聖書講話「生命は憧憬する」マルコ福音書3章1~6節 ―― 夢の実現に向かって ――

新しい年を迎えました。混迷する世界と日本の状況に、希望の光が射し込むことを祈ります。
人間の心に真の希望を与え、目に見えるどんな状況に対しても力強く生かしめ、時には奇跡をもってでも人間を救うのが、イエス・キリストが説かれた神の国の福音です。
今回は、希望をもってこの1年を過ごされることを願い、手島郁郎の聖書講話を掲載いたします。(編集部)

私はいつも、信仰とは何であるかということを説いてまいりました。今日も聖書を通して、信仰とは何かを学びたいと思います。この信仰の言葉が皆さんの胸の中に宿ったなら、必ずやこれが力となって、皆さんを大成させずにはおかないと思います。

今日は、マルコ福音書3章1節から学んでまいります。

イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

マルコ福音書3章1~6節

ユダヤ教の安息日は土曜日です(正確には金曜日の日没から)。土曜日には一切の労働を慎んで、礼拝をすることがよいと考えられておりました。それが道徳的、戒律的な善でありました。けれどもイエス・キリストにおける善悪は、道徳的なことではなかった。

キリストにおいては、命を生かすことが最善であって、命を殺すようなことは最悪である。ですから、当時の宗教家たちに「安息日に、命を救うのと殺すのとではどちらがよいか。道徳的な善悪にとらわれて生きることが善なのか」と問いました。しかし、宗教家たちは偏見にとらわれていて、答えようとしませんでした。するとキリストは怒りを含んで彼らを見回し、片手のなえた者に対して、怒鳴るように「手を伸ばせよ!」と言われた。そこで手を伸ばすと、手は元どおりになった。これがイエス・キリストの宗教であります。

すべて命あるものは、植物でも動物でも、みんな意識を、心をもっております。植物は植物なりの無意識的な意識をもっております。庭にまかれたえんどう豆は、日光に向かって伸びよう伸びようとして、長いつるを這(は)わせて太陽の光を求めます。これは生命が、ある意識の力、心の力によって、動こう、生きようとしている証拠です。動物では、これがもっと顕著です。

人類の進歩の鍵

人間は他の動物に勝(まさ)って、ここまで進歩してまいりました。なぜそのような進歩をしたのかということを、人類学者は盛んに研究いたします。昨日の新聞を見ますと、京都大学の今西錦司(きんじ)という教授が、野生チンパンジーと原始的狩猟部族の研究のためにアフリカのタンガニーカ湖のほとりに行って、2年間も滞在するといいます。それは、なぜ類人猿が進化してついに人類になったのか、そのきっかけは何だったのかを研究するためだということです。なぜ食物の豊富な、木の生い茂るジャングル地帯ではなく、草原地帯に、人間にいちばん近い類人猿が発生したのか。それは生物学の謎であります。

人類が最も発達した地帯は中近東地方です。最近、東京大学の調査団がイスラエルで、10万年前の人類の祖先の骨を発掘しました。何千年も前から、あの付近一帯は人類が最も偉大な文明を打ち立てた所であります。けれども、その多くは不毛の砂漠地帯です。なぜそんな所で人類がよく飛躍できたのか。これは人類の進歩を考えるときの、大きな鍵です。

中近東は、ただ素晴らしい古代文明を生み出しただけではない。この数千年間の歴史の中で、稀(まれ)に見るような優れた聖者、偉人、預言者といった超人的な人間、思想家たちが、そこから続々と生まれました。そのような地帯はいったいどういう状況であったのか、また、なぜそのような所に生まれてきたのか、興味は尽きません。

むしろ現代のように文化的に進歩した社会は、人類の進歩のためには楽すぎて、退化をきたす原因となるかもしれません。

私が今度、初めてイスラエルへ行くに当たって抱いている大きな興味の一つは、そのような人類学的な問題です。またその人類の中から、なぜイエス・キリストを頂点とする聖者群ともいうべき人々が発生したのか。そのきっかけをつかむことは、今後、私が日本で伝道するうえで大いに参考になります。

ネゲブの荒野に咲く、原種のチューリップ

人間を完成させる道

これは何も、不毛の砂漠地帯のことだけではありません。この片手のなえた人のように、自分は出来損ないで不毛の人生だ、と思って嘆き苦しんでいる者を見られて、キリストは「安息日に、道徳的な善悪といったことは問題にならない。命を生かすのと殺すのとでは、どちらが大事か」を問われた。そして、希望のない肉体の者でも、普通の健康人のように手足を伸ばしたい、と願いさえすれば、またキリストがそう願わせるように「手を伸ばせ!」と言われたら、ついに手が伸びた、ということです。

すなわち、生命は進歩し、向上してやまない。完全でありたいと求めている。けれども実際には、求めるけれどもなかなか得られない。それはなぜか。いろいろな因習、道徳、あきらめといったものがその人を縛っているからです。もしそんなもので人を縛ることが宗教ならば、実に人間の進歩を害するものが宗教であるといわざるをえません。

イエスにおける宗教は、人間を完成させる道であります。そして自分には希望がないと思っている人間であっても、「私はかくありたい、健全でありたい」とあこがれる、憧憬(どうけい)する心さえ起こすならば、そのごとくになる! ということであります。

生命あるものは、憧憬する。あこがれのない人間に、どれだけ信仰を説いてもだめです。もし皆さんの胸の中に、ある一つのあこがれの心が起きさえしたら、そのあこがれの心を決していじめたり、つぶしたりしてはいけない。必ずそのあこがれが、私たちをそのごとくにします。どういう方法、どういう経路で全うせられるかは別ですけれども、皆さんの胸にあこがれが、希望が起こりさえすれば、やがてそのあこがれ、希望のごとくになります。

私たちは、願わずには、希望せずには向上しません。植物すらも、可憐な願いをもって、太陽に向かって伸びようとしているではないですか。ましてや人間は、もっと強烈な願いをもつべきです。

「人間」をギリシア語で「ανθρωπος アンスローポス」といいますが、これは「上を向く」という意味からきています。人間は四つ足ではなく、二本足で歩く。この、屈(かが)んでは生きたくないという意欲が、ついに人類を生み出したのです。人類の発達は頭が発達したためか、手が発達したためか、それは人類学の根本問題ですが、今まで前足であった手を、歩くためではなく違う用途に用いだしたために、人類が猿類から分かれたのだと言う人もおります。

求めよ、さらば与えられん

同様に、私たちはいろいろな心をもっておりますが、普通の人のような心の使い方をしている間は、群を抜くことはできません。私たち神の子らは、ほかとは違う心の働き、心の使い方をして、自己完成を図ってゆかなければなりません。

生命はあこがれる、生命は伸び上がる、そして、それを実現することが人生であります。

ところが、今のキリスト教会には、「あなたのように欲張りに望むのは罪ではないですか。無欲であることが大事です。恵みというものは神様にご一任すべきことだから、求めない気持ちが、神の前にある謙遜というものです」などと説く者がいる。

それに対して私は「ノー!」と言います。キリストの宗教は、そんな消極的なものではない。聖書に、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門をたたけ、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり」(マタイ福音書7章7~8節)とあるとおりです。どんな悲惨な状況下にも、人間の心に、あるあこがれが、願いが起きるならば、そのごとくになります。

またキリストは、ヨハネ福音書14章以下の「最後の遺訓」において直弟子たちに向かって、「なんじら何を求めようとも、われが、神の霊がそれをなすであろう。そのことによって、神は栄光を受けたもう」と言われました。神は現象的なものではありませんから、肉眼で見ることはできません。けれども、あなたがたに望む心が、求め心が起きることを通して、キリストという偉大な守護神が、その願いを実現に至らせる。それによって神の栄光が現れる、ということです。

「栄光」とは何か? 聖書においてその根本的な意味は、見えないはずの神の霊が、見えるように現在してくることです。それで不思議な奇跡が起きるときに、人々は「神のご栄光が現れた」と言うのです。

「あなたがたがどんな大きなことを願うとも、わたしが、神の霊が、聖霊が助け主として働いて、その願いを実現に至らせるであろう」。イエス・キリストがそう言われたように、見えないはずの神が光まばゆいように現在し、その人の人生に祝福の世界をもたらす、それが「栄光が現れる」ということの意味です。

願いを満たすもの

よく人は、「私は願いたい、望みたい、しかし病気です。不幸です。お金が足りない。親や親類、兄弟、周囲の妨害がある。だから私は、神に任せてじっとしていよう」と言います。それなら望むことができないじゃないか。しかし「望む」とは、そのような妨害を排除することです。

皆さんが、大きな願いをもち、そのごとくになるならば、神様はお喜びになります。「私は大実業家になる」「優れた芸術家になる」「人ができないような縁の下の力持ちの仕事をやる」。願いは何でもよいが、神様はめいめいを違ったことのために用いようとしておられるのです。そして持ち場、持ち場において、とても神の栄光が現れるような状況ではないと思っていても、大きな願いをもってやりだすと、やがてガッと栄光が現れます。この手のなえた人が、神の力を引き出していやされた時に栄光が現れたように、私たちはいろいろな場所で神の栄光を現すことができます。

私たちの願いを、満たそう満たそうとするのが、キリストであります。ヨハネ福音書を見ましても、「満たす、充足する、満ちあふれる」という言葉がたくさん出てきます。神は満ちあふれさせるものです。見えない霊が現象界に現れてくると、満ちあふれるようにその願いを充実させてくれる。聖書をお読みくだされば、いっぱい書かれています。

多くの人はいろいろ苦しいことがあると、「堪忍が大事だ、辛抱しなさい」と言います。辛抱することもいいです。けれども運命の奴隷のように、屈従する、堪忍することが信仰ではありません。もちろん、やがて大いなる栄光が現れるためには堪忍することも大事です。だが、堪忍のための堪忍はすべきでない。私たちはただ堪(た)える、あきらめるために生きているのではない。道徳に縛られ、よいことをも願うのをやめて、じーっと戒律に縛られているのが当時の宗教であったときに、イエス・キリストは、命を救うためならば、安息日を守るという最も神聖な掟(おきて)、十戒を破るようなことをもせよ、と言われました。

私たちは、願うことなくして向上しません、進歩しません。キリストの霊が助けたもうこともありません。求めることを否定し、あたかもあきらめることが信仰であるかのように説くキリスト教的迷信、私はあえて「迷信」と言います。そのような迷信から解放されることを願います。そして皆さんが、活き活きとして生活なさるように願います。

私たちの胸にチラッとでも閃(ひらめ)く、ある理想があったら、それを強く願い、実現を期待しておればよい。もちろん妄執、我執のようなものではだめですが、大事なことは、それを妨げようとする恐れや不安、欠乏感、謙遜して求めぬがいいという誤った信仰を打破することです。まるでキリストが、助けられない偶像かのように思う心を捨て去ることです。そうすれば、夢は蝶々のように羽を広げて、ますますあなたの心を占領し、魅力あるものといたします。これは、今度のイスラエル行きを通して私が学んだ真理であります。

夢が実現して聖地ヘ

6月の末、私は聖地イスラエルに、エルサレムに行ってみたいと思いました。聖書を講ずる者として、かねてから願っておりましたが、とてもかなわないことだと思って、長い間、自分自身でその夢を縛っておりました。まず旅行に必要な金がない。そして外貨事情の極めて厳しい現状では、世界的に有名な学者なら別ですが、私のように日本の片隅で小さく生きている者に、役所はドル持ち出しの許可をくれないだろう。したがって外務省も旅券を交付しないだろう、との予測がつきました。

それに、3カ月はこの集会を留守にするわけですから、皆さんに迷惑をかけます。また「海外旅行なんて、先生は利己的な振る舞いをする」といったご非難を受けるんじゃなかろうか、などという気兼ねがいっぱいありました。ところが、夏の聖会で私が「志あるところ道あり。私は今秋、エルサレムに行きます」と言いましたら、皆さんがわがことのように喜んでくださいました。そして多くの人が助けてくださり、もったいないことでした。

旅券を取る時も、外務省の係官は、海外からの呼び寄せがないとだめだと言いますので、とても私は無理だと思ってあきらめかけました。ところが、昔からの友人である伊藤忠(いとうちゅう)商事の戸崎誠喜(せいき)氏の計らいで、招聘状(しょうへいじょう)を整えることができました。

こうして多くの人たちが有形無形に助けてくださるので、自分では何も案ずることがない。恵まれるばかりで何も不安がない。しかしこれは、ただ私が恵まれたという話ではなく、皆さんに、信仰とはどういうことかを申し上げたいがために話しているのです。

理想を現実にせよ

皆さんの胸にふと閃くように希望が起こったならば、それはあなたの将来によきことが始まる前触れ、シグナルです。その時、あなたの夢の実現は近いということを、自分の胸に言い聞かせることが大事であります。

生命あるものは意識し、心を動かします。その意識はあこがれになります。そのような憧憬、希望、念願があなたがたの胸にわいたならば、やがてそのごとくになります。キリストは「なんじの信ずるごとく、なんじになれ」と言われます。キリストが手助けしてくださるから、私たちの夢は実現するのです。私が願うだけでそうなってゆくから、面白くてしょうがない。

大切なことは、われにもあらぬ、人から笑われるような大きなあこがれをもつことです。現状がどんなであったとしても、願うことです。やがてそのごとくになってまいります。宇宙に満ちている愛というか、エネルギーは、私たちが心の扉を開きさえすれば、ガーッと満たすように働きかけてきます。

けれども、理想をもちなさいと言っても、ただボーッと空想を描けというのではありません。私はどこまでも現実的理想主義者でありまして、自分の理想を生涯かけて実現し、歩いてみることが、私の言う理想です。かなわない理想は私の理想ではありません。どうぞ皆さんは、私の留守の3カ月の間、自分の願いに向かって一歩一歩、歩いていただきたい。そして、その夢に近づき、展開してゆく光景を見て喜んでいただきたいと思います。

私たちが、物質的にも精神的にも恵まれ、満ちあふれるようにして人に与えてやまない、人を助けてやまない神の子の姿になることを、神はお喜びになります。
どうか、よく祈って、いつも胸の中に神の囁(ささや)きを、キリストの内なる囁きを聴きながらお生きになりますよう、お願いいたします。

(1961年)


本記事は、月刊誌『生命の光』839号 “Light of Life” に掲載されています。

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