信仰の証し「短歌が賛美に変わる時」

多田恵子

ブラジル・サンパウロ幕屋に多田恵子さんをお訪ねしました。若い時に日本からブラジルに移住し、さまざまな苦労を重ねられた多田さんですが、それを感じさせない、明るくはきはきとした受け答えが印象的でした。これまでの歩みをお伺いしました。(編集部)

手を握りさすりて義父の話し聞く
広い所に出られないんだ

私が短歌を作りはじめたのは、夫婦で始めたコーヒー園から、サンパウロ州にある夫の実家に戻ったころです。この歌は、義父が病気で寝たきりになり、私が看病していた時に、「広い所に出られないんだ」と漏らした義父の言葉を、そのまま生かして作ったものです。

それは、先行きが見えない、私の気持ちでもありました。

花嫁移民

私は何の気なしに、農業にあこがれていました。埼玉の岩槻(いわつき)で、町中で育ったのですが、「鶏がいるような所で生活したいわ」と言っていました。そんな時、海外にお嫁に行くお世話をしてくださる方があって、私は1979年、26歳の時にブラジルに来ました。

初めは、養鶏場をしていた主人の実家に住みました。主人は子供の時に日本から来た移民で、私より10歳上。いざ来てみたら、私は全然役に立ちません。卵を取ると鶏につつかれて、「えっ?」とびっくりしました。

1年ほどして、コーヒー栽培に手を伸ばそうと、離れた所に新しい土地を買い、私たち夫婦が行くことになりました。そこで息子たちが生まれ育ちました。

4人目に女の子を授かりましたが、2カ月で気管支肺炎で亡くなってしまったのです。私は自分の心を立て直すのに精いっぱいでした。さらには主人がうつ病になってしまい、しかたなく実家に戻ることになりました。

コーヒー園での生活を何かに残したいと思いましたが、カメラはありません。でも日本語新聞にあった短歌欄を見て、これなら紙と鉛筆だけあればいいと、山の中の生活のことを書いて、ぽつりぽつりと投稿していたんです。それを見た方が、アララギの流れを汲(く)む短歌結社を紹介してくださいました。

私が主人の実家の養鶏場に戻り、嫁として黙って働くことができたのは、短歌のおかげです。心の中でいろんな思いがありますでしょう。それを全部、歌にしたんです。そのころは、すべてが短歌でした。短歌のための工場みたいなものが、頭の中にありました。

後ろ辺で語る声が

短歌に出合う少し前に、花嫁移民の同期生が訪ねてきて、聖書を渡してくれました。開いてみて訳もわからず読んでいたら、キリストが血の汗を流して祈った、という所が印象に残りました。でも、その時は何となく読み過ごしていました。  

あこがれみたいにしてブラジルに来たけれど、現実の生活は想像以上に大変でした。一緒に研修を受けてブラジルに渡った仲間は、次々と日本に帰っていきます。でも、私は家族がいるから帰るに帰れない。最初はその同期生に愚痴を聞いてもらうのが目的で、彼女の通っているサンパウロの幕屋に集うようになりました。それがいつしか、私にとって幕屋は、やむにやまれず神様に祈りに行く所になっていました。

養鶏場では、私たち家族のほかに主人の父母、また弟たちとその家族がいました。最初は何とかやっていけていたのですが、子供たちの教育費などが必要になり、養鶏だけでは立ち行かなくなっていきました。私は日本語学校の教師をしたりして、何とか家計を支えようとしましたが、状況はなかなか好転しません。

「こんなに頑張っているのに、何で私だけこんなつらい思いをするんだろう」と思っていた時です。

フッと、後ろ辺から語りかけてくる声がしました。

「そんなおまえを耐えているのは、わたしなんだよ」

私は「ああ……」と思いました。いい気になって、自分で一生懸命生きているつもりだったけれど、もっと忍耐しながら私を導こうとしてくださっているお方がおられる! 血の汗を流して祈られるキリストのお姿が迫ってきて、「神様ごめんなさい!」と、涙があふれてなりませんでした。

賛美する日々

やがて、私は日本に出稼ぎに行き、介護の仕事をすることになりました。「介護の仕事は大変だ」と周囲の人たちは言っていましたが、ブラジルでどん底の生活を経験した私には天国のようでした。経済的にも恵まれて、ブラジルの家に送金できただけでなく、幕屋の巡礼で聖地イスラエルに行くこともできたんです。

それまで、「神様を賛美できるような歌が作れたらいい」と思っていました。けれども、聖地では短歌の工場が止まってしまいました。歌を作ることよりも何よりも、キリストを賛美し、祈ることがうれしい! 神様が、私の心を整理してくださいました。

4年後、出稼ぎから帰ったころには、主人は車イスの生活になっていました。そしてその数年後には、寝たきりになりました。けれども、日本での介護の経験が活きて、主人の世話を心ゆくまですることができたんです。最初は私の信仰に反対していた主人も、一緒に『生命の光』を読みながら、神様を賛美する人に変わり、平安のうちに天に召されていきました。

ブラジルに来た時は祈ることを知らず、自分のことしか考えられなかった私。人生の節目節目で「こっちに行くしかない」と、手探りで歩いてきたような私。けれども、その背後で、キリストが私の歩むべき道を全部用意してくださっていた。そして、祈る喜びを与え、愛する兄弟姉妹のために祈るような私に変えてくださった。このことが何よりも感謝です。

わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。

詩篇118篇5節

これが、今の私の実感です。

(サンパウロ州在住)


本記事は、月刊誌『生命の光』848号 “Light of Life” に掲載されています。

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