祈りと虹

釜石祈りのパーク(鵜住居)
三浦恵子

リアス式海岸に流れ込む川沿いに開けた静かな町・鵜住居は、津波で壊滅的な被害を受けました。私は当時、神戸に住んでいて、実家で一人で暮らしていた母が無事だとわかったのは、震災から3日後でした。

約600人の小・中学生が坂を駆け上って助かり、有名になった「釜石の出来事」も、防災センターに逃げ込んだ150人以上の方々が亡くなった「釜石の悲劇」も、この鵜住居で起きたことです。

小・中学校跡地に造られた競技場。ラグビーワールドカップ会場の一つ
小・中学生が駆け上って逃げた道(写真上方から津波が迫ってきた)

皆、それぞれの3・11があって、聞くと、体験を話してくれます。私の同級生には、配偶者を亡くした人が何人もいます。また、役場や学校などで重要な立場にあった人もいて、津波で亡くなった人の命の責任を問われることがあると聞くと、何とも言いようのない気持ちになります。

自分の中で、どう消化していいかわからない時もあります。大変なところを通ったんだね、と声をかけるしかありません。とにかく、ここで一緒に寄り添って、生きていくしかないわけです。

震災時、鵜住居の隣にある大槌町(おおつちちょう)も大きな被害を受けた
現在の大槌町。防潮堤は建設途中

「釜石を頼むよ」

震災の後、母を一時、神戸に連れていくために、迎えにきました。私は、育った町のガレキだらけの姿を見てとてもショックで、山を見上げました。ちょうど夕陽が落ちてきて、木の陰から光がパッと射した時、「釜石を頼むよ」という声を聞いた気がしました。でもあまりの惨状に、「それは無理です」と思いました。

翌年の正月に、主人が神戸の幕屋での祈りの中で、心がガタンと変わるような大きな転換点を通り、新しい人生を始めたいと言いだしました。それから主人は突き動かされるように生きはじめ、やがて喜びの中で、釜石に行こうと言ってくれたのです。

私たちは神戸で阪神・淡路大震災を経験しています。近所の幕屋の方がつぶれた家の下敷きになっているのを、主人ともう一人の幕屋の友とで、何時間もかかって引っ張り出しましたが、その方は亡くなってしまいました。釜石に帰ろうと言ってくれたのは、あの時のことが心の奥にあったからでしょうか。

主人は釜石に来てあちこちの方を訪ね、また伝道し、ほんとうに喜んで生きていました。ところが4カ月目に突然、脳出血で亡くなってしまったのです。

私は、残念に思うこともいっぱいあるけれど、でも寂しいとは思いません。よく幕屋の方から、身近な人を亡くすと天が近くなると聞いていたけれど、自分にもそんなことが起きるのだろうかと思っていました。それが、確かにいつも近くにいてくれている感じがして、こういうことかと今、知らされています。

震災で突然身内が亡くなって、それが傷になって残ってしまっている人たちの心が、どうやったらいやされるのだろうと思います。天と地が同じ世界でつながっていることを、知っていただけたらと願っています。

天からのメッセージは

ここの人たちは皆、無我夢中でこの10年を通り越してきました。まだまだ大変な状況にある人がいます。私は祈っています、この節目の時に、魂の深いところに何かが始まりますように。『生命の光』を読んでくださっている方が何人もいます。それが一人ひとりの希望となりますように、天の愛が満ちますように、と。

鵜住居の北隣にある大槌町は、私の叔母、従姉妹(いとこ)とその娘が津波で流された所です。建設中の大きな防潮堤があり、その上に鮮やかな虹が架かりました。

聖書で、ノアは大洪水の後、祭壇を築いて燔祭(はんさい)を献げます。その時、神様はノアとその子らとを祝福して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と言われ、契約のしるしとして雲の中に虹を置かれました。

完成間近の防潮堤の上に架かった虹(大槌町)

私は思うのです、神戸や東北の大震災にはサインというか、意味があって、何かを教えてくれているのでは、と。その天からのメッセージを人間側がどういうふうに受け止めるのか、という思いはずっとあります。

見えない根本の世界に、人間が立ち帰ること。その先に修復があるのかもしれません。


本記事は、月刊誌『生命の光』817号 “Light of Life” に掲載されています。