聖書講話「物質を超えて豊かに ―初代教会の信仰生活(後編)―」使徒行伝4章34節~5章11節
現代は物質的な時代で、財産や物が豊かであることが幸せな人生であるとされがちです。しかし、物質欲にとらわれると、真の心の幸福からは遠ざかるように思われます。一方で、物質的に乏しくなれば、心まで貧しくなることがあります。富にあっても貧にあっても、心豊かに生きるには?
前回に続いて、聖霊を受けて豊かに生きていた初代教会のようすから学んでゆきます。(編集部)
使徒行伝4章を読むと、聖霊を受けた弟子たちによって始まった初代教会はエルサレムにおいて、一切の持ち物を共に分かち合うような、愛の共同生活をしていたことがわかります。信仰が進んできますと、もう感謝のあまり、自分で何か物を持ったままじっとしておれないものです。それで、使徒たちのもとにみんな差し出しました。
彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。
使徒行伝4章34~35節
こんな箇所を読んで、「惜しいなあ、そんな財産や土地、家屋などは持っておったらいいのに、差し出すなんて」と思うかもしれません。しかしこの人たちは、イスラエルの地に持っていた土地や財産などを投げ出して、かえってよかったんです。
やがて後になりますと、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こし、戦争状態になりました。そしてローマのティトス将軍の軍隊がやって来て、エルサレムを攻め荒らしたために、多くのユダヤ人が離散の憂き目に遭いました。どうせ土地も財産も取り上げられ、戦乱のためになくなってしまう運命だったんですね。ですから、ここで献(ささ)げておいてよかったんです。神に導かれて生きる生涯というものは、ほんとうにありがたいと思います。
「地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた」の「足もとに置く」とは「自由にお使いください」といって持ってきた、という意味です。そして、「それぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」。「必要」と訳されたギリシア語は「欠乏」の意味もありますから、困っているものがあったら、「さあ、これを使って」といって、皆が仲良く助け合いながら暮らしました。
慰めの人・バルナバ
クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。
使徒行伝4章36~37節
クプロとは、地中海の東部にあるキプロス島のことです。ユダヤ人は全世界に散って、ユダヤ人の共同社会(コミュニティー)を作っていました。レビ人というのは宗教的な、祭司を出す氏族です。
使徒たちが、「バルナバ、バルナバ」と呼んでいたヨセフという人がいました。ヨセフという名前は多いので、何かあだ名をつけておかないとわからないわけです。「バル」というのは、当時ユダヤ人が日常的に使っていたアラム語で「子」という意味、「ナバ」は「励ます、慰める」という意味といわれます。
またバルナバの名前には、ギリシア語で「慰めの子 υιος παρακλησεως ヒュイオス パラクレーセオース」という注釈がついております。この「パラクレーセオース」という言葉は、イエス・キリストが世を去られる前、弟子たちに「聖霊が助け主としてやって来る」と語られましたが、その「助け主 パラクレートス」という言葉と同じ語源です。ですから、「慰める者、励ます者、助ける者」という意味です。このバルナバという人は、非常に聖霊に満たされていた人物であることが後にも書いてありますが、ここでもそれがわかります。
彼は「自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた」というのですから、キプロス島の土地を売ったのでしょう。そんな土地まで売らなくてもよかったはずでしょうが、そのようにして多くを献げました。
初代教会はどうして、このように援助されなければいけなかったのでしょうか。
それは元来、エルサレムが山の上の都で非常に生産物に乏しい所で、しかも宗教的な町ですから、その当時、栄えている宗教に属していれば食ってゆけますけれども、異端者として扱われたら、あんな山地では食ってゆけません。どこからか貢いでもらわなければ生きられない。ここにバルナバが、「慰めの子、励ましの子」と言われるくらいに、次々と持ってきて尽くしたということが偲(しの)ばれます。
さて、バルナバが皆から、「慰めの子」と褒めはやされますと、それを見ていて、「何だか自分もおつきあいしなければならないか」と思う人も、いないではなかったでしょう。バルナバはほんとうに尽くしたかったのですが、そうでない人もいました。

倒れ滅ぶ者
ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。
使徒行伝5章1~6節
ここで、地所を売った代金の一部分を献金したということが悪いんじゃないんです。それを全部のように見せかけて、「私は売ったお金全部で、初代教会にお尽くししました」などと、うそを言って持ってきたから、ペテロは怒ったんです。見せかけの善行、この偽善をとがめたのであります。
持ってきた行為はよいです。しかしながら、その動機がバルナバのように、わざわざ遠い自分の故郷の土地を処分して、その売った代金を献げたのとは違いました。よそ様とのおつきあいで、義理で献金しようとした。しかもその一部分を持ってきて、全部を献げたように装ったから、ペテロは怒ったんです。
ここのペテロの言い方が面白いですね。原文は、口語訳のように「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて」ではありません。「自分のハートの中に、どうしてサタンが満ちたのか、巣くったのか」と書いてあり、サタンが主語になっています。「どうしてあなたの心にサタンが満ちたのか、あなたが聖霊を欺くために」と迫った。
私たちは油断しておりますと、聖霊に満たされていても、いつサタンが巣くってしまってそれに気づかずにおるか、わかりません。聖霊を欺くためにサタンが取って代わっている。そして、サタンはこのような見せかけの偽善をするんです。
ペテロは言いました、「どうして地所の代金をくすねたりしたのか。あなたは、売らずにいてもいいんだよ」。そうです。また、財産の一部分を献げたっていいんです。「何で『これが全部の土地の代金です。とうとう安売りしてしまった』というような偽りを言って持ってきたか!」と言ってペテロは叱(しか)ったのでしょう。
「アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた」(5章5節)というから、よっぽど激しく言ったとみえます。聖霊の人ペテロには、言葉だけでない、不思議な言霊(ことだま)といいますか、霊が働いていた。それでアナニヤは、聞きながら倒れました。
その後、妻のサッピラもペテロに偽りの申告をしたため、夫と同様にペテロが叱責(しっせき)すると、この女もバタッと倒れて息が絶えてしまった、と記されています。
神に呼び集められた者たち
3時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。
使徒行伝5章7~11節
「教会」と訳されている「εκκλησια エクレーシア」という言葉が、使徒行伝では初めてここで出てきます。このエクレシアというギリシア語は、ユダヤ教なら「シナゴーグ(会堂)」というところですが、それと混同されたら困りますから、わざわざこの言葉を使ったのです。
元来「エクレシア」は、アテネの市会などを召集する時に”エクレシアを召集する”というように使われました。また、ヘブライ語で「集会、会衆」を意味する「カハル」が、旧約聖書のギリシア語七十人訳では「エクレシア」と訳されています。すなわち、「神の集会」のことを、ギリシア語を語るディアスポラ(離散)のユダヤ人たちは、旧約時代から「エクレシア」と呼んでいた。後に、初代教会時代に皆が「エクレシア、エクレシア」と、自分たちの群れを称するようになりました。
エクレシアは「呼ばれた者たちの集まり」ですから、召集がかからないとありません。市会はいつもあるものではない。市会議事堂が市会ではありません。大事なのは、市会が召集されているということです。同様に私たちもエクレシアであって、日曜日の朝、このようにやって来ますけれども、いつも神が呼び集めたもう時にエクレシアは成立します。
「みな非常なおそれを感じた」とあるように、アナニヤ、サッピラが主の霊に打たれたのを見て、皆の中に「信仰をごまかしたら、エライことになる」という恐れが起こった。これは、初代教会に大きな戒めとして、よいことでした。
財産と人間の存在との葛藤
使徒行伝はこのように、いい意味においても悪い意味においても、初代教会の一面を書きつづっております。
財産の問題は非常に難しいものでして、ギリシアの哲学者プラトンはその著書の中で、「私たちは、2つの敵を警戒しなければならない。それは”富”と”貧”である。1つは、人間の精神を腐らせる富の贅沢(ぜいたく)である。他者は、貧窮のために恥をも忘れ、生きる困難に苦悩すると精神を失うことだ」というようなことを言っております。
それについて先日、ルカ福音書15章の放蕩(ほうとう)息子のお話をした時に触れました。
この譬えに出てくる放蕩息子は、父親に「父よ、あなたの財産のうちで私が頂く分を下さい」と言って、父から財産を受け取り遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした。そのうえ、その地方にひどい飢饉があったので土地の人のもとに身を寄せ、とうとうユダヤ人の忌み嫌う豚飼いをしなければならなくなった。
ついに食べる物もなくなった時に、彼は本心に立ち帰って、父の家へ帰ろうと決心した。帰り着くと父は走り寄り、その首を抱き、最上の着物を着せ、肥えた子牛を屠(ほふ)って皆と息子の帰りを祝った。このように、神はどんなに痛める愛をもって、神から離れた人間の帰りを待ち焦がれておられるか。
放蕩息子は、父親のもとを離れたくて父親から譲り受けた財産を全部持ち去り、遠い他国に行き、身を持ち崩しました。富が魂を腐らせてしまったからです。
人間は無限に欲望があって富もうとする。しかし、富んだために贅沢すると、魂が腐ります。それで、貧しいほうが天国に近いんだと人は思いやすいけれども、恥じらいもなく貧乏しますと、「貧すれば鈍す」で精神を失ってしまう。人間は富んでも魂を腐らせるし、貧しければ精神の力がほとんど働かなくなる。恥も外聞もなく駄目になってしまいます。ここに信仰の難しさがあります。
ルカ福音書の原文では、父の「財産、所有」と訳された言葉は、「ουσια ウーシア」というギリシア語で書いてあります。この言葉は元来、「在る」という動詞「ειμι エイミ」の分詞形からできたものでして、英語の「being ビーイング 存在すること、存在するもの」と同様の意味です。
放蕩息子は、何でもことごとくかき集めて所有しようとしましたが、それを失い、彼の存在はついに豚飼いにまで成り下がった。物に頼ろうとしたため、頼るべき物もなくなった時に、もう死ぬばかりになって、ウーシアを、存在を失った。存在するということと、所有するということが、これ一つの言葉です。ここに、私たちに問われる問題があります。
富も貧も超えて生きるには
金持ちほど自分の存在が確かだと思うが、そうではない。物質への所有欲を満たそうとする時に、ついに身を滅ぼしてしまいます。また反対に、物を所有しないならばしないだけに、か細い存在の生き方しか人間はしません。ここに、非常に物質と精神とのバランスの難しさがある。
これを救うものは何か! ”神に立ち帰る以外に、ほんとうに人間の存在の意味は満たされない”。英語の「existence イグジステンス 存在」という言葉は、「根源からはみ出して存在する」という意味です。ところが、神から切り離されたら、人間はほんとうには存在ができません。私たちは、物を持ったからといって存在はできないし、物が乏しければ、なお存在が難しくなる。
放蕩息子は父の懐に帰ってきた時に、祝された豊かな生活に入りました。指輪をはめ、履き物を履き、最上の衣で装われ、肥えた子牛を屠って最上の食物を食べ、宴を設けられたという。そのように譬(たと)えられた、父のもとでのほんとうに喜ばしい生活というものは、地上の物質を失った後、”神の懐に帰った時”に与えられる存在のあり方です。
初代教会では聖霊に満たされたら、一同が持ち物を持ってきて、一緒に使おうと差し出した。神のもとに立ち帰り、聖霊によってコンバージョン(回心)をしますと、皆がこのようになります。私たち幕屋の初期のころも同様でした。物質がない時代に、お互い愛し合い、物も皆で分け合って心豊かに生きていました。
いくら宗教生活をしていると言いながらも、このような豊かな域に達しないならば、宗教をしないのと同じです。
私たちの存在は、霊的存在であります。スピリチュアル・ビーイング(霊的存在)である時にほんとうに幸いなのであって、物を自分で持って、物に頼っている間はつまらない。
使徒行伝には、みんなが聖霊に満たされた時、持っている物をたたき売ってでも集まった、と書いてあります。まあ、今のような豊かな時代にそのとおりにやるということは、そう必要のないことですが、せめて神の御霊に満たされるということだけは、人後に落ちまいと願います。
祈ります。キリストのお父様、心から御名を賛美いたします。初代教会のありさまを、私たちは今日、学ぶことができまして、ありがとうございます。
大事なことは、イエス・キリストの十字架上に流したまいし御血汐(おんちしお)、聖霊に満たされることです。そして、私たちは次の変化を待ちとうございます。主よ、あなたの御血汐をこの場に注ぎ、一人ひとりに満たしたまわんことをお願いいたします。
あなたの御霊が満ちる時に、私たちはどんな困難、どんな迫害の中にも進んでゆくことができます。どうぞ、導いてください! 満たしてください!
(1970年)
本記事は、月刊誌『生命の光』879号 “Light of Life” に掲載されています。

