エッセイ「短冊に書いた祈り」

―心に距離があった父への想い―

神南一宇(かんないちう)

ささの葉さーらさら のきばにゆれる♫

七夕になると、一昨年の夏にわが家の子供たちが書いた、七夕飾りの短冊を思い出します。その一つには「おじいちゃんが無事に天国に行けますように」とありました。

父の生い立ち

父は、生まれて間もなく母親と離されることになり、村の中でもらい乳をしながら育てられた、といいます。ですから、母の愛というものを知らずに育ちました。小学生のころからは養子先で暮らすことになり、寂しい生い立ちでした。

成人した父は、幕屋の人が経営していた商店で働きはじめたことがきっかけで、幕屋に集うようになりました。でも、信仰に熱心なほうではなかったそうです。

私が覚えている父は、寡黙な姿ばかりで、わが家は母が私たち姉弟を育ててくれた印象です。私たちに対して、父親として口出しすることはほとんどありませんでした。

父は子供時代、親や周囲の大人から愛された記憶が薄かったせいか、子供たちに接するすべを知らなかったのだろうと、今になって思います。

東京で結婚し、長く実家に帰っていなかった私は、ある夏、小学生になった3人の子供たちを連れて、家族で大阪の父母のもとに行きました。父は、孫をどう迎えたらいいかわからないようで、子供たちもなかなか近づきません。

でも、末っ子だけは父とノリが合うようでした。皆で海浜公園に向かう車の中で父が演歌を口ずさむと、そのモノマネをしては一緒に笑い合っています。

父はよほどうれしかったのか、一日じゅうニコニコ顔で、二人は楽しそうにじゃれ合っていました。でも、孫との出会いは、この時が最初で最後になってしまいました。

私の知らなかった父

一昨年の夏、父は病が悪化して、危篤になりました。私は大阪の病院に駆けつけ、集中治療室で父に手を按(お)いて祈りました。父の最期を覚悟した母と私は、光の世界に行けるよう、必死にキリストに祈ったのです。

私が東京に帰った数日後、母からメールが来ました。そこには、意識が戻った父が、出ない声を振り絞って言った言葉が書いてありました、「キリストと、末(すえ)ちゃんが好きやねん」と。

わが家で父のことを祈っていたのは、ちょうど七夕のころでした。末の子が短冊に「おじいちゃんが無事に天国に行けますように」と書いたのです。普通でしたら「長生きして」とか「元気になりますように」とか書くのでしょうけれど。

「天国に行けますように」と書いたのは、家族で祈りつづけ、祖父の最期を感じ取った子供の、精いっぱいの愛情表現だったのだと思います。

父が息を引き取った後、私は葬儀の準備をしようと父の聖書を開きました。すると驚いたことに、たくさんの箇所に赤線が引いてあって、父自身が聖句を書いた紙も挟まれていたのです。

見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

コリント人への第二の手紙4章18節

父が聖書を深く読んでいたとは知りませんでした。見えるところ寡黙な父は、神様を求めてはいないかのように、私は思っていました。でも、見えない永遠の生命を、父は慕っていたのです。

棺を蓋(おお)いて事定まる、といいますが、私の知らない父がそこにいました。父が求めていた「見えないもの」が祝福となって、私や孫たちに続いているということが、この聖句でわかりました。

父を送る葬儀は明るく、そこには勝利感があふれていました。あの短冊に見送られるようにして、父は天国に行けたのだと思います。


神南一宇
大阪生まれの大阪育ちだが、今は東京で内装業を営む。笑顔がすてきな47歳。


本記事は、月刊誌『生命の光』845号 “Light of Life” に掲載されています。