聖書講話「いつまでも残るもの」ヨハネ福音書15章14~17節

イエス・キリストがこの地上で福音を説かれたのは、わずか3年の間でした。そして、目に見える何かを残すことはされませんでした。しかし、キリストの生きられた足跡、その愛は、2000年後の今に至るまで、私たちの胸を熱くします。
今回も、ヨハネ福音書の中から、十字架にかかる前夜、愛弟子たちに語られた「最後の遺訓」を学んでまいります。(編集部)

今まで2回にわたって、「われはぶどうの木、なんじらはその枝である」というヨハネ福音書15章の、ぶどうの木の譬(たと)えを学んでまいりました。この「最後の遺訓」は非常に重要な箇所ですから、ここで説かれている信仰について、なお考えてみたいと思います。

重ねて申しますが、信仰とはぶどうの木にその枝が連なっているように、キリストに連なること、合一することです。「宗教」という言葉は、英語では「religion レリジョン」といいまして、ラテン語の「結びつく、合一する」という意味の言葉から来ています。目には見えない大きな力に合一すること、この宗教経験の上に聖書は書かれているのであって、その経験を欠いた人がどれだけ聖書を読んでもわからないということです。

ぶどうの枝が木につながって密着しているように、神に密着して神の愛に任せきっているならば、すべてのことが成る。そのことが信仰においていちばん大切です。

神にすべてを任せる信仰

これについて、私はある人のことを思います。

私は昨年の暮れ、スイスのチューリヒに行きました。そこで、以前に宣教師として来日し、同志社大学の先生をしていたW・コーラーという人をお訪ねしました。その方は、幾度も私たちの原始福音運動のことをドイツ語でヨーロッパに紹介してくださったので、敬意を表したいと思ったのです。するとコーラー氏は、19世紀の霊的な伝道者である、ヨハン・クリストフ・ブルームハルトという人のことを熱心に話されました。

ブルームハルトは真面目な牧師で、熱心に祈る人でした。ある時、悪霊に苛(さいな)まれて大変苦しんでいる女性が彼のもとにやって来た。それで彼は聖書に書いてあるように、彼女のために一生懸命祈った。半年以上もその女の家に行って祈ったけれども、祈れば祈るほど、ひどく暴れ回る。それでほとほと手を焼いたが、ある時、
「神様、私は悪霊という霊的なものに対して、人間はいかに弱いかということを知りました。今からは、主イエスよ、あなたご自身がお働きになる番です」と言って、すべてを神様にお任せした。その後も戦いは続いたが、その年のクリスマスのころ、悪霊に憑(つ)かれた女が、「イエスは勝利者です」と叫んで、とたんにいやされてしまった。

彼は、この出来事の意味するところを深く考えました。そして、キリストはすべてを任せた者に、ありありと働いてくださることを知った、というのです。

ブルームハルトは、「勝利者キリスト」といって、「キリストという驚くべき勝利の霊は、もろもろの悪霊を踏みつけて粉砕する不思議な力をもっている」ということを発見した。それから霊的伝道者として立つようになり、彼の周りに奇跡が続出しました。

この霊的な信仰が、後年に多くの神学者などに大きな影響を与えました。国際仲裁裁判所の委員を務めた法学者で、有名な『眠られぬ夜のために』という本を書いたカール・ヒルティ(1833~1909年)も、ブルームハルトを高く評価した一人です。

ブルームハルトの信仰に大転換を来たしたのは、人間の熱心だけでは悪霊の力は手に負えないが、キリストにお任せした時に聖霊の力が働く、ということです。

信仰にとって大切なことは、困難な問題があっても、神の愛の中に自分をゆだねきっていることです。そんな、平安そのものの状態にいる祈りがかなうのであって、平安を失い、心配しながら祈る祈りはかなわない。神の愛の懐の中に生きている者の祈りと、不安に苛まれて神を脅迫するような祈りとでは、祈りといっても違いが出てくるのです。

生命の流れに身をゆだねて

それで、イエス・キリストが説きたもうた信仰の前提条件が何であるか、ということを考えてみる必要があります。それは、まず聖霊が脈打つ場に私たちがおることです。その場は、神の愛の御霊、聖霊の愛が滾(たぎ)っていますから、その中に生きる者は、心配したり、狼狽(ろうばい)したりして、神もないかのような祈り方はしないものです。

キリストは、わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしもその人とつながっているならば、わたしと同質のカリスマ的な実を結び、不思議な生涯が繰り広げられるだろう、と言われます。

そのような不思議な神の生命の流れがあります。そして、この驚くべき生命の流れを体験した人たちは、多くの人に影響を与えました。人々はその人たちを神の人と呼びました。イエス・キリストはその最たる人でした。その感化を受けた弟子たちも皆、不思議な経験をし、多くの人に影響を残しました。それによって新しい西欧文明が起こりました。

聖書にはそのような不思議な生命の流れが、ある人々を通して働いた事例が書いてあります。その経験は彼らだけのものではありません。今もその生命の流れが続いているからには、私たちも同様の状況になりさえするならば、多くの実を結ぶことができるのです。

聖書は昔の神話ではない。現代においてもこれを生かす必要があります。100年前、一人のブルームハルトが出ることによって、ヨーロッパの人々に大きな影響が及んだという。それならば、日本においても今、原始福音に触れた何百何千の人が聖霊の愛に生かされはじめたというこの経験が、時間さえ与えられるなら日本の歴史に不思議な影響を及ぼすと私は思います。

イエスの友と呼ばれる者

「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」

ヨハネ福音書15章14~15節

14節で、キリストは「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われます。この前の7節では、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたに留(とど)まっているならば(御言葉がびんびんと心に響くような状況であるなら)、何でも望むものを求めよ、そうすれば成る」と言われています。

この大宇宙を支配している神の声が私たちの心に切り込んでくる時に、その声に応じて「神様、私は何をしましょうか」という受け身の状態でいさえしたら、神様は教え囁(ささや)いてくださる。キリストが囁きかけたもう御声のままに思い切ってやってみると、「ああ、ほんとうにこうなった」と不思議な経験、不思議な発見をします。

キリストはそのように、私たちの胸の中に「ああせよ、こうせよ」といって命じてくださる。そのとおりに行なうならば、それは神の意思を、大宇宙の意思を行なっているのです。そうすると、あの人は神の人だ、神のような愛をもつ人だ、と皆が驚きます。

15節に「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼ばない」とありますが、この「しもべ」は奴隷のことです。すなわち、私たちが大宇宙の主である神のなさることを知らないで、ただ盲目的に信仰しているならば、それは奴隷的信者です。私たちはキリストから友と呼ばれるような者になりたい。キリストは「おまえたちを今後は友と呼ぶ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」と言われる。もったいない話ですが、友と呼んでくださるとは、なんとありがたいことでしょうか。

創世記18章を読むと、神様がソドムとゴモラの人々の罪を見逃すことができずに滅ぼしてしまおうと決心なさった時、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」(17節)といってアブラハムを呼び、「もうすぐソドム、ゴモラを滅亡させる」とお告げになった。それほどまでに神に信頼され、神に信じて生きていたのが、神の人アブラハムです。それで、聖書の中で神様から「わが友アブラハム」と呼ばれています。

神様は、ご自分の愛する者には何でもお示しになります。「だれだれよ、わたしはこうしようと思っている」、また「あの人をこう祝福しよう」と何でも教えてくださる。そのような信仰をもちはじめますと、もういろいろなことが手に取るようにわかってきます。

しかし、キリストが命じられることに対して、「そんなことはとてもできません。お金がありません。また他人(ひと)から何と思われるでしょう」などと言うならば、キリストは「おまえに話しても信じないし、言うことを聞かないから、もう話さない」と嘆かれ、友とはお呼びにならないでしょう。そしてその人は、神様がなそうとされる摂理もその目的も、また自分自身が何のために存在しているかという意味も、知ることがありません。

ブルームハルトは、ただ神を信ずるとか神秘的に神を感ずるのではなく、神様が繰り広げられる歴史、それに自分も参入しているという経験、すなわち神と共に歴史を歩くということを、繰り返し強調しました。

キリストは私たちにすべてを知らせて、友と呼びたがっておられます。私たちも本当の意味で、「イエスの友」と呼ばれるような信者であることが大事です。

芳(かんば)しい信仰の香り

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた(任じた)。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである」

ヨハネ福音書15章16~17節

ここで、キリストは弟子たちに、「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」と言われました。華やかな花がパッと咲くように、一時名声をほしいままにし、また壮麗な教会堂を建てて、それが宗教であるかのように思われるときに、外側の何かは残ったとしても、大事な生命はやがて萎(しぼ)んでしまいます。

100年ほど前、チューリヒから少し離れたメンネドルフという村にドロセア・ツルーデル(1813~1862年)という女の人がおりました。彼女は貧しい家に生まれ、父親は酒飲みで大変でした。けれども母親は祈りの人で、母親が祈ると不思議なことが次々と起こりました。そういう家庭で育ったドロセアですが、大人になったある時、自分の商売を手伝っていた人たちが病になった。その時、病の人たちのために主の御名によって祈れ、という聖書の言葉がひらめき、病人のために祈るとみんないやされた。彼女が祈るとどんどん病気が治るので、その後、何千人もの人が彼女のもとに来て、祈りだけでいやされたといいます。とうとう地元の医者が文句をつけて議会に訴えるほどになりましたが、どんな妨害があろうと彼女は病人たちを労(いたわ)り、祈りによっていやしつづけました。そして、病の人々に尽くして死んでいった。そういう不思議な人がいました。

私は以前、彼女のことを本で読んで、その信仰を尊んできました。そして4年前、ヨーロッパに行きました時に、彼女の墓参りにメンネドルフへ行きました。彼女の信仰の芳しい香りをかぎにいったのです。こんな尊い人がいたかと思うと、私は捨ておけません。彼女は身体(からだ)が弱く、独身で通した不遇な人でした。けれども、多くの偉人たちに勝(まさ)って、その尊い信仰は100年たっても私を惹(ひ)き付けてやまないのです。このことからも、彼女の信仰の実りが、一代限りでないことがわかります。

チューリヒ湖と周辺の町

人々の胸に脈打ちつづける

それで、私はいつも思います。

自分はいつ死んでもいい、自分の名は残らなくてもいい、しかし、死んでも残るようなことをしよう。壮麗な教会堂のような目に見えるものではない。形は見えなくとも、キリストが喜びたまい、また人々に後代まで脈打ってゆく生命の流れというものが大事なのです。

今日はここに、Tさんが来られています。Tさんのお父さんは先年、90歳近くで亡くなりました。そして、キリストの信仰はあまりおもちでないと聞いていました。ところが亡くなられる前に、私の書きました『聖霊の愛』(※注)という本を何度も何度も読んで、「これが本当だ」と言っておられたそうです。

私はそのことをお聞きし、「これでいいんですね、神様。私は近く死ぬでしょう。そして、私と顔を合わせることができなかった人たちもあるでしょう。けれども、日本の隅々で、本当の聖書の読み方を教えた本として、この『聖霊の愛』を読んでくださる人々がいつまでもあるならば、私はそれで十分です」と、感動して日記に書きつけたことでした。

一代限り華やかに花を咲かせて、そして去ってゆく人がたくさんおります。また何か形に見える物を残す人があります。しかし、キリストは十字架にかかって何も残されませんでした。それが私たちの主イエス・キリストのご生涯です。けれども、キリストの胸に脈打っていた生命は、今でも私たちの胸に脈打っています。ですから、私たちは黙って死んでいってもよい。しかし私たちの死後、「私の母はこんな信仰をもっていた」「私の祖母はこんな信仰であった」といって、後々まで脈打ってゆくものがあると思うのです。

人間の名声などはどうでもよい。キリストの霊が伝わってゆき、一人ひとりの胸に脈打ちはじめたら、花を咲かせ、実を結ばせます。しかも、一代限りの華やかさではなく、後々までその実が残るような生涯を送りたい。そう願わずにおれません。

(※注)『聖霊の愛』

手島郁郎の伝道の初期、ヨハネの第一の手紙の講義を通して、神の実存的な愛について説いた書。「イエス・キリストとは何か? その本質は聖霊の愛である」という一句に本書の内容は凝縮されている。『生命の光』誌第15号の特別号として発刊。

神の愛が実を結ぶために

キリストは16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」と言って、私たちを選んだ目的を述べておられます。

「立てる」というのは、任命することです。何のために任じたもうたか。それは私たちがキリストの代理として出かけてゆくためです。そして多くの実を結び、その実がいつまでも残るためです。また、キリストの名において父なる神に求めるものは、何でもかなえられるという経験をもつためです。

私たちはそのような意味でキリストの弟子となり、神の選びに入れられてクリスチャンとなったのです。私たちはこのキリストのご期待に添(そ)うているでしょうか。

主様、もっと私たちは祈らねばなりません。主様、もっと私たちを通してあなたの実が結ばれなければなりません。今まで私たちは、キリストの実を結ばずに自分の葉だけ茂らせていたのではないでしょうか。自分の幸いや自分のことばかり考えるあまり、大宇宙が働き助けるという神秘な経験をせずにきたのではないでしょうか。

「主様、今までは自分独りで歩いてきました。あなたの宇宙大の力が、自分を通して実を結ぶような信仰はしておりませんでした。これからは、どうぞ私をして実を結ばしめてください」と、お互い祈る必要があります。そうして、何事でもキリストにお願いしたらどんどんかなえてくださるような、不思議な生涯が展開してまいります。

キリストは、「これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである」(17節)と言われた。すなわち、互いに愛し合って、愛によって伸びてゆくためです。この集会も、皆さんが愛において助け合っておればこそ、信仰が広がっているのです。

私たちが、神から離れて独りで何かをしようと思うと行き詰まります。しかし、お手上げして「神様、私を用いてあなたがお働きください」と言うと、神は偉大なことをなしたまいます。どうかここに集うお互い、内から込み上げてくるキリストの生命に生きとうございます。そして、キリストが内に囁きたもうことを「ハイ」と言って信じて行なうならば、多くの実を結び、神のご栄光が現れるでしょう。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』819号 “Light of Life” に掲載されています。

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