信仰講話「生命の川に若水を汲む ―忘却と記憶―」

新しい年を迎えるために、年末には、どこでも忘年会でにぎやかです。しかし、「忘年」とはいっても、簡単に忘れ去れるものでしょうか。

年惜しむ心うれひに変りけり

(虚子)

使徒パウロは、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって励む」と言って、過去を忘れて生きようとしました。だが一方、人間は過去と現在と未来とに生きてゆくので、過去のことを記憶して、将来のためにそれを役立てようとすべきです。過去の一切を忘れ去ることが、必ずしもよいとはいえません。文明人の間では、文字や言い伝えによって他の人々の過去の経験を伝え、また図書館や博物館には莫大な過去の知識を蓄積して文化を豊富にしています。文明の進歩は過去の経験、知識の賜物と言ってよいのであります。たとえば、学校に入って学ぶということも、先人の優れた経験を短い期間に身につけようとすることが主です。

とは言うものの、過去の経験というものがことごとく、そのまま現在、または将来にとって、価値があり、ためになるというものでもありません。よい記憶は保存し、悪い記憶は忘れ去ることが大事ですので、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって励む」とパウロは言ったのです。

忘れることと記憶すること

とかく年を取ってきますと、人間は積極的に前進し、前のものに向かって励もうとする意欲が失われ、すべてのことに消極的になって、新しく断行する決意が薄らいできます。後ろ髪を引っ張られては、前進できません。

源平合戦の時代、源氏は一ノ谷の戦に勝って後、平家を海路で追撃することについて協議しました。その時、梶原景時(かじわらかげとき)は逆櫓(さかろ)で退却戦も考えようと提案しましたが、若い義経は、過去に敗けた経験がないので、進むことのみ知って退くことを思わず、冒険心に満ちていました。それで源氏は平家に勝てたのですが、とかく過去になじもうとする老人の心理と、前に向かい進む青年の心理とに違いがあります。新しい年は前古、未曾有(みぞう)の激変の年であり、激動の月日となりますから、過去を忘れて恐れず前進することこそ好ましいのです。

ドイツの心理学者でエビングハウスという人は、「忘れる」ということについておもしろい研究をしております。若い人に幾つかの文字を見せて、20分後に「どういう文字が書いてありましたか」と質問すると、半分近くは忘れてしまい、8時間後には3分の2を忘れてしまうのに、翌日になっても5分の1は忘れないそうです。つまり、忘れるのは時間的に速く、その分量も多いということですが、一度覚えたことは忘れず、いつかヒョッと思い出すものなんです。一度出会ったことがあると、何という名前の人か忘れてしまっていても、何となく感じがよいとか、悪いなどという印象をもっている……そのように記憶が残るものです。

しかし、特に心のショックになるような傷心(いたで)は、つらいためか忘れるよりも、毎日、思い出させられます。過去の心の古傷は、とかく人を憂鬱(ゆううつ)にし、現在の心をも暗くします。過去の災難を、いつまでも現在に持ち越して、一生憂鬱な生活に陥って苦しむ人もあります。もし母親が自分の愛する子供を失ったりすると、心の深い打撃(いたで)に泣きの涙で暮らし、性格まで一変し、ノイローゼぎみにさえなったりします。

野ざらしを心に風のしむ身かな

(芭蕉)

新年に恋せよ

アメリカの大統領のリンカーンは、その愛する息子のウィリーを失ってからというもの、快活で明朗で積極的な人柄が急に変わって、憂鬱になり、国の政治についても、悲しみのあまり十分尽くせませんでした。そんな状態のままではいけないが、心はどうしようもなかったのです。

どうしたら悪い過去を忘却できるか? たとえば、失恋の悩みも深刻なもののようで、忘れよう、思うまいとしても、思い出して苦しみます。だが奇妙にも、新しい恋人を得ると、ケロリと古い記憶は失せて、新しい記憶が幅を利かせてきます。まるでテープレコーダーが、古い音を消して新しい音だけ残すように、私たちは記憶を一新することができます。

過ぎ去ったことを、もう思い出さず、昔のことを、もう考えるな。
見よ、われは新しいことを行なう。
それは、もう起こりつつある。
あなたたちは、それに気づかないのか?

(イザヤ書43章18~19節)

と神は言いたまいます。取り返せない過去をいつまでも思い出し、苦しむようなことがあっては、新しい年も、また不毛に終わります。新しい年に、神は新しいことをなそうとしておられます。それで私は、「新しい年に恋せよ!」とあなたに勧告します。

旧約聖書に登場するヤコブの子ヨセフ(イエスの父ヨセフとは別の人)は、4000年前にエジプトで宰相となった人です。かつて末弟のヨセフを殺そうとした兄たちに向かって、「あなたたちは私を害しようとしたけれども、神はそれを最善に変わらせてくださった」といって兄たちをとがめず、慰めました。そしてまた、生まれた長男に対しては、「マナセ(忘れさせる者)」という名をつけ、「神は私をして、もろもろの多くの苦しみを忘れさせられた」(創世記41章51節)と言って、感謝しております。

忘れるべきことを忘れ去ることは、信仰の知恵です。「神は最悪も最善に変わらせたもう。それで過去の悪しきことも忘れた」と申したのが、信仰の人ヨセフでした。

罪の一掃

悪い過去を洗い清めるという意味で、日本では全国の神社で、古くから「大祓(おおはらえ)」の儀式が行なわれ、大祓の祝詞(のりと)が奏上されています。

それは、「この日本に住む人民が過ち犯したさまざまの罪は、天つ罪、国つ罪、いろいろな罪がある。それらをなんとか清めていただきたいので、どうぞ天上のカミガミはお聞きください。天下に罪という罪がなくなるように、風が吹きはらい、川におられるセオリツヒメが大海原にもってゆき、海の潮路におられるハヤアキツヒメがその罪をのみこみ、イブキドヌシがそれを海底まで吹き放って、最後はハヤサスライヒメがそれをもってさすらい、罪は失われるだろう、そう祈り願う」という意味の祈願をする儀式です。特にこの日には、ご皇室でも厳粛に、天皇御親(みずか)ら、荒妙(あらたえ)の衣を着て、ご自身と全国民とのため、一年じゅうの罪の大祓をなさいます。

大贖罪日にエルサレムの「西の壁」の前で祈るユダヤ人

同様に旧約聖書でも、大贖罪日に大祭司アロンが全人民の罪と悪を告白して、山羊の頭に手をおき、一切の罪と悪を担わしめて遠く地平線のかなた、人里離れた荒野の果てまで送り、罪の処分をしたのでありました。

現代は形は変わりましたが、今もユダヤ人は年に1回、この大贖罪日を守っております。

レーテの河とユーノエの泉

儀式はどうであれ、私たちは万人ひとしく魂の奥深くに、すっかり罪の清算と一掃を願う心があります。罪の解決なくして、真に魂の平安は得られないことを知るのであります。

ダンテの『神曲』を読みますと、ダンテは心の愛人ベアトリーチェと死別しましたら、非常に心が荒れすさんで迷いに迷いました。そこを脱却して煉獄(れんごく)から天国に入るには、「レーテ(忘却)の河」を渡り、「ユーノエ(善き思い出)の泉」に禊(みそ)ぎせねばならぬ、と書いております。

悲しみのために心すさんでいたダンテも、ユーノエの泉をすくって飲んだら、悪い過去をすっかり忘却せしめられた。善き思い出(ユーノエ)だけを抱くと、生まれ変わったように衰弱していた力が新しく回復してきて、さながら春の若葉を装う新たなる若木のごとく清くなり、天の星空にまで昇ろうとする力を得られた、と書いております。私たちも煉獄のような過去から足を洗って、ダンテのように、新しく「天国篇」を書きつづる新生涯に入りたく願います。

聖霊の若水を汲む

昔は元日の早朝には、各家庭で神聖な行事として若水を汲んで、初手水(はつちょうず)を使って、顔を洗い、口をすすいだものでした。

若水を汲むや生命の川中に

新しい未来を迎えるにふさわしい生命の水は、どこに汲んだらよいか?

イエス・キリストは、祭りの終わりの大事な日に、エルサレムで叫んで言われました。「人もし渇かばわれに来たりて飲め! われに信ずる者は、その腹の中より生命の水、川のごとくに流れ出ずべし」と、信者が受けるであろう聖霊について言いたまいました(ヨハネ福音書7章)。この永遠の生命の泉、すなわち聖霊の河が私たちを浸しはじめると、病める心身はいやされて新鮮になり、古きものが自分をとがめることなく、いま生まれた幼な子のように、新しい魂の新生をすがすがしく経験することができるのです。

(1973年「ラジオ放送講話」より)

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