―幕屋ペンテコステ70年に寄せて―
時代を救うものは

戦後間もないころ、手島郁郎という一人の実業家が、熊本の片隅でキリストの神様から召命を受けて、独立伝道を始めました。ありありとした実在の神に出会った手島は、日本人の魂に、キリストは今も生きて働いておられることを熱く伝えました。
当時の日本は戦争に敗れ、人々の心は挫折と絶望の中にありました。そのような社会で、手島の伝道によって救われた人たちは、自分の持ち物を持ち寄り、富める者も貧しい者も、一つの愛の群れとなって生きました。その群れを、後に「幕屋」と称するようになります。
やがて幕屋は、日本の各地に、また海外にまで拡(ひろ)がっていきました。その原点は、初期に熊本・阿蘇で少数の人々の上に起こった、2000年前のペンテコステ(※注)にも比すべき、聖霊降臨の出来事にありました。
今回は、幕屋の草創期の聖霊による導きを、証しを通してご紹介いたします。(編集部)

地の果てまでも証人として

ー聖霊が一同にくだった聖書講筵会での体験ー

藤岡弘之(89歳)

18歳で聖霊による回心を経験して後、手島郁郎のもとで信仰を学ぶ。現在までの60年にわたり、日本や海外で原始福音の伝道に携わる。長野県在住。


私の人生を大きく変えた、キリストの神様との出会い。阿蘇で体験した衝撃的なあの日の出来事は、70年たった今も鮮明に覚えています。

聖書さながら

日本が戦争に敗れた時、私はまだ中学生でした。アメリカの進駐軍が入ってきて、やりたい放題やっているのを見て、これが敗戦の現実だと思うとたまらないものがありました。その後、戦後の食糧難の中で、父が亡くなり、3人の幼い弟妹を抱えて、当時、熊本に住んでいたわが家の状況は、どん底でした。「何かにすがらなければ、とても生きてはいけない」、そう思っていた時に、高校の聖書研究会の友人に誘われて行ったのが、手島郁郎先生の集会でした。

集会所は2階にあって、急な階段を上がっていくのですが、1段1段上りながら、何か心にひたひたと迫ってくる霊的な雰囲気を感じました。そして集会室に座ると、初めて集った私でも、神様がすぐそばにおられるのを感じました。

やがて手島先生の聖書講義が終わり、皆が祈りはじめました。私も手を合わせて祈っていると、突然私の口から、「神様、地の果てまでもあなたの証人としてください」と、それまで考えもしなかった言葉が噴き出してきたんです。と同時に、おなかの底から喜びがわき上がってきました。

集会後、「私にも何か新しいことが始まる!」という期待感で胸がいっぱいでした。

その翌週(1950年11月3~5日)、阿蘇・垂玉(たるたま)の温泉宿の離れを借りて、手島先生による聖書講筵(こうえん)会が3日間行なわれ、私も参加しました。

59名の参加者全員に、受付で聴講票が渡されました。そこには、「回心の経験ありや」「イエス・キリストとは何か」などの質問があったのですが、『生命の光』誌があることさえ知らなかった私は、何も答えられませんでした。それで私は、最初の集会には出席できませんでした。それほどに、初心者だからといって特別な配慮があるような会ではありませんでした。

手島先生は、すでに数日前から断食をして祈りながら、集会を導いておられました。会場全体には、真剣に信仰を求める雰囲気が漂っていました。

私も出席した3日目の最後の集会では、手島先生が聖書を講じておられるうちに、怖いくらいに天からの生命・聖霊が圧迫するように会場を覆ってきました。そして堰(せき)を切ったように祈りだすや、皆の口から異言(いげん 神の霊に触発されて出る霊の言葉。使徒行伝2章参照)が噴き出し、私は聖霊に縛られ、その場に打ち倒されてしまいました。

それはまさに、使徒行伝に記されている聖霊降臨(ペンテコステ)さながらの状況でした。この時の経験、感動は決して忘れることはできません。後にこの時の集会は、「幕屋ペンテコステ」と呼ばれるようになりました。

キリストの福音は言葉ではなく、人間を一変してしまうありありとした力であることを、私は体験しました。この体験以来、それまで難しくてよくわからなかった聖書が、ありありとした事実として読めて読めてならなくなりました。そして、キリストを伝えたくてたまらなくなったのです。

その後の熊本の日曜集会では、毎回、阿蘇で起きたのと同じように、祈ると聖霊に激しく満たされて、喜びが満ち満ちる会が続きました。

【ペンテコステ】 ―キリスト教会の誕生日―

復活したイエス・キリストが天に昇られた後、弟子たち120人に神の霊・聖霊がくだった日を、ペンテコステと呼びます。
彼らは聖霊に満たされて、人格は一変。師のイエスが十字架につけられたエルサレムの町で、迫害を恐れず大胆に神の言葉を語りだしました(使徒行伝2章)。そして祈りを共にし、喜びも痛みも分かち合う愛の群れができて、各地に増え広がり、やがては歴史を動かすキリスト教会となりました。
ペンテコステは、キリスト教会の誕生日といわれます。

1日でもいいから

そのころ、手島先生は九州だけでなく、全国各地の伝道にも出かけられていました。その中の一つ、東京・清瀬の結核療養所で開かれていたクリスチャンの集いにも、手島先生は乞(こ)われて何度も通われていました。

そこでも聖霊によって幾人もの人たちが回心され、その方たちが、1日でもいいから熊本の手島先生のもとで、この熱いキリストの愛の中で生きたいと、命がけで次々と熊本に移ってこられました。

寝たきりだった方たちなので、大地を歩けるだけでも感激だったんですね。肺活量が1000㏄足らずで、あえぐように集会所の階段を上り、一歩足を踏み入れるや、不思議な喜びと力に満たされて、熱い涙に頬をぬらしておられました。

身寄りからも疎んじられ、人生に挫折した人たちが生活を共にしながら、貧しくても食べ物を分け合い、喜びいっぱい生きていました。その姿に、健康だった私は劣等感をもつほどでした。

やがてその方たちは、輝いて天翔(あまがけ)っていかれました。先生はそのお一人おひとりを、手厚くご自分の墓所に葬られました。

明日を夢みて

70年前、手島先生は阿蘇で起こったこの出来事を見られて、「尊い霊性をもつ日本人の魂の上に、聖霊が注がれる時、日本のみならず、世界に霊的な光を灯(とも)す使命を果たすことになるであろう」と語られました。

当時の熊本幕屋は少数の、しかも若い青年男女の一群でした。そのころは、私は手島先生の言われることを、十分には理解していませんでした。ですが、「地の果てまでもあなたの証人としてください」と、最初の集会で私が祈らされたのも、神様の描いておられるビジョンのために与えてくださった大きな使命だったと、今にして実感しています。

神様は、自分のことだけで精いっぱいで、生きていけなかったような私を選んでくださった。そう思うと、この群れの中に入れられた者はだれでも、その人の善し悪しを問わず、神様から一方的に使命を与えられていることが確信されます。

今、諏訪の地で、次の時代を担う若者たちと共に、「天の御声を聞かせてください」という思いで祈ることを始めています。大きな使命がかけられている一人ひとりだと思うと、尊くてならないです。


現代は、ITやAIによって便利で豊かな時代になりました。しかし神様が「日本に必要なのはパン(物質的な豊かさ)ではなく、神の言葉を聞くことである」と、終戦直後、手島郁郎に語られた言葉は今、さらにその重要性を増して響いてきます。
阿蘇の一角に聖霊が注がれてから70年。これからもこの幕屋の一群が、天の生命を求めつづけ、生けるキリストを証ししつづけることを通して、一人でも多くの方が神様の救いを見いだされ、やがて日本が救われることを願ってやみません。


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年11月号 “Light of Life” に掲載されています。