聖書講話「こまやかに助ける者」ヨハネ福音書16章12~13節

聖書には、さまざまな教えが書かれていると思われることでしょう。もちろん、人生の教訓や信仰上の教えも含まれています。でも大事なことは、聖書は神に導かれた人たちの記録であるということです。それは、私たちの普段の生活からかけ離れたことではありません。
神に導かれるとは? ……ヨハネ福音書に記された「最後の遺訓」を通して語られています。(編集部)

イエス・キリストは2000年前、地上に来られました。そして十字架にかかって死なれたが、復活して天に昇られました。地上で伝道された3年間、弟子たちに教えられたいろいろな事柄は、聖書に書き残されています。それで、「クリスチャンはキリストの教えを守って行なうことが大事だ。イエス様は皆がそれを守って行なうかどうかを、じっと監視しておられる」と思うならば、それはキリストのお心とはだいぶ違います。

キリストは世を去る前に、「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」(ヨハネ福音書16章16節)と言われました。この「会える」は、ギリシア語の原文では「見る」という意味の語が使われています。「最後の遺訓」の中でキリストは、「あなたがたはわたしを見るであろう」と繰り返し言われています。

「そんなことが書いてあっても、初代教会の弟子たちは復活のキリストに出会ったでしょうが、現代においてはキリストを見ることなどできない」と言う人たちがありますが、それは聖書の読み違いです。聖書は永遠の書であって、今なお弟子たちが経験したような条件を満たしさえするならば、私たちも同様の経験に入ることができるのです。

このことを16章12節から学んでまいります。

私たちを助け守る存在

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪(た)えられない。けれども真理(真実)の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」

ヨハネ福音書16章12~13節

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」とあります。イエス・キリストは地上を去られるのを前にして、弟子たちに「自分はやがて死んで、父の御許(みもと)に行くだろう」と言われたので、弟子たちの心は憂いに沈み、悲しさが先に立って、それ以上何を話して聞かせても、わかってくれません。

けれども、「まことの御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」と言っておられる。これが、キリストの弟子たちに対する約束でありました。

キリストはこの少し前では、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(16章7節)と言われ、また、
「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(15章26節)と言われています。

ここに何度も「助け主」とあります。この「助け主 παρακλητος パラクレートス」とは何かというと、「真理の御霊、聖霊」のことです。口語訳聖書では「真理の御霊」と訳してありますが、この「真理 αληθεια アレーセイア」とは、「まこと、真の実在、真実」という意味ですから、むしろ「真実の御霊」です。そしてキリストが、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊」(14章26節)と言われたように、キリストの御名を呼ぶ時に神の最高の世界からやって来る霊、これが私たちの助け主なのです。日本的に言うならば守護神です。

この守護神の御霊は、キリストが「自分が天に帰った後にやって来る」と弟子たちに約束されましたように、ペンテコステ(※注)の日に弟子たちの上にまさしくやって来て、弟子たちは聖霊に浴しました。この御霊こそ、助け主なるキリストです。

キリストは、「わたしが去ったならば、わたしは再びあなたがたにやって来る」と言われました。その来られ方は、目に見える形ではなく、御霊としてやって来られる。それも、助け主として、身近にあって支える内助者としてやって来てくださるのです。私はこのことを、聖地イスラエルへの旅をした時にありありと経験しました。

エルサレム旧市街・十字架への道(ヴィア・ドロローサ)
(※注)ペンテコステ

キリストが十字架にかかられて復活してから50日後に、祈っていた弟子たちに聖霊が注がれた、その日を指す。「聖霊降臨節」ともいう。

わが妻よりもこまやかに

私は聖書を講ずる者として、一度、聖書の背景をなす聖地を見たいと願っていました。かつてモーセが立ち、ダビデやエリヤが生まれ、多くの偉大な預言者たちを輩出した地、わが主イエス・キリストが人間として歩きたもうた土地を見ることが、かねてからの夢でした。当時(1961年)はまだ海外旅行が困難でしたが、「志あるところ道あり」で、行こうと思ったら急にいろいろな難題が解決し、ついに聖地に行くことができたのです。

しかし、ただ行けただけではありません。慣れない土地ですし、危ない所もある。忘れ物をしたり、いろいろな失敗もしましたが、すべて次から次に助けられました。

初めは、イランを経由する際のことでした。税関を通る時にパスポートがない。さっき飛行機の中では、たしかにあったのに、鞄(かばん)の中を調べてもどこにもない。いやあ困った。乗ってきた飛行機は40分後には他所(よそ)へ飛んでいってしまいますから、私は慌てました。

そこに、その前の経由地で出会った一人のユダヤ人がおりました。この人が飛行機まで戻って見つけてきてくれた。もう飛行機が出る間際に駆けつけてきて、「あったよ、よかったね。シャローム!(お元気で!)」と言って、行ってしまった。

また、旅の最後には飛行場へ向かう途中、泊まったホテルにレインコートを忘れたことに気づきました。しまったなと思ったものの、しかたがないとあきらめておりました。

ところが、出発の直前に、「ミスター・テシマ」とアナウンスがあったので驚いていると、ホテルの従業員が遠い所を車で追いかけてきて、わざわざ飛行場までレインコートを届けてくれたのです。

そんなことがいろいろあって、私は飛行機の中で「ああーっ」と泣きました。聖地に行くという大きな導きもそうですが、自分の妻よりも、もっとこまやかに内助をしてくれる者が私の身近に付いて、一つひとつ私の小さな誤りをも直してくださる。しかも、優しく私を労(いたわ)ってくださいます。この霊の内助者のありがたさ、尊さを、ほんとうに知るようになりました。

内なる助け主

それからというもの、私の信仰は飛躍しました。それまでも「神が共におられる」という信仰はもっておりました。しかし、単にそれだけではない、共におられる者が、大きな目標はもちろんだが、こまごまとしたことまで手取り足取り教え導き、しくじったときには追いかけてでも助けてくれる経験。しかも、それは1回や2回のことではありません。毎日がそんなことの連続でした。私にそのような経験が始まり、ありがたい助け主に対する信頼が生まれてきましたら、どのような場合にも、たとえ地獄に落ちるような瞬間でも、私の魂を助け導く者を信頼してやまなくなりました。

ですから土壇場に来ても、私は慌てたりせず、「私の守護神キリストよ、このような場合はどうしたらよいでしょうか。どうぞあなたが私の手を取って導いてください」という信仰に変わったのです。そうしたら、次から次に奇跡的なことが起こるようになりました。

この助け主は、私の内側から囁(ささや)きかけてこられます。私も内側で「ねえ、神様」と言って自問自答するような気持ちになります。私の魂の深い底において働きかけてくる実在が、この内なる助け主・聖霊です。

ですから、聖霊が助けたもうときには、目に見ゆる外側から幽霊みたいに来るのではありません。あの人、この人を通して、その場、その時に必要なものを提供し、また偶然とも思えるようなチャンスを通して、「こうなんだ、ああなんだ」といって導きたもうのです。それがわかるようになったらもう、失敗したり、行き詰まったりして頭を抱えそうなときでも、頭を抱えなくなります。この経験に入ったら、もううれしくてたまりません。

これはお互いにおいても、知らない世界を旅したり、自分が試みにさらされるようなときに発見する信仰です。そして一度発見しただけではない、毎日のようにこの内なる助け主と共に歩く生活が続きますと、実に恵まれた生涯が送れます。

先日も、ある方が聖地に行くことになり、私に「どういう心掛けで行ったらいいですか」と聞かれます。それで、
「君は頭がいいから、綿密な計画を立てるけれども、そんな計画などは、向こうでどんな場でどんな人に会うかわからんから役には立たない。また、ただ君の計画どおりにやろうとしたら、助けようとする者すら無視することになるよ」と忠告したことでした。

真面目な人は、自分の立てた計画やプログラムに従って歩こうとします。けれども、それは自分の考え、自分の計画を実現しようとしているだけであって、御霊の主に導かれる生き方ではありません。神様が「こうせよ」と言われるのに、「自分の考えはこうです」と言って自分の考えを押し通そうとするならば、神の御思いは無視されます。

旧約聖書のヨブ記の中に、「人のうちには霊があり、全能者の息が人に悟りを与える」(32章8節)という言葉があります。そのように、自分の霊魂が神の霊に息吹かれはじめますと、思いもつかないインスピレーションがわくようになります。「そうだ、そうだ」と疑うこともなく、素直に神の御声に導かれる生涯に入ってゆきます。

キリスト信者とキリスト信者

こうしてヨハネ福音書の「最後の遺訓」を読んでみると、キリストは何かの道徳的教訓を述べてはおられないことがわかります。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるけれども、またしばらくしたら、ありありとわたしを見る。しかもまことの御霊・助け主として、ことごとく、まことのことをあなたがたに教える」と言われるように、大事なことは、私たちがじきじきにキリストに導かれる生涯に入るということです。

ですから、クリスチャンといっても2種類のタイプがあることがわかります。1つは、「キリスト信者」であり、もう1つは「キリスト信者」です。

今のキリスト教徒の多くは、キリスト信者です。しかも、教派の信者です。各自、教派を作って、「我々の考えはこうです。こういう伝統です、この伝統で生きるのです」と言うならば、生けるキリストが導こうとしても、教派の教義や伝統というものが邪魔をして、キリストにじかに導かれる経験に入りません。私たちがキリストを信じている間は、本当のキリストの弟子でないのです。

こういう助け主がありたもうにもかかわらず、私はその助け主に助けられる経験を十分に知りませんでした。聖地で学んだいちばん大きなことは、窮地に陥ったときに決まって、ホッと現れるようにして助けてくださる不思議なお方がおられる、ということでした。それからというもの、いよいよ私はキリスト信者になって、キリスト信者であることをやめました。だからもう、キリスト教は説くまい、いよいよキリストだけを伝えよう、と心に決めました。キリストの霊が真実の御霊として人々の内側から言葉を語りかけ、囁きかけて、「こうだよ、ああだよ」とお導きになるからです。

ここに、生けるキリストの信仰があるのです。この信仰に立ってからというもの、私は思い煩うことがなくなりました。さまざまな行き詰まりや、逆境に陥ったり、人から非難されたりすることがあっても、「神様はこのことを通して、きっとよいことをしてくださるに違いない」としか思えないのです。そして不思議なことが次から次に起きて、信じたごとくになります。

私たちお互いは、今も生けるキリストに導かれる、キリスト信者でありたい。

イエス・キリストが十字架にかかられる前夜、「わが名において、なんじらに遣わされる聖霊は」と言われたように、「イエス様!」と御名を呼ぶと、聖霊が、まことの御霊が助け主としてやって来られる。この経験が、本当のキリストの直弟子たる経験です。

御霊は生活の細部にまで

16章13節に「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」とあります。この「導く οδηγεω ホデーゲオー」というギリシア語は、「οδος ホドス 道」から派生した語で、「道案内する、導く」という意味です。ですから、「あらゆる真理に導く」は、「あらゆることについて、私たちにまことの道を示してくれる」ということです。すなわち内なる助け主は、私たちが困難や行き詰まりに直面したときに、「これが道だよ、こういう方法があるよ」と道案内してくださる。こんな不思議な実在があるのです。

私たちの魂が祈り心地でおり、ただ御霊の導きに従おうと思っておりますと、「これが道だ」と言わんばかりに手を引いてくださる。それで歩いてゆくことができます。

「御霊はあなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」というと、多くの人は何かの理屈を教えられることと思いがちです。けれどもそれは、まことの御霊が実際生活の万般(ばんぱん)についても道案内してくださるということです。ほとんど困難だと思うところも、ホッと抜け穴が開いたように道が開け、道案内してくださるのです。

こういうことを申し上げますと、「手島にはそんなことがあるかもしれないが、自分にはない」と思う人もあるかもしれません。しかし、そう思うべきではありません。

どんな人でもキリスト・イエスの御名を呼びながら、
「かつて地上において不思議な生涯を遂げられた霊よ! また、天に昇られた後も不思議に弟子たちを導きなさったキリストの御霊よ、どうぞ私をもお導きください」と単純な気持ちで祈られると、この助け主はほんとうに導き、助けてくださいます。そして、この助け主と共に歩くならば、千人力、万人力を得たような気持ちになります。

生けるキリスト

多くの人は、「イエス・キリストは、今は霊界におられるから、目に見えない」と言います。たしかにそうには違いない。だが「最後の遺訓」に、「やがてわたしを見なくなるだろう。しかし、また肉眼で見るようにも、ありありと見るだろう」と書いてあります。

ここに、私たちの大事な信仰があります。目に見えないキリストが、ありありと自分を助け導きたもう経験を通して、キリストを見ることができる。もちろん「見る」といっても霊ですから、いわゆる肉の眼(め)に見えるわけではありません。けれども、いろいろな事柄を通して、「ああ、主がお働きになったんだ。私のようなつまらない者のために、このような芳(かんば)しいことをなしてくださったのか」といって、その御愛に泣き濡れるのです。

世の中にキリスト信者は多くおります。しかし、まことのキリスト信者は少ないです。キリストという全宇宙の最高の御霊が自ら、この卑しい者のところに来たって導くという、こんなありがたい神の愛、これは理屈ではありません。実験的な真理です。体験を通してありありとわかることです。なぜなら、信ずる者をキリストは決して辱めたまわぬからです。

ただキリストの教えや言葉を信ずるのではありません。キリストご自身の霊がやって来て、私たちに語りたもう。まさに「初めに言(ことば λογος ロゴス)があった。言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ福音書1章1、14節)とあるように、キリストはロゴス、すなわち私たちの中に囁きかけてくる言葉です。これがヨハネ福音書の信仰です。

この信仰を身につけたら、事ごとに「主様、どうしましょうか」とキリストが目の前におられるかのように心の内で問い、聴いて生活をいたします。一人であって決して一人でない。むしろ寂しい時こそキリストと共に歩けますから、逆にうれしい経験に変わってゆきます。

まことの御霊が助け主として導きたもう経験に、お互い入ることが大事です。そのときに初めて、神様は守護し、助けてくださる愛の神様であることがわかります。どうぞ私たちは、内に囁きたもうキリストを拝しとうございます。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』821号 “Light of Life” に掲載されています。