随想「『神は愛なり』と響く声」

――関東大震災100年に想う――

村山悦斎

東京西郊の、広大な敷地に広がる多磨霊園。

各界の著名人も眠るその一角で、私はある家族の墓碑に刻まれた、一行の文字に見入りました。

塚本その 大正十二年九月一日没 二十七歳

没年月日は、今から100年前、関東大震災が起こった日です。

塚本虎二と大震災

10万人を超える犠牲者を出したこの震災の惨劇は、あまりにも恐ろしいというほかはありません。日本の災害史上、最大級の被害といわれます。

震源である相模湾北部に面した古都・鎌倉は、最激震地に含まれ、多くの家屋が倒壊しました。

そこに、塚本虎二が住んでいました。塚本は、東京帝国大学に在学中より、無教会主義を唱える内村鑑三に学びました。卒業後はエリート官僚として出世コースを歩んでいましたが、全生涯を聖書の研究にささげんと、あらゆる反対の声を押し切って辞めました。しかし、たとえどんなことがあっても伝道者にはならない、と公言していました。

ところが、聖書研究のためドイツ留学に出発する直前に大地震が発生。家は倒壊し、塚本と2人の幼な子は辛くも助かりましたが、妻の園子は家の下敷きになり、亡くなってしまったのです。

その時のことを、塚本はこう記しています。

神は無惨にも、理不尽にも、私より私の最愛のものをもぎ取りたもうた。私には神がわからなくなった。世の終末かと思われたあの凄惨(せいさん)な、無慈悲な、神の仕打ちを見てだれが神を信じえよう。神の愛を信じえよう。私は天を呪(のろ)うた。神は愛ではない、惨酷である、没義道(もぎどう)であると思うた。しかし、炎々たる焔(ほのお)、濛々(もうもう)たる黒烟(こくえん)を仰ぎ見ながら、ペチャンコになった家の前に座して思い悩みつつあった時に、たちまち一つの静かなる、細き、しかし、つよき声が響いた ―― 神は愛なり! と。
私の眼(め)から鱗(うろこ)のごときものが落ちた。私は私の両肩から大きな重荷が、地響きして地上に落ちるのを感じた。私に始めて神がわかった。神の愛がわかった。神が愛でありたもうのは、人が彼を愛と認めるからではない、神が愛でありたもうからである……。
私は生まれかわった。……聖書が生きたる書となり、私の書となった。私は自分のうちに奇(く)しき力のみなぎるを感じた。私はじっとしていられなくなった。前言を翻して私は伝道生涯に入った。

(『聖書知識』創刊号より)

塚本虎二は、本誌創刊者の手島郁郎が尊敬し、その師ともいえる存在でした。関東大震災で夫人を亡くしたことを通して、塚本は伝道を始めた。そう思うと、大震災の惨事は本誌に、またその信仰のあり方に大きな影響を与えているといえます。

突然の知らせ

私は現在、『生命の光』の編集員の一人ですが、そういうことに携わるような、信仰の道をまっすぐ歩んできた人間ではありません。それが30歳を過ぎたころ、ある出来事をきっかけに「神の愛」を知らしめられ、大きな変化を経験しました。

真夏の暑い日のこと。突然、父から電話がかかってきました、母が海の事故で行方不明になっている、と。何時間かして、遺体となって発見された、と続報が入りました。

私は、当時いた神戸から両親の住んでいた浜松へと急ぎました。痛ましい亡骸(なきがら)と対面し、受け止め難い現実を受け入れざるをえませんでした。

戸惑いと混乱の中にあった時、多くの幕屋の方が駆けつけ、野辺送りをしてくださいました。それは、天が覆うような葬儀でした。私は、母の魂は天に行った、と確信することができました。

でも、だからといって、すべてが解決したわけではありません。それからの数カ月は、さまざまな思いが去来しました。

「近しい者を天にもつということは、次の世界の実在をひしひしと感じることができて、なんとうれしいのだろう」と心の底から思える日。一方で、「あの時、親もとを訪ねるなど、自分が違う行動を取っていれば、こんなことにならなかったのではないか」と、考えてもしかたないことをぐるぐると思い巡らせてしまう日もありました。

母は信仰で生きることを無上の喜びとし、父と共にキリストを伝えていました。私が思春期で信仰に対し反発していたころには、私が信仰の道を歩むことを天を揺するように祈っていました。

また亡くなる直前には、「もてるあらゆるものをはたいてキリストに、教友にお仕えする!」と、激しい気迫で信仰の表明をしていたそうです。

最も尊いと信じた道に

私は当時、会社で願ってもない職務を与えられ、充実した日々を過ごしていました。日曜日には幕屋の集会に集い、何の不足もありませんでした。

でも、これが契機となって私の人生が変わるのでなければ、母の死はむなしくなってしまうのでは。そう思うと、強烈な願いが突き上げてきました。「この一度限りの人生、最も価値あることのために尽くしたい。それは、自分のすべてをささげて、キリストのために生きることだ! たとえ人生を棒に振ってもかまわない」

それ以来です、私の歩みが大きく変わったのは。やがては本誌の編集に、またキリストを伝える業に携わるようになり、現在があります。

母の死は私にとって、「神の愛」の現れでした。そこまでして神様は私に、最も尊いと信じた道に一歩を踏み出させてくださったのです。

関東大震災から100年を迎えて、改めて想います。悲惨としか見えないような出来事の中にも、神の深い御思いがある。人生の矛盾を通してでも現れる「神は愛なり」の上に、本誌も、また私自身もあるのだ、と。


本記事は、月刊誌『生命の光』847号 “Light of Life” に掲載されています。

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