信仰講話「寂聴の祈り」

新しい年が明け初めました。昨年来のコロナ禍によって、先行きの見えない不安の中にいる方々もおられるでしょう。しかし、どのような状況であっても私たちに伴い、導き、真に豊かな人生を歩ませようとする声があります。
本講話では、詩篇23篇を通して、神に聴いて歩む祈りについて語っています。新しい一年が祝福の年となりますよう祈ります。(編集部)


聖書の信仰の本質、聖書に流れ、脈打っているものは何でしょうか。それは、私たちが全宇宙に満ちている神の御手の動きを感じ、木の葉が散るにつけても、花が咲くにつけても、そこに神の御声を聴き、神の御旨を悟る信仰です。

孔子は言いました、「天、何をか言わんや。四時(しじ)行なわれ、百物(ひゃくぶつ)生ず」と。すなわち、天は何も言わないようでも、四時(春夏秋冬)は巡りきたり、鳥獣草木がそれぞれ立派に生きている。それを通して全天全地が語っているではないか、というのです。

また、二宮尊徳(注)という人も、

 聲(こえ)もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経(きょう)をくりかへしつつ

と詠(うた)いました。一切が私たちを教えている。しかし、聴く耳がない者には聴けないし、見る目がない者には見えない。大事なことは、私たちの心の目が開かれ、心の耳が開かれて、天地の見えざる経を見聴きする人間となることです。自分の心が開かれずして、自分が変わらずして、何かが見えたり聞こえたりするものではない。それが聞こえないのは、その人が外に何かを聴こうとするからです。人の請け売りを聴いて安心しようとするからです。

ほんとうに、全宇宙が神の神秘を語っています。その神秘を静かに聴く、「寂聴する」人間になることが、信仰にとっていちばん大切なことです。

(注)二宮尊徳(にのみや そんとく 1787~1856年)

江戸時代の農政家、思想家。相模国足柄(現在の神奈川県小田原市)の生まれ。私利私欲のためでなく、社会に貢献することによってその利益が自分にも及ぶ、という報徳思想を説く。また、小田原をはじめ、関東各地で藩や地域の再興をし、農業生産を向上させた。

生ける神に導かれる信仰

今日は詩篇23篇を読みたいと思います。

 ダビデの歌

 主はわたしの牧者であって、
 わたしには乏しいことがない。

 主はわたしを緑の牧場に伏させ、
 いこいのみぎわに伴われる。

 主はわたしの魂をいきかえらせ、
 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
 わざわいを恐れません。
 あなたがわたしと共におられるからです。
 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
 わたしのこうべに油をそそがれる。
 わたしの杯はあふれます。

 わたしの生きているかぎりは
 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

詩篇23篇1~6節

この詩の作者は、冒頭から「神様が私の羊飼いである。自分は神に導かれる羊として、その導く声のまにまに歩いてゆくから、乏しいことがない」と詠っています。ですからこれは、「寂聴」の信仰詩といえるでしょう。羊は羊飼いに導かれておる限り安全であり、食物に欠けることがありません。同様に私たちの霊魂も、導き主であるキリストに導かれるときに乏しいことがありません。このキリストとは、2000年前のイエス・キリストという人物だけではありません。キリストの霊は今も生きて働いておられます。

2000年前、キリストなる神の霊が、イスラエルの民を驚くべき救いに入らしめたように、今も多くの人を救いつつあります。この神の霊感に導かれながら、動かされながら生きる生涯を、信仰生活というのであります。神に導かれるときに、私たちには欠乏がない、すべてのことにおいて満たされます。

今日の集会で何人かの方が、私が大阪に移ってしまったので、「手島先生が熊本におられないからさびしい」と話されるのを聞いて、残念に思いました。皆さんが私を慕ってくださるのを悪いとは思いません。しかし、信仰は神と共に歩き、神の御声を聴くことでして、手島郁郎のごとき者の存在はあってもなくてもよいのです。神の御声のまにまに生きて喜んで、すべてが満たされてゆく生涯、その経験を欠かしめているというのなら、私の伝道は失敗であったと、自分をとがめる以外にありません。

どうぞ知っていただきたいのは、神が私たちの導き手であり、一人ひとりが静かな御声を、神秘な宇宙の真理を聴く人間になるということが、私たちの信仰の本筋なのです。

羊とヤギが群れる野原(イスラエル)

見えない世界からの助け

私たちを取り巻く世界、全宇宙には「声」が満ちています。声とはあらゆるものの心、意志の表現です。それはただ、自然界の山や木や川だけが何かを表現し、語っているのではありません。先立ち死んでいった人たちも、みんな何かを訴えているのです。

聖書を読むと、イスラエルの民は「アブラハムの神よ、イサクの神よ、ヤコブの神よ」と呼んで、族長たちを次々と助けた神を求めました。アブラハムをもって十分全うできなかったことを、イサクを通し、ヤコブを通して、歴史をくぐり抜けてもついに完成に運ぼうとする、そのような宇宙の意志というか、民族の意志、集団の意志がある。これを受け継いで完成してゆくことが大事である、と言っているのです。

イエス様も十字架にかかる前、変貌(へんぼう)の山において旧約時代に生きたモーセやエリヤと出会って語りながら、自分はどのようにしてこの世を去るかということについて相談をしておられる。これはモーセやエリヤがなそうとしてなしえなかったことどもを、イエス・キリストがご自分の死を通してなそうとしておられるのです。

このように先人たちも、地上で真実に生きようとしながらもついに貫けなかったことを、地上に残された人たちを通して、また天の志を遂げてくれそうな人を見いだして、自分の意志を、思想を託そうとするのです。こういう聖書の読み方が、今は失われている。聖書を書いたユダヤ人と西洋人との読み方の根本的な違いが、このようなところにあります。

こういうことを言うと、「それは先祖崇拝だ。先祖を尊崇するとはケシカラン」と西洋流のクリスチャンは言います。しかし、私たちは聖書をじかに読んで信じている者たちです。私たちは、生きることにおいて、また、天の御旨を地上になすことにおいて、多くの力を必要とします。地上の人たちの力や助けも借りたいが、多くの天上の霊たちの助けも借りたい。もし私たちがそのことを熱く願うなら、天に帰った多くの霊魂が速やかにやって来て、私たちを助けてくれます。

このように、宇宙の一切合財が私たちを慰め、導き、贖い、救おう、祝福しようとしている。その声を聴かずに自分だけで考え込んだり、試みたりするのは愚かなことです。私たちはこのような天上界からの声を聴いて導かれるときに、「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」(2節)とあるような豊かな経験をするのです。

神と共に歩く生涯

 主はわたしの魂をいきかえらせ、
 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

詩篇23篇3節

神様は、私たちの死んだような魂をも生き返らされます。「いきかえらせる」は、「返す、帰る」というのが原語の意味で、失われたものが返還されることです。生きている者が息づくのではなく、死んだ者が命を取り返す、復活することをいうのです。死んだような者でも復活するのが、詩篇23篇の思想であります。

そして、神様はその御名のゆえに私たちを正しき道に導きたまいます。ですから私たちは、キリストの名を、天の神様の名を呼ばずには、1日たりとも過ごすことはできません。私たちはここで霊的な歩み方を学ぶのであって、人間的な歩み方を学ぶのではありません。

私の信仰は、全宇宙を神秘で満たしつつあるお方と共に歩くことです。どうか皆さんも、そのような信仰に生きていただきたい。聖書が一貫して主張しているのは、神は私たちを正しい道に導きたもう不思議な霊であり、力であるということです。この神に導かれずに、人の説に聴いて導かれようとするのが間違いです。

 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
 わざわいを恐れません。  
 あなたがわたしと共におられるからです。
 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

詩篇23篇4節

「あなたがわたしと共におられるからです」。神と共に生きる人生、これほど幸せなことはありません。神様が寄り添うように共に歩いてくださり、進むべき道を囁(ささや)いてくださる。このような、神と共に歩く信仰、これが私たちの信仰であります。

私たちは遠くに神を求めません。超越神を求めません。私たち、卑しい人間と共に歩いてくださる御霊、これが私たちが知っているキリストです。このような神の御霊が共に歩きたもうならば、たとえ死の陰の谷を歩むようなときにも、恐れることがありません。

また、羊飼いがムチや杖をもって羊を導くように、私たちが間違った方向に進みそうなときには、神様にたたかれることもあるでしょう。それもまた感謝です。たたかれなかったらわからないこともあるからです。

霊的な祝福を受ける経験

 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
 わたしのこうべに油をそそがれる。
 わたしの杯はあふれます。

詩篇23篇5節

これは緑の牧場でのことではありません。敵に追われて荒野を逃げ回るような困難の中で、神に逃げ込んで受けた霊的な祝福、聖霊が頭(こうべ)に注がれる経験を詠っているのです。

「わたしの杯はあふれます」とありますが、「杯」は運命を象徴します。運命の杯が満ちあふれるほどに祝福される、ということです。では、どうしてあなたの杯は満たされないのか。霊的な実在者であるキリストというお方に導かれていないからです。自分の頭だけで考え、自分だけで案じ、自分で恐れる。しかし、ひとたび天地の一切を通して語りつつある神様に導かれることがわかると、「わが運命の杯はあふれます」と言って、汲んでも尽きない生命が自分の内側から込み上げ、周囲が潤いだすことを覚えます。

どうか私たちは、神の懐に逃げ込んで、神の与えたもう運命の杯を飲み干す者となりたい。神様はケチなお方ではありません。どれだけでも注いで注いでやまないお方です。全宇宙を導きつつある神秘な神の霊と、親しく語りながら、聴きながら歩く者に行き詰まりはありません。神が教えたまいます。

静かに聴く祈りの大切さ

私は祈る時、神様に向かって大声で叫ぶことをしません。先日、伝道者の諸君が、「私たちは精いっぱい叫んで祈れるような場所を作ろう」と話しておりました。

それで、「私が、君たちのように声を張り上げて祈ったことがあるだろうか。私の妻は、私の祈りがほとんど声すら立てない、静かなものであることを知っているよ。夜、寝る時でも、起きている時でも、ほとんど寂聴の祈りであって、君たちの祈りとはだいぶ違う。もちろんまさかの場合には、もうじっとしておられずに『神様!』と叫び出すことがある。しかし、いつもは叫んだりしない。静かに神に聴いている。語りたもう者、教えたもう者の声を聴かずに、一方的に自分から大声で叫ぶことはしないよ」と彼らに言いました。

昔、私は「寂聴庵」と銘打って、信仰を学ぶ人たちのために寂聴の祈りの場所を設けたことがあります。かつて彼らに教えた信仰を、ここでもう一ぺん考えてもらいたかった。

信仰を始めて間もない人が、叫んででも救われたいと願うのはいいです。けれども信仰生活の長いお互いは、もっと信仰が進歩するためには、静かに「神様」と言って、母の懐に憩う子供のような心で祈ることが大事です。私は祈る時、魂の父なる神の御瞳(おんひとみ)を見上げるだけで満足で、何かを求めることすらあまりありません。神のご臨在を感じていたら、自ら求めなくとも、もう満たされて満たされてたまりません。私たちは叫んで祈る場合は、精いっぱい叫んで救いを求めたい。けれども、静かに神の御声を聴くということをしない限り、神様が私たちに語り、また恵んでおられても、それを忘れやすいと思います。

あばら家でも神の宮にあるように

 わたしの生きているかぎりは
 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

詩篇23篇6節

「恵みといつくしみとが伴う」の「伴う」は、原文では「追いかける」です。神様の恵みと慈しみが私たちを追いかけてくる、というのです。静かにしていても、神様の祝福が次から次に追いかけてくるから、ことさらに大声で叫んで求める必要はないのです。

「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」とあるが、この詩人にとっては地上が神の家、神の宮です。たとえ死の陰の谷を歩こうとも、また憩いのみぎわにたたずむ時も、敵前でほんとうに苦しい、恐ろしい思いをする時も、地上の生涯すべてが神の御手の中にあるのです。地上において、常住坐臥(じょうじゅうざが)、たとえあばら家のような中にあっても神を拝し、そこが神の宮であることを感じられない人は、どれだけ宗教を学んでもだめです。

創世記には、ヤコブが偽って兄エサウから長子の特権を奪ったため、兄の怒りを恐れて逃げ出した時のことが書いてあります。ヤコブが母の故郷ハランへ逃れる途中、日が暮れたので荒野で石を枕にして眠っておりました。すると天使が天に達するはしごを上り下りするのを夢に見て、「ここは荒野だと思っていたが、神の家である、天の門である」と叫び、その場所を「神の家・ベテル」と名づけて祭壇を築き、神に祈りをささげました。

同様に、私たちもこのやかましい熊本市中心街のあばら家におります。しかし、私たちの心が開けるなら、ここは天の門です、神の宮です。私たちの内なる心が開けるならば、どんな所も神の宮です、神の臨在する所です。このように地上において神の宮をもつ信仰を、一人ひとりが築かねばなりません。

神様はあなたを導き、祝福しようとしておられます。どうぞ、静かな神の御声を聴く信仰を、一人ひとり確立していただきたい。それなくして、どこか別の所で何かやろうとしても無駄です。自分が地上で神の宮を発見せずに、他所(よそ)を訪(と)うのは愚かなことです。

神の静かな声なき声を寂聴すること、霊的信仰の本質はそれです。朝、目が覚めた時に、「神様、私は何をなすべきでしょうか。あの人のために何をなすべきでしょうか」と神に聴いて動きだすこと。そして神が示したもう時に断固としてそれを行なう、それが大事です。神が導きたもうから何も案ずることはありません。

(1963年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2021年1月号 “Light of Life” に掲載されています。

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