、復活して生きておられることを証明された。キリストの内にたぎっていた永遠の生命、復活の生命のゆえである。これを説くのが福音書です。

(注2)山上の垂訓

マタイ福音書5~7章で、イエス・キリストがその弟子たちに語られた教え。「幸いなるかな!」という祝福の言葉を伴う8つの章句から始まり、神の国に新生した信仰者の生き方について教えている。

本当の社会変革の力とは

「『また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』」

使徒行伝2章19~21節

ここでペテロが、さらにヨエルの預言を引いて語っています。この「天」とは、霊界のこと、この見ゆる世界、物理的な宇宙以外の世界という意味です。「しるし」とは何かというと、「血と火と立ちこめる煙」が起こるであろう、とあります。

この「しるし」とは戦争が起きることだと、聖書がわからない人は解釈します。だが、ユダヤ教の神学によれば、これは神の臨在が目に見ゆるようにありありと顕(あらわ)れた、シェキナー(注3)状況のことをいうのであって、戦争が起きるという意味ではありません。

新しい世界が出現する時に、こういうシェキナー状況というものが伴う。ペンテコステの時には、嵐のように、火がメラメラと燃ゆるように、聖霊が皆の者の上に乗り移ったと使徒行伝2章には書いてある。それを指すのです。「天には不思議が、地上ではしるしが起こる」、こういうシェキナー状況が起きるところに、天上で何か異変が起こりつつあるのがわかるというのです。

今、いろいろな人たちが革命ということを論じたり、学生が革命騒ぎをやっていますが、京都大学名誉教授の田中美知太郎という哲学者が言っています、「革命はもとは中国でも西洋でも、天上の変化──あるいはむしろその周期的変化をさす言葉から由来したものであり、人間の意志から独立した天意、あるいは宇宙的な必然の考えにもとづくものと言うことができるだろう」と。革命とは元来、人間のやれるものでない。天上界に異変が起こり、天の周期が変わりはじめる時に、地上にもその影響が現れて革命が起きるんですね。天が革(あらた)まらない限り、革命は起きない。自分自身を革命できない人間たちが、どうしてこの世を変えたりできるものですか。全学連の学生たちを見ていたらわかります。自分自身がなっていないで、乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)して世の中が変わるものか! 思い上がりもひどすぎる。

天が変わる時に、地が変わり、人が変わるんです。これがペンテコステの出来事です。この20世紀の後半、終戦後に私たちのような宗教運動が起きはじめて、もう一度、聖書を読み直し、聖書に照らして「この信仰、この原始福音」と言いだす時に、人は信じないかもしれません。しかし、このような無学な者たちに神の霊が注がれるとは、これは神ご自身がなさることであって、人間が何かしようと思って起きたことではないですね。

先日も皆さんのお証しを聞くと、「こんなつまらない自分を、神様はなぜ一方的にお選びになったのでしょうか」とおっしゃって、魂の新生の喜び、救いの感謝を語られます。

これは神の選びが私たちをそうさせるのであって、本当の革命は、まずこのように”人間革命”から起きるべきです。人間革命を起こしていない者が、どうして新しい世の立て直しなどできるものですか。キリストの宗教は、天に革命が、異変が起きて、地上にペンテコステ的現象が起きる、ということを申すのであります。

(注3)シェキナー

元は、「住居、定住」を意味するヘブライ語。ユダヤ教において、「神の臨在」を表す。

ありありとキリストは共に

「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」

使徒行伝2章22~24節

イエスのご生涯は実に素晴らしいものであった。それはなぜか。ヨルダン川において洗礼(バプテスマ)を受けた時、天よりの御霊が鳩のごとくイエスに降(くだ)ったからです。

ここでペテロは、「その生涯を通して、数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神から遣わされた救世主(メシア)であることが証しされたのだ」と申しています。このイエスは十字架にかからねばなりませんでした。十字架の犠牲となって、犠牲の血を注ぐことが大きなキリストの使命であった。キリストの血とは、神の霊的生命です。この生命の血を受け取るところに、私たちの魂の生き返りがあります。

キリストは十字架で終わりではありません。もし十字架の出来事で終わってしまうなら、実に悲しい宗教です。今のカトリックのように、十字架のイエス像を、またマリヤの像を刻んでそれを礼拝しておるだけならば、ほんとうに悲しい宗教です。しかし、「イエスは死にたまわず! 見よ、よみがえりたまえり」と、キリストは復活によって永遠の生命を明らかにされた。これが福音の眼目であります。

今も主は生きていましたもう! 今も主は生きていましたもう! しかし「そうかしら、そんなことがあるかしら」と言って、普通のクリスチャンは信じません。だが聖書には、「しばしばキリストは姿を現した」と書いてあるではないか。キリストは今も現れたもう。そして、私たちは不思議な選びによって、御霊注ぎによって救われた者たちであります。

ペテロは、ペンテコステの経験を、「わたしの心は楽しみ、わたしの舌は歓び躍る」と言っております。どうしてかというと、「主が、キリストが、わが目の前にありありとおられるからである」と言う。こういう実感! キリスト教とは、遠い2000年前のイエス・キリストの歴史神学を勉強したり、今の教理的な、客観的な神学を研究したりすることではない。宗教経験とは、神にありありと出会う経験じゃないですか!

「神様、今ここに! 私はあなたの前に立つ」とダビデが詩篇で語っている経験──これをペテロはイエスに当てはめて解釈しました。神が私の”右”に立っておられる! というのは、よほどはっきりとした実感でしょう。「左でも右でも後ろでも、まあどこでもいいですよ」とは言わない。「わが右におられる」と言う。この「右」は”力”を象徴的に表す言葉ですけれども、ただの比喩じゃありません。霊的に高揚してきますと、神がありありと自分のそばにおられることを感ずる。しかも「右に」とでも言いたいぐらいに、です。

私たちが、目の前に主を見たてまつるように実感する信仰をもつに至るためには、どうしてもペンテコステ的経験をくぐらなければならない。ペテロはそれを言おうとしているのです。異言を語るなどの現象は、二の次です。大事なことは、もううれしくてうれしくてたまらない、わが舌は歓び躍るというほどの回心(コンバージョン)の経験を得ることです。

復活のキリストが、ただ時々、私たちに来たりたもうのではたまりません。いつまでもコンスタントに、キリストと共に歩く生涯。それには、上よりの御霊がこの肉なるものに注がれて、ほんとうに新しい人に変わる経験が大事です。

(1970年)


本記事は、月刊誌『生命の光』867号 “Light of Life” に掲載されています。

日々の祈り

前の記事

6月1日
日々の祈り

次の記事

6月3日New!!