激情の人イエスの信仰 第1回

今日はヨハネ伝11章21節から読みます。前回に続くラザロの復活の記事です。復活という驚くべき奇跡がどのようにして起こったか。ここに、イエス・キリストの人柄と、奇跡を惹き起こすような信仰が書かれております。

イエス・キリストが愛しておられた、マルタ、マリヤの弟ラザロが死にました。イエスはラザロが危篤状態であるのを知りながら、なおも数日ぐずぐずされ、やっとエルサレムの近くにあるベタニヤ村まで行かれました。イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに4日間も墓の中に置かれていて、大勢のユダヤ人が、マルタとマリヤとを慰めようとして来ておりました。マルタはイエスを出迎えに行きましたが、マリヤは家で座っておりました。

マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。

(ヨハネ伝11章21~29節)

我は蘇りなり

ここで、マルタにしてもマリヤにしても、「主よ、あなたが私たちと一緒にいたら、弟ラザロは死なずに済んだのに。しかし、もう手後れです」と言いました。

するとイエスは「手後れでも何でもない。わたしは蘇りであり、生命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は死を知らないだろう。おまえはそれを信じることができるか」と、不思議なことを言われました。けれども、マルタやマリヤにはなかなか通じません。マルタは、「あなたは来たるべきキリストで、神の子であると信じております」と答えましたが、それはいまだ頭での理解で、どうしてもイエスの言葉どおりに、「そうです。あなたは蘇りです、生命です」とは言いきれない。

ここにイエス・キリストの宗教的境地と、マルタ、マリヤの気持ちとの食い違いというものがあります。

聖書がいう「信じる」とは

私たちにも同様のことがあるのではないか。キリストの言われることに、「そうです」と信じることができるかどうか。私たちはキリストの弟子と言いながら、キリストのもちたもうような信仰をもっているかどうか。「キリストは蘇りであり、生命である」ということが、しみじみ感じられる人の信仰と、理屈としてしかわからない人の信仰とでは大きな違いがあります。

宗教というのはなかなか難しいものでして、結局お一人おひとりが自分で悟る以外ありません。キリストのもちたもうた信仰に対して、マルタ、マリヤ、また私たちがもっている信仰には大きな開きがある。しかし、開きがある、では済みません。私たちはせっかく聖書を学ぶ者であるならば、キリストから「そうだ」と言われるような信仰を、お互い掴みたい。

イエスが「わたしはキリスト(救世主)である」と言われるのならわかります。しかし、「わたしは蘇りであり、生命である」と言われる。すなわちイエス・キリストの内側には、普通の人間のような死ぬべき我ではない。死んでも死なない我がある、と言われるのです。この我に信じ、これに触れるならば、永遠に生きる、というのです。

聖書がいう「信じる」という言葉は、ただ私たちが「見えないものを信じる」ということとは違います。確実な実在をありありと実感して信じる、という意味です。ここに、西洋キリスト教が教えるような、教義的に宗教の理屈を「信じる」こととの違いがあります。マルタもマリヤもラザロも、驚くべき霊的実在に触れました。そして救われました。

(1963年)