特別企画 #働く30代 が語り合う
「自分で自分に恋するような自分の再発見」

ほんとうに自分自身を愛せるようになったのは……

「自分自身を愛そう」
今、世界的にとても人気がある男性アーティストのグループに、こういうタイトルの歌があります。彼らは「自分を許そう。そうすれば自分をもっと好きになるよ」ということを歌っています。
また、『生命の光』誌836号に掲載されている信仰講話「内に響く呼び声」でも、「自分で自分に恋するほど自分を誇って生きるような、自己の再発見」ということが語られています。
「自分自身を愛そう」という言葉に、何を感じるか。原始福音の信仰をもつ30代の男性会社員、3人に聞いてみました。(編集部)

徳永 義哉(よしや)
プログラマー。昔は弾けなかったギターソロを練習してます。

菱川 昭彦
化学薬品の営業。今年、3歳の息子と80cmの鯉を捕まえました!

白濵 聡(あきら)
ITコンサルタント。歴史の勉強とサウナにハマっています。


白濵 この歌には、「だれかを愛することより難しいのは、自分自身を愛することだ」というフレーズがあります。現代には、自分に自信がもてず、自己肯定感が低いという風潮があると思います。
自分を愛することが少なくて、自分ではそう言えないから、彼らのようなアーティストに代弁してもらっている。それで、こういう言葉が今、本や動画など、世にあふれているのかもしれません。

菱川 そうですよね。確かに「おれって、すごい!」と思えたのは、私は中学生ぐらいまででした。その後は周囲と比べて勉強ができず、劣等感に悩まされる日々。自分に自信をもって生きられたらいいのですが、私には難しかったです。

徳永 そうなんですか。意外です。以前はそうだったのかもしれないけれど、今の菱川さんは、何かをつかんでいるような感じがしますよ。

日常的に不安が

菱川 自分を肯定できない、ということには、今の時代というか、社会の環境も影響しているのかな、と思います。
以前は、先生や先輩が、「こうだ!」と指し示す方向に進めばよかったけれど、先の見えない今は、「こうだ!」と言うこと自体が難しくなっています。そんな時代なので、日常的に不安があります。

徳永 まさにそういうことを、私が会社に入った時、上司から言われました。「昔は『背中を見て覚えろ』だったが、今は違う。おれが10年、20年かけて身につけたことは、さっさと覚えて、君は次のステップに進め」と。
今は輝いている仕事も、数年先にはどうなっているかわからない。

菱川 私の職場でも、扱っている化学薬品の入れ替わるペースが、どんどん速くなっています。
先行きが見えない不安定な時代の中で、多くの人が「こうすれば大丈夫」という確実なものを探すけれども、見つからないでいるのではないでしょうか。

白濵 ビジネス情報誌で「変えるなら今だ!」といった言葉をよく目にしませんか? 私はそういう言葉を見ると、「変わらなければいけない」と強迫観念すら感じてしまいます。仕事でも、「もっと斬新な思考を」ということが重荷となってのしかかってくるようで。
一体、何を目指してどう変わればいいのか。どうしても不安がよぎりますね。

菱川 私は自己啓発の本が好きで、よく読んでいます。確かに素晴らしいことが書いてあって、このとおりに実行すれば成功できる、と納得できます。
でも、それを実行する力が自分にはない、と感じてしまうんです。

徳永 そうですよね。ほんとうに必要なのは、そういう力なんだと思います。
多くの人は、それがないから、自分自身を肯定することもなかなかできないのではないでしょうか。

そば近くにおられるお方

菱川 そういう意味では、私には、自分で自分を否定するような思いから抜け出すことができた、という体験があります。
私は全寮制の大学に入りましたが、そこでいじめに遭ってしまいました。学校にも寮にも、私の居場所はなくなりました。
授業を休んだり、寮を出たりしたら、いずれは退学になってしまいます。本を読んでも、友人を頼ろうとしても、どこにも解決策は見つかりませんでした。やがては、「もう死ぬしかないかな」とまで思い詰めるようになりました。
幕屋の信仰をもつ家庭で育った私でしたが、その時に初めて必死に、神様に向かって「助けてください」と祈りはじめたのです。
状況はなかなか変わりませんでしたが、毎日祈りつづけているうちに、私は神様をそば近くに感じるようになってきたんですね。
すると、「いじめに負けるものか」と力がわいてきたのです。そうやって祈りつづけた私の内側には、やがて「神様が一緒にいてくださる。大丈夫だ!」という確信が与えられました。そして、最後には学生自治会の会長にまでなって卒業することができました。
あの状況の中でも生きていく力を与えられたことは、卒業できたこと以上に大きかったですね。

徳永 その心の転換は、例えて言えば、次元を突破した体験、ということじゃないでしょうか。
私はあるシステムを担当していた時に、どうしても解決することができないバグがあって、頭を抱えてしまいました。自分の知識や経験、能力ではもう太刀打ちできなくなって、神様に「どうしたらいいでしょうか。私ではこの問題は解決できません」と祈りました。
祈ったからといって、問題解決の明確な答えが与えられたわけではありません。でもしばらく心を神様の方へ向けていると、私の胸に「あきらめるな、もう一度挑戦しよう」と火がつきました。そうしたら不思議とアイデアがわいてきて、不具合が解決してしまいました。
自分の手を尽くしきった時、自分という次元を超えないと前に進むことはできません。私は神様に向かって祈ることを通して、それができたのです。

自分という次元を超えないと前に進むことはできない

飛び込んできた言葉

白濵 私の場合は、仕事の中で聖書の言葉によって力を受ける体験をしました。
私はITコンサルタントをしているのですが、今年の春からあるプロジェクトのリーダーを任されるようになりました。
プロジェクトには多くの人々や会社がかかわってきますし、クライアントの業種もさまざまです。毎回、初めての問題を一から解いていくような感覚です。その全責任を負うなんて、とても自分にはできないと思いました。

アーチの上部中央の石が
「隅のかしら石」(諸説あり)

その時に、聖書を読んでいたら、イエス様が言われた「家造りらの捨てた石が、隅のかしら石になった」という言葉が、バンと私の中に飛び込んできたんです。
「隅のかしら石」とは、石造りの建築で、とても重要な部分のことを指すといいます。捨てられた石がそれになる、とは……。
私は、よし、通常なら目を向けないような小さなことから取り組んでみよう、プロジェクトにかかわる一人ひとりの光る個性を一緒に探す努力をしてみよう、と心がけました。すると、難しいと感じていた案件が、どんどんいい方向に進んでいったんですね。
これは、聖書の言葉が神様からのメッセージとして、私の内に響いてきた体験です。このことを通して私は、何をしていても、「必ず神様が答えを与えてくださるから、大丈夫だ」と確信できるようになりました。

菱川 そうなんです。神様が一緒にいてくださることを感じるから、人が避けようとする仕事にでも、挑戦することができるんですね。
同僚に、「あいつはタフだな」とか、「心が強すぎる」なんて言われて。

白濵 でも、私たちが優秀な人間だというわけでは、決してありませんよね。
神様というお方との関係を通して、私たちは自分を誇って生きることができるのだと思います。

神様との関係を通して、自分を誇って生きることができる

「おまえ自身であれ」

徳永 そういう意味で、単に「自分自身を愛そう」ということと、信仰講話で言われていることとは、違う気がします。
ただ、自分を誇るといっても、「実にイエス・キリストの宗教は、つまらぬ人間を偉大なる人間に、カリスマ的人物に作り変える道を教える宗教であります」と、手島郁郎先生は言っています。
その例に挙げられているのは、モーセや釈迦、ソクラテス、またニュートンやベートーヴェンなどです。どの人もあまりに偉大すぎて、私は正直、自分とのギャップを感じてしまいました。
そう思っていた時に、幕屋と親しいイスラエルの方から、ユダヤ教に伝わる話を聞きました。
「私たちは天に上った時、『なぜ、おまえはアブラハムやモーセのようでなかったのか』とは問われない。そうではなく、『なぜおまえはおまえ自身でなかったのか』が問われる」という話です。
神様が私たち一人ひとりに下さっている贈り物があり、一人ひとりがこの世で果たすべき使命は違う、というのです。

菱川 ここで、「おまえ自身であれ」と言われている時の「おまえ自身」は、自分で思っている自分自身とは違うように思いました。
ほんとうに私が自分自身を愛せるようになったのは、そば近くにおられる神様を、そして神様に愛されている自分を発見したからです。
だから、自分は尊い存在なのだと知ることができる。それこそが本来の自分だと思うのです。

「おまえ自身であれ」は、自分で思っている自分自身とは違う

徳永 「あなたが思う以上に、天から願われている、もっと尊い本当の自分の姿があるんだよ」と私たちの内側に語りかけてくださる方がおられる。
その声に耳を傾けながら、これからも社会の中で、精いっぱい使命を果たしていきたいです。

白濵 私たち信仰をもって生きている者だけでなく、人間には一人残らず、この地上に生まれてきた意味があるはずです。
どうしたらそれが見つかるか、何かわかったわけではありません。でも、こんなに尊い本質が私たちにあったのか、生まれてきてよかった、という発見に至る、そういう道に立てている気がします。


本記事は、月刊誌『生命の光』836月号 “Light of Life” に掲載されています。