聖書講話「永遠の光に照らされて」ヨハネ福音書12章35~36節

イエス・キリストのご聖誕を祝う12月を迎えました。ヨハネ福音書は第1章に、「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(9節)と、イエス・キリストの出現が、 暗やみを照らす光である、と記しています。この講話は、十字架の死を前にしたイエス・キリストが、ご自分の肉体を打ち破ってでも現そうとされた光、それは何か、を主題としています。 (編集部)

イエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」

(ヨハネ福音書12章35〜36節)

イエス・キリストは、まもなく十字架上に死のうとされています。しかし、イエスの十字架は死であって死でありませんでした。前回学びましたように、一粒の麦が死ぬならば多くの実を結ぶとは、死と生は2つでない、1つであるということです。イエスが生きられたような、死んでもなお生きつづける生命、これを「永遠の生命」といいます。

そして、ここでイエスは、ご自分を指して「光」と言っておられます。

「命(ζωη ゾーエー=永遠の生命)は人の光であった」(1章4節)とありますとおり、ヨハネ福音書において「永遠の生命、光」とは、別の2つのものではありません。永遠の生命を得ようと思う者は、この「永遠の光」ともいうべき光を受けることが大事です。

「永遠の光」とは、電気の光のようにすぐに消えてしまうような、物質の光ではない。また、この地上だけを照らす光でもありません。あの世においても不思議に照らしているような光、時間をも超えて照らす永遠の光であり、聖なる光ともいうべき、神の光です。この聖なる光の持ち主キリストに触れ、その光を仰ぎつつ、光の子らしく歩むことが、ヨハネ福音書の説く信仰の生活なのです。

このような光はすべての高等宗教の説くところで、東洋人にはよくわかると思います。仏教の浄土真宗や法華宗においても、皆この永遠の光、不可思議な光というものを問題にしている。親鸞(しんらん)上人は「帰命(きみょう)無量寿如来、南無不可思議光(永遠の生命である阿弥陀仏に帰依(きえ)し、神秘な光と合一させたまえ)」ととなえました。

この光の世界に入れられることを宗教というのです。

生命の光に照らされる幸福

キリストは別の箇所でも、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8章12節)と言われました。ご自分の死後、この生命の光を弟子たちに分け与えることを願っておられた。

また、「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(12章32節)と言われました。けれども、人々をこの光の世界に導くということは、なかなか難しいことです。それは、多くの人はこの霊的な光の素晴らしさを知らないからです。

たとえば、真っ暗な部屋にずっといる者には、光がどんなものかわかりません。そこに光が射し込みますと、ある者は光に撃たれて目が痛くて、光を嫌がります。またある者は、それまで経験していない異常なことですから、「おかしいぞ」と言って、光というものに反発を覚えます。気の弱い者は、光にさらされるのが嫌で逃げます。これは、暗い所にいる性質が身についているからです。

先日、ある親御さんが来て、「うちの息子や娘は、不良になりはしないかと心配していたが、先生の話を聞いて立派になった。おかげで救われてありがとうございます。私も宗教を学ばねばならないと思いますが、あまり宗教を学びますと、悪いことができなくなって金儲けができませんから、宗教のことは後にしておきましょう」と言います。

「いや、それは違う。この生命の光に照らされたら、幸せになるよ」と私が言っても、「そうですか。しかしどうも、正しく神の道に歩きだしたら、金が儲けられない」と言う。迷って、真っ暗な物質界にいるからこそ金儲けもできる、と思っているわけです。そのように多くの人は、なかなか光に来ようとしません。

ヨハネ福音書3章に、「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」(19〜20節)とありますが、そのように多くの人々は、光よりもやみを愛します。

宗教を信じて、あまりに真面目になりすぎても困る。しかし、不良になっても困る。ちょうどいいくらいの迷い方が健全だ、と思っている。ここに、聖なる光に撃たれようとしない人々を光に導く難しさがあります。

けれども少数の者は、その光に撃たれて、「ああ、自分はやみの中にいたから何が本当かわからず、今までどれだけ迷い、苦しんだことか。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりして、自分の運命を傷つけていたことがわかった。これからは、この不思議な光に導かれよう」と言って、光の中を歩むことを願いだします。

神の香りを放つ人

人々を光に導くについて大事なことは、まず神の光がいかに尊いものであるか、そして、その光によって物事を見ると何でも見通せる、ということを教えることです。そのためには、やみと光との間仕切りを取って、少しでも神の光に照らしてあげることが大事です。

真っ暗な中にあって、どれだけ光のことを考えてもわかりません。光に照らされるとわかります。それである方が、「どうしたら自分のような不信仰な者が信仰に入れるでしょうか」と聞きますので、「少しずつでも聖書を読んでごらん。聖書に触れている間にだんだん変わってくるよ」と言いました。

バラ園を散歩して帰ってくると、バラの芳(かんば)しい匂いがその人について消えないように、日々聖書に触れておりますと、読む人は自然とキリストの香りを放つようになります。使徒パウロは、「私たちを通してキリストを知る知識の香りが放たれる」と言いました。

宗教は説明ごとではありません。たとえば匂いというのは、かいでいる人にはわかりますが、説明するのは難しいです。けれども、ふくよかなバラの匂いをかぐと気持ちがよいものです。それで人々は引き寄せられます。

同様に、もし生命の光をもっている人がいたら、その人がどこに隠れていても、人々は探し出して近寄ってきます。そして、その光に触れることを喜びます。

詩篇56篇などに、ダビデ(注1)が「自分は長い間さすらったが、ついに生命の光の中を歩む者になった」と、救われた感謝をうたっております。この生命の光を見つけるまでは、さすらい、迷い、悩み、真っ暗な人生が続きます。しかし、生命の光を見いだしさえすれば、私たちには最も幸福な世界が開けてくるのです。

(注1)ダビデ王

紀元前1000年頃の古代イスラエル王国において、2人目の王。羊飼いから身を起こしたといわれる。都をエルサレムに定め、イスラエルの宗教を復興した。詩篇に多くの詩を残したとされる。

永遠の光に祈りを刻み込むと

キリストが、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい」(ヨハネ福音書12章35節)と言われるときに、キリストこそ光の源であります。

人が神を「信じる」といっても2つのタイプがあります。1つは、生命の光をもち、光の中で確実に信じている人。もう1つは、光の射さないやみの中で、疑い、悩みながら信じている人です。多くのクリスチャンは、「わかってから信じるのではない、信じたらわかる」と言います。けれども、ヨハネ福音書がいう「信じる」とは、光の源であるキリストに触れ、生命の光を得て光の国に移し入れられるという、確かなことです。また「救い」とは、暗やみの中で奴隷のようであった罪人たちが、光との間仕切りを取られて、光明の国に奪還されて、解放された自由を喜ぶ生活に入ることです。

この「生命の光」の信仰の源流は、古くは旧約聖書の宗教を確立したモーセが、ホレブの山で神の聖なる光に撃たれたことに始まります。

ダビデ王の詩篇にも、「主はわたしの光、わたしの救いだ、わたしはだれを恐れよう」(27篇1節)、「神よ、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救いをえるでしょう」(80篇3節)という信仰がうたわれています。このような聖なる光、生命の光、これに触れ、これに向かって祈りを刻み込むと、この光がすべてを現象いたします。

光はレンズによって焦点が絞られますように、人間の心は、この永遠の光を物質界にフォーカスして現すことができます。それが、地上において科学、芸術、文化というものに現れ出てくるのです。人間はここまで進化してきましたが、何が人間を進化させたかというなら、この聖なる光です。これが聖書の思想であります。

聖なる光に撃たれる経験

イエス・キリストが地上において、いかに不思議な生涯を歩かれたか。その秘密は聖なる光をもっておられたことにあった。そして、「光の子となるために、光を信ぜよ」と言われたように、ご自分の死後、多くの人にこの光を分け与えられました。

それで使徒パウロも、エペソ人への手紙に次のように書いています。

「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩け。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである……光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、『眠っている者よ、起きよ。死人のなかから、立ち上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう』」

(エペソ人への手紙5章8〜14節)

キリストを信じるということはどういうことか。すなわち、このキリストがもっておられた神秘な光に照らされることです。この光に撃たれると、病める者、悩める者、罪を犯して苦しんでいる者たちが、皆ガタンと変わるということです。パウロ自身も、イエスの弟子たちを迫害していたが、天からの光に撃ち倒されて回心する経験をしました。

このような神秘な光があります。この光を1日たりともおろそかにせず、マナ(注2)を食べるように吸収して生きることが信仰生活です。そして、この光に照らされて養われだしましたら、ほんとうに素晴らしい生涯が一人ひとりに始まります。

よく、キリストが祈っておられる絵に、額に天から光が射し込んでいるものがあります。また、仏教の絵を見ましても、仏さまの眉間(みけん)から光が出ています。これは普通の目で見える光とは違う、霊的な光であります。

この光で見るときに、いろいろな見えないものを感じ、判断することができます。また、この光に照らされると、不思議な喜び、不思議な変化が起こってきます。私たちに、愛、喜び、平和、真実といった、よき実が結んできます。

10年前のこと、東京で、ある外科医の方に会いました。その人は、それまで行っていたキリスト教の集会では、信仰がわからなかったそうです。しかしある時、私たちの集会に出て祈りだしたら、何だかわからないが、額に光が射すのを感じて痛いくらいだった、と言われます。

その後で手紙を下さって、「私は目が悪くなって、手術もしにくくなっていた。けれどもあの時以来、私は不思議に視力を回復しました。でも、それはただ肉眼の視力が回復しただけではありません。この生命の光に照らされだしたら、すべてがわかりだした。もう聖書が読めてしかたがない。今まで私は、神学も学んで頭で考えて信仰しようとしたけれど、一切そういうことはやめました」と書いてこられました。この人はやがて、この光に助けられて、論文も書くことができ、医学博士になりました。

これは、経験した人が知っていることです。ほんとうに驚くべき光が、額から射し込むように私たちにやって来る経験があるのです。

(注2)マナ

エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野をさまよった時、毎日、天から与えられた食物のこと。

光が漂う場を慕う

信仰は議論のことではありません。この光に照らして見ますと、何が本当かよくわかって、もう迷ったりしません。キリストは「光がある間に光を信ぜよ」と言って、ご自分が光の源である、この光に照らされて生きるように、と勧められました。

なぜ人間は迷うのか。この聖なる光をもたないからです。この聖なる光こそ、神の世界を取り巻いている物質なのです。物質という言葉が悪いなら、霊質なのです。

何が私たちに大事なのか。ここにこうして集まって聖書を学びつつありますが、多くの人々が知らない聖なる光、この光が漂う場に私たちはいつもあこがれ、これを吸収しなければなりません。このような光に撃たれると、私たちはほんとうに今までの運命が変えられ、救われます。

この生命の光によって生きている人は、世の人とは違った歩き方ができます。私たちには何も誇るものはないけれど、キリストによって光の中を歩く者とせられたということを感謝します。

どうぞお互い、祈っている時、自分の額に激しいくらいに生命の光が射し込んでくるような経験をものにして、光の子らしく歩みたく願います。

(1964年)

本記事は、月刊誌『生命の光』2019年12月号 “Light of Life” に掲載されています。