信仰の証し「今年も学習塾は満席です」

ーパワハラのトラウマから立ち上がってー

外山 信(とやま しん)

「理系に強い! トヤマゼミ」。ホームページに掲載しているこの言葉や口コミのおかげで、わが家の学習塾には生徒さんの申し込みが絶えたことはありません。

愛知県の豊明(とよあけ)市で、中高生を対象とした個別指導の学習塾を始めて、6年がたちました。始めた時は生徒さんが2~3人しかいなくて、これでやっていけるのだろうかと不安でしたが、2年目を過ぎたころからは、不思議なことに常に満席で、今日に至っています。

私はもともと、子供に好かれるようなタイプじゃないし、塾の先生なんて全く向いていなかった者です。それが、「先生、先生!」と生徒たちから慕われるのは奇跡で、これは神様のあわれみでしかありません。

実は、この塾を始める前の私は、長い間、うつ病で闘病生活を続けていたのです。

パワハラの嵐に遭遇

私は幼いころから母に連れられ、幕屋の集会に行っていました。そして、東京大学の大学院を卒業した後、コンピューターの会社に就職しました。でも本来、物造りがしたかった私は、3年後に飛行機やヘリコプターを製造する会社に転職しました。

ところがその職場で、私はひどいパワハラに遭ったのです。なぜか直属の上司から疎まれ、事ごとに言葉の暴力を受けました。おまえの歌は下手くそだとか、子供の名前は変だとか、仕事とは何の関係もない、あらゆることにまでそのパワハラは及びました。

それまで私は、人の顔色を伺うようなことのない、鈍い人間でした。ところが、その上司の前に出ると、びくびく、おどおどしてしまうようになりました。

転職して間もなく1年というころ、ヘリコプターの試験飛行に同乗した時、パイロットが操縦桿(そうじゅうかん)を持たせてくれました。その時、操縦の腕前をすごく褒められたんです。そのことが課長会議で話題になったそうなんですが、上司はそれがものすごく気に障ったみたいで、「おれは、おまえが人格的に嫌いなんだ!」と、会うなり私は大声で怒鳴られたんです。

そんなことがあった後、通勤途中の道端で気分が悪くて吐きそうになりました。それで会社に、今日は休みますと報告し、その日は一日、喫茶店で時間をつぶしました。翌日も会社には行けず、時間をつぶして帰宅しました。3日目に会社から家に、「外山君はどうしていますか」と電話があって、家内は「えっ、会社に行ったはずですけど」と。

当時、夜は眠れず、出社時間になっても、気持ち悪くて起きられないんです。上司は這(は)ってでも出社しろと言うのですが、無理でした。産業医からは「あなたは療養が必要です」と言われ、結局1年半休みました。その後さらに精神科の病院に行きましたら、典型的なうつ病と診断されました。

妻・みはたさんと

当時は病の症状だとはわかりませんでしたが、ただただ死にたくて、家内に「ぼく、死んでもいいかな」と尋ねると、「あなたといると楽しいから、死なないで」と答えてくれたんです。家内のこの一言に、ならばもう少し生きてみようかと思ったんですね。

そのころは、人が大勢いる幕屋の集会には行けなかったのですが、名古屋幕屋の皆さんが私のために必死で祈っていてくださいました。そうした皆さんの祈りや、家内の助け、またよき医師との出会いがあり、病状は少しずつ改善していきました。

祈って始めた学習塾

その後、新たな仕事をしてみましたが、どうしてもうまくいきません。行き詰まっていると、今から6年ほど前、学生時代に知り合った学習塾の経営者の方から突然、連絡がありました。塾の講師に雇ってもらえるかもしれないと思って会いに行き、話をしていると、「君は独立したほうがいい、絶対に成功するよ!」と言われたんです。全く考えもしなかったことでした。

翌日、そのことを幕屋の人たちに話したら、とても喜んで拍手までしてくださったんです。その時、これは天のゴーサインに違いないと思いました。

でも、実際に塾経営に踏み出すのは、何の経験もない私にはものすごく怖かったです。ただそのころは生活にも行き詰まり、切羽詰まっていたのが実状でした。これはやるしかない、と追い込まれた私は、頼る方はもう神様しかいないと決心させられました。

そして、「神様、助けてください! 神様、守ってください!」と、ただただ必死に祈って始めました。

初めて作ったチラシ

9月の新学期までには必ず塾をたち上げるように、と言われていたので、すぐに家を片付けて、手作りのチラシを配布したのが8月28日。すると、なんとその翌日には、生徒さん第一号から連絡が来ました。その子は現在、アメリカに留学に行っています。

またその翌日には、チラシを見た親御さんから電話がありました。でもやって来た子自身は勉強が苦手でやる気もなく、最初は泣きながらの授業でした。私は「どうにか、この子を導いてください」と祈りつつ向き合い、「ここは、こうやって解くんだよ」と、心を込めて教えました。すると、次第に自ら進んで問題に取り組むようになり、やがては高校でトップクラスにまでなりました。今は、医科大学で作業療法士の学びをしています。

最初は大変だなと思うような子供たちでも、その子の心を見ながら一対一で学んでいくと、めきめきと力をつけていきます。それは、私の大きな励みとなりました。

熱い涙を流す者に

私が初めて回心の経験をしたのは、高校2年生の時です。当時、私には悩みがありました。それは、幕屋の人は、他人のことでもうれしい時は、「よかったね!」と一緒になってうれし涙を流す。つらいことがあると、「この人を何とかしてください」と涙して祈る。そんな熱い愛の心が自分にはない、それが悩みでした。神様は、こんな冷たい心の私など見ておられない、と思っていました。

高校2年生の夏、阿蘇で幕屋の男子中高生・青年の聖会があり、その中で試練に負けない信仰を養うため、祈って炭火の道を渡る時がありました。とても怖かったけれど、必死に祈って渡り終えました。

私たち高校生の後に続いて中学1年生の子たちが、「神様!」と祈りながら渡ってくる姿が見えました。その時「ああ、キリストは幼い一人ひとりにも伴って、導いていてくださるんだ」と感じたら、渡り終わった後輩たちを「よかったね!」と抱きしめて、ワーッと泣けたんですね。

すると、後ろ辺から「愛であれ、愛であれ……」と、静かな声が魂の内に響いてきたんです。その声を聴いた時から、私は熱い涙が出る者に変わりました。そして、神様は私のこともずっと見ていてくださったんだ、という確信を得たんです。

神様は、死のうとしていたような私をも、今は日々、希望の中に生きる者としてくださいました。これは、何より家内の祈りと献身的な助け、また幕屋の先輩方が、私の病気の回復や、塾の祝福を祈りつづけてくださったからで、それを忘れることはできません。

私は今、「塾を開いてくださった神様、どうか子供たち一人ひとりを導いてください」と祈らされています。若き日に、「愛であれ」と語りかけてくださった神様が、私の内からも若者たちに熱い愛をわかせてくださることを覚えて、感謝でなりません。


本記事は、月刊誌『生命の光』838号 “Light of Life” に掲載されています。