楠木正成・正行父子の足跡をたどる【ミニ動画つき】

「A Psalm of Life 人生の詩篇」第8連によせて 偉大な足跡を残す生涯

【動画再生時間:2分5秒】

2人の若者が触れたもの

ぼくは今、大学で学びながら、手島郁郎先生の英詩講話『人生の詩篇』を読んで励まされています。それは、手島先生が吉野山で語られた講話で、その第8連に「崇高な足跡」を残した人として、楠木正行(くすのきまさつら) の名前が出てきます。

なぜ、楠木正行が崇高な足跡を残した人と言われるのか? 正行と父親である楠木正成(まさしげ)の足跡を、友人のN.Y. さんと一緒に、たどることにしました。

皇居外苑の楠公像の前にて

最初、2人は楠木正成が生まれた千早赤阪村(ちはやあかさかむら)を訪れた。大阪府といっても、山間(やまあい)の棚田が美しい、雰囲気のある田舎で、そこに千早城跡がある。

今からおよそ700年前、世の中のほとんどが、絶大な権力を誇る鎌倉幕府(北条氏)に従った時代に、楠木正成は違った。民を想い、乱れた国を憂えた後醍醐(ごだいご)天皇に従い、討幕のため立ち上がった。

日本じゅうを敵に回して、わずか1000人で立てこもったのが、ここ千早城である。今は石段になっている急な山道を、彼らは登った。(編集部)

千早城跡に続く石段

千早城跡に続く石段は、とても急で、攻めることの難しさを物語っている。

千早城跡に吹いた風

1000人の楠木軍に対して、幕府軍は数十万人いたんだって。

数十万! かなり無謀な戦いですよね?

無名の豪族だった正成が、ある時、後醍醐天皇に召し出された。ほかにもお声のかかった武将はいたけれど、立ち上がったのは、正成だけという状況だったみたい。正成自身が、自分の天命みたいなものを求めていたのか、とにかく後醍醐天皇との出会いが、正成の心に火花を散らしたのだと思う。

そして、ここでの命がけの戦いが半年近くも続いて、ついに日本じゅうが討幕という流れとなっていったんだって。

まさに歴史が動いた場所ですね。ここは静かだけれど、何か激しいものを感じます。正成や兵たちが確かにここにいた、という力みたいなもの。当時の国を動かしてしまうようなエネルギーが、まだここにある気がします。

ぼくは楠木親子について、学校ではネガティブな見方を教えられたので、あまりいいイメージがありませんでした。

でもさっき、静けさの中、清らかな風が体を吹き抜けていった時に、厳粛なものを感じました。

凛(りん)としたものがこの場に覆っているのを、ぼくも感じる。ここにいると、日本人の中に流れている尊い精神が、今も自分の中に脈打ってる気がするね。

千早城本丸跡

奈良県吉野へ

その後も2人は、正成の足跡をたどった。後醍醐天皇に召し出された笠置山(かさぎやま)。朝廷に反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)の大軍との戦いに向かう前、わが子・正行と今生の別れをした桜井の駅跡……。

そこから彼らは吉野山を訪れた。

吉野には、山いっぱいの桜が咲き誇る

桜井の別れの後、正成は、湊川(みなとがわ)の合戦で敗れて自刃していくんですよね。そしていよいよ、父・正成の志を継いだ、楠木正行の登場。

足利の世になってしまったため、後醍醐天皇は京都を離れ、朝廷をここ吉野に置いたんですね。

そう、そしてここ吉野には正行にまつわる話がある。

後醍醐天皇の後、天皇の位を継がれた後村上天皇は、立派に成長した正行に、ご自分に仕えていた美しい女官、弁内侍(べんのないし)を娶(めと)らせようとされたんだって。でも正行は、

とても世に永らふべくもあらぬ身の 仮りのちぎりをいかで結ばん
(とてもこの世では長く生きることなどできない身でありながら、仮の契〔ちぎ〕りをどうして結べましょうか)

という歌をもって断る。戦乱の世、自分が戦(いくさ)で死んで、一人残される弁内侍のことを思うと、婚約はできなかったらしい。

その正行の優しさ、そして、自分の幸せより、父・正成の使命を大切にして、それを継いだ心が、かっこよすぎる!

正行は最後、正成と同じように、何万という足利方の大軍に対して、わずかな兵を率いて戦いに向かった。

そしてこの如意輪堂(にょいりんどう)の扉に、矢じりで辞世の句を書き残したといわれている。

かへらじとかねて思へば梓弓(あづさゆみ) なき数に入る名をぞとどむる
(生きて帰ることはないと決心しているので、死んでゆく者として名を書き留める)

正行はこの時、まだ23歳。ここに立つと、この辞世の句を残した正行の姿が目に浮かぶし、胸が熱くなります。

出陣の前、正行は如意輪堂の扉に辞世の句を矢じりで刻み、一族郎党、髪を切って遺髪とし、死者の帳簿に名前を書き連ねた。正行の死後、弁内侍は尼となり、正行の菩提をとむらった。

四條畷で旅を振り返る

最後に正行は、足利軍と四條畷(しじょうなわて)で激戦を交えて、父・正成と同じように自刃していく。

四條畷では、楠木父子の尊い生涯を後代に伝えようと、地元の人たちが盛大に祭りを行なっている。


正成も正行も、その時には敗北に終わったように見える人生だった。でも、死んだ後に人の心を打つような生涯ってあるんだな。

そうですね。それに、最初ぼくがイメージしていたのは、2人とも悲しい死を遂げた人たちだった。でもそれは違う。死を超えさせてしまうエネルギーに突き動かされていたのが、楠木親子なんですね。

そう思う。どこを巡っても、戦いに敗れたこの四條畷に来ても、悲しげな感じがしない。

むしろ、後醍醐天皇と出会って、大きな天命を発見し、自分を捨てて、激しい火花を散らして生きた正成、その志を継いだ正行の心の清さを感じる。その火花は、今もその地を訪れるぼくたちの心を熱くしてくれるよな。

確かに……。東京の、目に見えるものばかりにとらわれた生活で、「人生、こんなもんだろう」と思っていたぼくにとって、楠木親子の生涯はまさに、こういう生き方があるんだ、と勇気を与えてくれる足跡だった。

頭ではとても理解できないけれど、何かそういう生き方にあこがれてしまう自分がいます。


N.Y. さん
趣味 カメラとウクレレ、毎日の読書
好きな食べ物 肉じゃが
ひと言 令和維新を起こす大人物になる

Y.M. さん
趣味 筋トレ、サッカー
好きな食べ物 ビールと焼き肉
ひと言 雄々しくあれ!


本記事は、『生命の光』800号 “Light of Life” に掲載されています。