聖書講話「キリストの御名の力」使徒行伝3章1~10節
新約聖書に記された福音を、私たちはオリジナルの福音、「原始福音」と呼んでいます。聖書において信仰とは、ただ神の存在を信じるということではありません。神は生きておられ、人間を愛して、私たちが声を上げて祈る時に、それにこたえてくださると、今、信じることです。
今回は、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の後、弟子たちを通してなされた、いやしについて学びます。(編集部)
私たちの幕屋の中には、あふれる”いやしの流れ”、霊肉共にいやす流れというものがどこからか噴き上がってくる。これは不思議な現象ですが、事実です。私たちの中の多くの人が体験したからです。他のキリスト教会では忘れられていますが、どうか、私たちは聖書に記された原始福音に留(とど)まりとうございます。今日は、使徒行伝3章を読んでゆきます。
さて、ペテロとヨハネとが、午後3時の祈りのときに宮に上ろうとしていると、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。
使徒行伝3章1~2節
「さて」と書きはじめていますが、これは2章43節に「みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた」とあるのについて一つの例を挙げたのです。多くの奇跡がありましたが、この話は特に有名だったとみえます。
「ペテロとヨハネとが、”午後3時”の祈りのときに」とありますが、当時、ユダヤ教徒は朝と昼と夕の3回、神殿に来て祈ったといわれます。このことからもわかりますように、ペテロやヨハネはユダヤ教徒らしくその宗教的慣習を守っていました。殊さらキリスト教といって、ユダヤ教と違ったものではなかったのです。
そこに、生まれながら足の利かない男が運ばれてきた。自分では歩けませんから、皆で担いでくるわけですね。なぜかというと、この男は「宮もうでに来る人々に施しをこうため」に、美しの門の所に置かれていたからです。
ちょうどその時運ばれてきた、といいますから、日に3回ある祈りの時間に限って連れてこられました。いちばんたくさんの参詣者がいますから、乞食がやりやすいわけです。

人通りの多い門であったため、聖書の「美しの門」をフルダ門とする説がある
「我を見よ!」
彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
使徒行伝3章3~4節
「じっと見て ατενισας アテニサス」というのは、「睨(にら)みつける」という字です。そう言ったら言葉が強すぎるかもしれませんが、注意を集中して見る意です。そしてペテロとヨハネは、「私たちを見よ βλεψον εις ημας ブレプソン エイス ヘーマス」と言った。その乞食の男が物欲しげに施しを乞(こ)うた時に、神殿の前にありながらも神殿の意味がわからぬ、そんな者を教えるについて、2人はよく目を見据えて、「私たちを見よ」と言いました。
これは、伝道する場合に非常に大事なことなんです。乞食はいつも下ばかり向いて、金をどれだけ落としてくれるか、それだけにしか注意がゆかない。そんな物質にしがみついている者の心をそこから離して、「我を見よ!」と言わなければ伝道になりません。
私は時々、下を向いている人に対して、「ぼくを見なさい」と言って話しかけます。どうしてか。宗教には、精神の集中が非常に大事なんです。信仰は、心の奥底の出来事であって、表面づらの出来事でないからです。お互いの目と目とが、火花を散らすように見つめ合わなければわからない。こういうことは、伝道する時の大事なコツです。私は、聖書のこういう箇所を読みながら覚えたんです。
「私を見なさい!」と言うと、人は誤解して「手島は”自分を見よ”と言う。おかしい」と言います。そうじゃないんです。その人の心を集中させて、宗教的なものを見させる目を与えなければ、金銭だけにしがみついている者には、どうしても神の国は開けない。わき上がってくる生命の泉を注入することができないのです。
ですから身近な例ですが、子供を叱(しか)る時でも、ただ叱っちゃ駄目です。「お父さんを見なさい!」と言って、目と目とを見合って話して聞かせることが大事ですね。
ましてや、これは神癒(しんゆ)の祈りをするような時に絶対に大事なことです。ただ口先だけで、「神様、この人が治りますように。あの人がこうなりますように……」と、そんなことでは駄目です。相手の心の中に信仰をわき起こしてやらなければ、奇跡は起こらぬ。そのために「我を見よ!」と言うか、言わないまでも注意を集中させることは、大事な条件です。
聖書は救いの秘密を内包した宝典ですから、一字一字、一句一句に意味があるんです。それを見過ごしにせず丁寧に読んでみますと、同様のことを今でもやれます。
精神集中の大切さ
彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、
使徒行伝3章5節
こういう状況が非常に大切です。信仰は精神の集中です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なるなんじの神を愛すべし」とイエスも言われたように、心が尽くされなければ駄目です。表面的な祈り方や信じ方じゃ役に立たない。普通の人はなかなかせっぱ詰まりませんが、もう命が助かるか助からないかという時には集中しますね。
先ほど橋爪祐治君が、7年前、小豆島の夏期聖会で救われたことを話されましたが、私は今でもありありと覚えております。この人はそれ以前に幕屋に連れてこられたが、体が非常に悪いので聴講態度もよくありません。肝炎で、結核であり、血圧は高い。腎臓(じんぞう)も膀胱(ぼうこう)も悪い、と幾つもの病気を併発して、医者もとうとう見放してしまった人です。それよりも悪いことにノイローゼにかかって、そわそわしている。じっと精神を集中することができません。「私はどうしたらいいでしょう。『信ぜよ』と言われても、ノイローゼですから信ずることができんです」と言って、てこずらせなさったものです。
「もう嫌だ」と言う橋爪君を、皆が騙しすかして聖会に連れてきた。「肉体はいやされなくても、せめて心だけでもいやされてから死ねるように」ということでしたが、その聖会に来られてからというもの、この方がすっかり変わっておしまいになった。もう手がつけられない状況でしたが、聖会にたぎっていた”いやしの流れ”が彼の内に込み上げてきた時に、不思議な変化を示しました。「なんじの信仰、なんじを救えり」で、人間は自分の心に強い信仰がわき上がってきますと、自分をいやします。
ペテロとヨハネがその乞食をじっと見て「私たちを見よ」と言った時、彼は何かをもらえるのだろうと期待して、2人に注目した、とあります。ここで、もう一つ大事なことは、この「expect エクスペクト 期待する」心です。神様は何かをなしうる、と期待しなければ駄目です。乞食は、2人が何かをなそうとすると思って注目しました。
信仰とは神と一つになることです。「贖い」という言葉は英語で「atonement アトーンメント」といいます。これは「at-one-ment アット ワン メント 一つになること」をいい、神と一つ(one ワン)になることです。またペテロのもっていたような信仰と一つになることがないと、神癒も成功しないんです。
金銀以上の切り札
乞食が注目して期待していると、
ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
使徒行伝3章6~8節
金貨や銀貨は私にはない、と言うならば、乞食はがっかりして失望します。しかし、がっかりさせておいて、もう一つのことを言い込むわけです。
ここに「わたしにあるもの」とあるが、原文では「わたしが持っているもの」です。それは何か? 「ナザレのイエス・キリストの名において歩け」と言った。こう言って、彼の右手を捉(つか)まえて起こしてやると、足の甲とくるぶしとが立ちどころに強くなった、強固になった。そして、「踊りあがった」。バネのように跳び上がったんです。それだけではありません。「そして、歩き回ったり踊ったりした」。「踊ったり」の原語「αλλομενος ハルロメノス」は、イザヤ書35章に「その時、足なえは、しかのように”飛び走り”、おしの舌は喜び歌う」とありますが、子鹿(こじか)が跳びはねるように、躍動するようすを言っております。
ペテロは、「金銀はわたしにはない。しかし、わたしが持っているものを与えよう。ナザレのイエス・キリストの名において立ちて歩め」と言いました。
実に多くの人々は、金銀が最高のもののように思います。金さえあれば、この世は何でも解決つくように思っておる時に、ペテロは金銀以上のものを持っておりました。これは、ぜひとも私たちが持っていなければならないものです。これさえあれば大丈夫ですね。
「自分には金がないから。年金でもあったら伝道ができるけれども」と言うような人には、本当の伝道は期待できません。「自分には何もない。ただキリストの御名だけに頼る」と言う人には、キリストの御名は驚くべき切り札として働きます。
ペテロが、「わたしが持っているもの」と言ったのは、人々が卑しめるナザレのイエス、その名でした。それは、ただイエスの名を信じている、というような空(くう)なものではなく、実に、名を呼べばこたえるような実存的なものでした。「εχω エホー 持つ」という言葉で表現しているように、イエスの名を帯びている人だけが、御名を知っていると言えます。
当時、イエス・キリストは、地上に生きておられません。しかしペテロには、イエス・キリストの御名を呼べば、ひたひたと何か感ずるものがありました。ペテロの持っていたのは、キリストの霊を帯びた御名でした。これが切り札のように働きます。これさえあれば、不思議な生涯を全うすることができます。
今のキリスト教会は、お金の力で、医薬の力で、病院で、伝道ということをしております。だが、初代教会においては、そういうことはなかったんです。医薬があればけっこうです。しかし、もっと大事なものがあります。霊肉共に、人を生き返らせるものがある。これによって私たちは勝つ。これによって生きるんです。
ペテロは、人々が卑しめるイエス・キリストの御名を、ほんとうに握っておりました。そうでない人の言うイエスの名と、ほんとうに握っておる人の御名による体験とは別です。
何も「金銀が無用である」というのではありません。しかし、もっとよいものを知っておったのがペテロでした。また、私たちの原始福音でなければなりません。
大事なものは金と銀ではありません。もっと大事なものがあります。それは、ナザレのイエス・キリストという御名です。この大御名は、ほんとうにオールマイティーの切り札のごとくに働きます。
今も聖書と同様のことが
美しの門の所に座っていた足の利かない乞食が、歩き回ったり踊ったりして神を賛美する、というのですから、霊肉共にいやされたということがわかります。
民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。
使徒行伝3章9~10節
こうして使徒行伝を読んでいますが、聖書が何だか自分たちと無縁のもののようにお感じになることはありませんか。「なるほど、福音書や使徒行伝は素晴らしい。だが、昔そういうことがあったというだけだ」と思うと、私たちは聖書を読んでも深く感じません。
しかし、聖書は決して皆さんをじれったがらせるために、神の御業を、神の御力を人々に示しておるのではないんです。神が存在するという概念を信ずることは易しいでしょう。だが、電気に触れた者はビリッと感じて電気の存在を知るように、神の存在を信ずるということは、神の力に触れる経験なんです。そうしてわき起こった人の信仰と、本を読んで信じはじめた人の信仰とは違うんです。
この乞食が神を賛美する者に変えられたように、私たちもそう変えられようと思うならば、どうしたらよいか。同様の経験をもたねばならぬということです。神の存在を信ずるとは、神の力を信ずることをいうんです。「そりゃあ、そうでしょう。しかしまあ、それは信仰の深いだれかさんたちにはあるかもしれんが、私とは無縁でしょう」と思う人には、いつまでも無縁であります。聖書を読んでも感動は起きません。
なぜイエス・キリストが地上に降(くだ)らねばならなかったか? それは、神の愛、神の力が人間界において働く時に、どのように作用するかということを示すためでした。ただ人々に見せびらかして、じれったがらせるためではありません。もし神の御心に同調するならば、今も同様なことが経験できるということです。
それに対して、「神は全能である、ということを私も信じます。けれども、私に対してその力が及ぶとは思えない。神様が果たしてその力を作用させるかどうか、疑いがある。自分にはそういう経験がないから」と言う人がいます。
しかし、人類は神を誤解している。イエス・キリストが地上に現れたのは何のためであるか。神がいかに愛であるかを示そうとして来られたのである!
「彼を信じる者が、すべて永遠の生命を得るため」(ヨハネ福音書3章15節)に、救われるために来られたのである。それで、もし神の全能の力──神はすべてのことをなしうるということ──を信ずるなら、私たちにも同様のことが起きます。
神の御愛に信じ抜いて
ある人は、「熱心に求め、期待したら救われるんですか?」と問うかもしれません。もちろん熱心に求め、期待しなければなりません。信じようとしなければいけません。しかし、何か信仰を誤解しているときに、キリストの御言葉を思い返してみることが大切です。
聖書には「すべての傷ついた者、病んだ者を、キリストはいたくあわれまれた」ということが何度も書いてあります。もし私たちが病気であったり、いろいろ身体(からだ)に故障があったりするならば、そんな私たちを神は、キリストご自身は今もあわれんでおられると、まず感ずることが大事です。そうでないと、自分は除外された人間だと思って、すぐ継子(ままこ)のようにひねくれた根性を起こします。それでは「神様!」と言って、ほんとうに頼って祈れませんね。キリストは、「わたしが来たのは、多くの人々にこの生命を与え、豊かな生命を与えるためである」と言われました。このキリストの生命に触れる時に、私たちの上に考えられないようなことが始まるんです!
皆さんが祈られる時に、もう一度、愛の神がいかに私たちをあわれんで、私たちによきものを与えようとしつつあるかを、まず思い浮かべることです。そうでないと、信仰が冷えた時には、祈りがおかしくなるんです。
もう一つ大事なことは、熱心に祈るだけでなく、あるチャンスというものがあります。そのチャンスとは、聖霊が注がれる雰囲気に、聖霊が注がれる場に遭遇すること、聖霊の油を注がれた人に出会うことです。
イエス・キリストは伝道の初めに、「主の御霊がわたしに臨んでいる。貧しい人々に福音を宣べ伝えるために、主が油を注いでくださったからである」と言われました(ルカ福音書4章)。この「油を注ぐ」とは、「聖霊を注ぐ」という意味です。「キリスト」とは、「救世主(メシア)、油注がれた者」という意味ですが、”油注がれた者の側に”来なければ不思議なことは起きない! 救いは起きないんです! 私たち幕屋の、名もない者たち、しかし聖霊が注がれた者たちが叫ぶ時に、不思議なことが起こる。もっと起こらなければなりません。
油注がれた人の側(そば)に来ることに対し、「いや、それは人間にすぎないのに」と言って否定するかもしれないが、霊が見えないからそういうことを言う。なぜ、ナザレのイエスの名が、死んだ後も、ペテロに躍如として働いたのでしょうか。イエスの御霊が彼にも注がれておったからです。ペンテコステ以後、そのような状況変化が起きました。
聖書は、”神は愛であって、こよなく私たちをあわれんでおられる”ことを伝えております。どうか、私たちは御言葉を、御旨を信じ抜きとうございます。神様は私たちの魂の父です。人間でも、親は愛する子供が不幸であったら、いい気持ちはしませんよ。
冷たい雰囲気の中では、信ずることができません。暗い気持ちにだけ駆られます。どうしても、油注がれた光の人に出会うことが大事です。そういう人たちを友とすることが大事です。そうしたら、人生観が変わってきます。
「もう自分なんか駄目だ」と言って、自分の信仰を眠らせている人が多い。だが、「寝た子を起こすな」という言葉がありますけれども、私はあえて「寝た子」、私たちの胸の中に宿っている「神の子」を起こしたいんです。神の子は聖霊の息吹に触れると、本能的に起き上がってくる。そうしたら、今までと違った経験が始まります。どうか、長い間眠っている魂を揺り動かそうではありませんか。
(1970年)
本記事は、月刊誌『生命の光』871号 “Light of Life” に掲載されています。