母の日によせて「愛がなければ子供は育たない」

藤本路子

私は、今、児童養護施設で働いています。2歳から18歳までの100人ほどの施設です。生まれてから一度も親に会えない子もいますし、親に養育する力がなかったり、親が薬物中毒だったり、親から虐待を受けたりして保護されてきた子が多いです。

親から虐待されてきた子が親になった時、わが子をどう育てていいのかわからないのですね。それでつい子供を虐待してしまう。そういった負の連鎖もあるのです。虐待されてきた子は、脳にダメージを受けていたり、トラウマになっていたりするので集中力に欠けていて、学校の勉強についていけないことも多いです。でも、中には立派に成長する子もいます。

昔は、親が亡くなって、誰も面倒を見てくれる人がいないので、やむなく施設に預けられるケースが多かったのですが、それまで親が十分愛情を注いで育てているので、子供はしっかりしていました。根っこがしっかりしているというのでしょうか、そういう子は社会に出ても、一人前の大人として生きていけます。

ところが、虐待やネグレクト(育児放棄)で施設に預けられた子は、その根っこがない状態なのです。十分な愛情を受けていないので精神的に幼いです。根気よく、健全な発達を促す必要があります。今は国の保護が手厚いので物には恵まれていますが、子供にいちばん必要なのは、親や親に代わる大人の愛情ですね。

施設の子供たちは、みんな愛情に飢えています。職員は、ほんとうによくやっています。けれども仕事が多岐にわたっているので、みんなへとへとです。

あるケースでは、「子供の面倒を見ます」と言って親が引き取っていきましたが、家に帰っても子供は愛情に満ちた家庭生活が得られなくて、不登校になってしまった。それで結局、親の虐待が再発し、他の施設に再入所しました。

自分が好きなように生きたいから子供がじゃまだ、というような親がいるのを見る時、私は、育ててくれた母のことをいつも思い出します。

「死にに行け」

母は、若い時に回心し、勘当覚悟で熊本の手島郁郎先生の許に信仰を学びに行きました。当時の熊本幕屋は少数の集まりでした。でもお互いに愛し合い、真剣に学んでいました。その中からは、若い人たちが命がけで次々と伝道に出ていきました。

ある日、先生から「大分の開拓地で、奥さんに死なれ、赤ちゃんを抱えて泣いている男の人がいる」と言われたそうです。母は「えっ、私がそこに嫁ぐの?」と思ったけれど、キリストの御愛を思い、また愛して導いてくださった尊敬する先生の期待を裏切ることはできないと、この結婚を受ける決心をしました。

結婚誓約式での先生のはなむけの言葉は、「お幸せに!」ではなく、「死にに行け」だったそうです。

乳児院に預けられていた私は家に戻され、新しい母から実の子のように愛されました。物心ついた時から、私は母の苦労を身近で見てきました。父は、家族を養うために働くということが苦手な人でした。お金がなければ、寝ておく、という感じでした。

母は、左官仕事の現場で男の人に交じって仕事をしたり、縫製工場で、立ちっぱなしで重いスチームアイロンを使って、よくやけどしながらアイロンがけの仕事をしたりしていました。低賃金でしたが、なんとか私たち家族を養っていました。

手島先生は「死にに行け」と言われたけれど、伝道志願の青年にわが家のようすを見に来させられました。そして、「大変なところです」と聞くと、先生は奥さんを通して、手紙と一緒に衣類や、生活に必要な物や、子供のおもちゃなどを送ってくださいました。

家計が苦しいので、幕屋の聖会になかなか参加できません。でも手島先生の最後となった聖会には、家族揃って出席できました。こういう機会はもうないかもしれないと思って、母は重労働しながらですが、断食して心の備えをしていました。

その聖会の、徹夜の祈り会の時、母は、天の世界にバーンと入れられ、幕屋の未来をパノラマのように見せられたんですね。あまりの異象に圧倒されて、そのことはしばらく誰にも言えなかったそうです。

私はその時、高校1年生でしたが、その祈り会から出てきた母は、天国から抜け出てきたように輝いていて、娘の目から見ても驚くような姿でした。一筋に求めてきた母への、キリストの憐れみだったのですね。

命を捨てる愛

私も結婚し、子供が与えられて、母の苦労がひとしお身近に感じられます。実家に帰った時、母は自分が認知症になる、と予感したみたいで、「母ちゃんは何もわからなくなると思うので、今のうちに話す」と言って、幕屋の初期の、熊本時代のこと、手島先生のこと、今日までどんなに神様に助けられてきたかを話してくれました。そして最後に、「私は幕屋のために何もできなかった。けれども、誰に認められなくてもいい、神様はすべてを知っておられる。死ぬ時にキリストが『よくやった』と言ってくださるなら、それで十分」と言いました。

子供たちのために身を粉にして働いた母でした。地上で報いられることは少なかったと思います。

母の告別式の時、伝道者の奥さんが、お別れの言葉を述べようとして棺の前に立ったら、圧倒するような天の雰囲気に覆われて、どんなに母がキリストに愛されていたかを知った、と言われました。

母が遺した聖書には、「人その友のために命を捨てる。これより大いなる愛はない」という聖句が記されていました。

私が生まれた時、手島先生は、「汝神(なんじ)の聖言(みことば)はわが足の燈火(ともしび)、わが路(みち)の光なり」(詩篇119篇105節)より「路子」という名前をつけてくださいました。

「心を清め、神の声を聞いて路を歩む」、これが、私の本願になりました。

母のように、今、働いている施設で、神様から頂いた愛で子供たちに接していきます。


本記事は、月刊誌『生命の光』796月号 “Light of Life” に掲載されています。