聖書講話「死と生は一つ」―ヨハネ福音書12章23~25節―

一般に宗教というと、死後の世界を問題とすると考えられがちです。しかし、宗教本来の目的は、死を知り、生を知り、より強く生きることです。

イエス・キリストは生涯を通じて、病に苦しみ、運命を嘆く人々に、神の愛と力を示されました。

今回の講話では、世の救いのために、雄々しく十字架の死に向かってゆくイエスの言葉を通し、聖書における死と生の意味を語っています。

イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」 

(ヨハネ福音書12章23~25節)

イエス・キリストは十字架の死を前にして、エルサレムの都に上ってきています。私たちが聖書を読むのについて大切なことは、こういうぎりぎりの状況にあるキリストのお心になって読むことです。

今、国技館で大相撲をやっていますけれども、相撲というものは2人で取り組むものです。両力士ともに力が入っているから相撲になります。ところが、片方だけが力を入れて、もう一方が力を抜いたら、相撲になりません。力と力がぶつかってこそ相撲になります。同様に、聖書もそうです。イエス・キリストが最後の精神力を奮って、ご自分の栄光を現そうとされている。読む私たちもまた、心して読まなければなりません。

「人の子が栄光を受ける時がきた」、こういう言葉は普通の状況からは出てきません。数日後には死んでゆかれる。しかし、その数日間に賭けて、永い間、宇宙に潜み、人類から噴き出そう噴き出そうとしている神の本質的生命を、ご自分を通して現そうとされた。

私たちも相撲のように、聖書の言葉に真正面から取り組み、イエス・キリストが現そうとされた生命を受け取って、キリストのような歩き方をしなければならない。また、「神様、時が満ちれば、私にも貴神(あなた)の栄光を現してください。自分の体験したこともないような、生命の奔流を爆発するように流れ出さしめてください」と祈らねばなりません。

私たちはただ長生きしても、ついに自分の尊い本質が現れることなく一生を終えてしまうならば、何にもなりません。宗教の問題とするところは、ここにあります。

死生一如

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(24節)とありますが、種は地に落ちて、その形を失います。死なずにそのままの形でいようとするなら、ただ一粒のままにとどまります。

しかし、「もし死んだなら、豊かに実を結ぶ」という。それはどういうことか。

この後に「自分の命を愛する者はそれを失い」とあるが、この「命」は、「ψυχη プシュケー」というギリシア語で、五官で感じる感覚的な命、動物的なはかない命のことです。「心」という意味でも使いますので、自我の欲望、己にとらわれる自我ともいえるでしょう。

また「永遠の命」という場合の「命」は、ギリシア語では「ζωη ゾーエー」といって、根源的な生命、永遠の生命のことです。日本語に訳すときも訳し分けなければ、キリストが何を言おうとされるのかわかりません。

それで、「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」(25節)は、自分の生物的な命、あるいは自我、それを憎む者は、この世にあるうちから永遠の生命に至るであろう、という意味になります。

地上のはかない感覚的な命を愛する者は、逆にそれを失ってしまう。しかし、一粒の麦が形を消したら多くの実を結ぶように、「こんな世のはかない命はどうでもいいじゃないか」と言って憎むことができる者は、それを失うどころか、かえってそれを保って永遠の生命にまで変化してゆく、というのです。

「死生一如(しせいいちにょ)」という言葉があります。死と生は一つ、ということです。一粒の麦が地に落ちて死ぬと多くの実を結ぶ、というのと同様です。

一般に宗教は、死後の世界のことを問題とすると考えられているから、若い人は「私はまだ宗教なんか要りません」などと言うでしょう。しかし、生きているうちに、一度古い自我に死んで生きることができるならば、永遠に死なない。この大きな真理を発見するところに、宗教の真の意味があるのです。

江戸時代の白隠禅師*(はくいんぜんじ)は、いつも若い人たちに「若い衆、どうせ死ぬなら、いま死にゃれ。一度死んだら、二度死なぬ」と言いました。ひとたびこの世に死んだ人間は、この世の批評や迫害を恐れません。死んだ者は再び死ぬことはないから、不安がったり、動じたりはしないからです。死にきった人間が強い、と言ったりするのはそういうことです。

信仰に生きる者にとって、死と生は一つでして、一つの事象の裏と表なのです。

*白隠(1685~1768年)

江戸中期の禅僧。臨済宗中興の祖。若くして悟りの経験をするが増長し、信濃国の正受老人に一喝される。その教えを請い、やがて大悟に至る。

永遠の生命と合一するならば

一粒の麦、それが地に落ちないなら一粒のままです。死ぬと、驚くべき生命が力を発揮します。同様に、人間も一度自分に死ぬ覚悟というか、死ぬ経験をすると、多くの実を結びはじめます。宗教はこの心得を教えてくれるのです。それは、死ぬことが目的ではない。死んで、多くの実を結ぶところに目的がある。これを取り違えてはなりません。私たちは犬死にするのではありません。十字架を負うことによって、大死一番*することを通して、驚くべき栄光を刈り取るのであります。

お寺などに行きますと、仏様が蓮の花の上に座っている絵や像があります。蓮は花が散っても、そこにはもう実ができている。ここに死生一如、散ってもなお生きる尊いものが示されています。その象徴として、仏は蓮華(れんげ)の台に座して、無量寿(むりょうじゅ)――永遠の生命――を悟っていることを示すのです。浄土真宗では、「帰命(きみょう)無量寿如来」などととなえますが、この永遠の生命との合一を祈念しているのです。

同様に、私たちも今は生きていますが、やがて花が散るように死にます。しかし、魂が神の霊、聖霊と合一するならば、散っても散らない、死んでも死なない霊的な、確かな生命を宿して永遠に生きつづけることができる。このことを知る者は、「死生一如」として自分を確立してゆくのです。

ここでイエス・キリストは、十字架にかかって死のうとされています。それは、ただ死ぬのが目的ではない。ユダヤ人イエスという肉体をもっていては霊的な栄光、霊的な力が十分現れない。それで霊となって働き、民族を超えて多くの実を結ぶためでした。

私は時々思います。やがて自分も死ぬだろう。しかし死んだら、肉体をもっていてはできないことをなして、霊的な実を結ぶようになりたい。それならば、死が来るのも恋しいことです。

*大死一番

自我を捨て、欲を去り、迷いを断って仏道に励むこと。転じて、死ぬ気になって奮起すること。

神の栄光を現す者に

私はこうやって伝道生活をしていますが、多くの人が私のような者を通して、この原始福音*に共鳴してくださる。神様、貴神はなんと驚くべきことをなさるのでしょう。また、私だけでない、この信仰をもつ者は皆、神の御業を現しています。

先日は湘南幕屋の集会に出席しましたが、伝道をしている若いT君を「先生、先生」と言って、70代、80代の人たちまでが尊敬して慕っている。まだ29歳の彼に何ができるでしょう。何もできません。もし何かできるならば、彼を通して働く力がその地の人たちにも及んで、お互いが引き寄せられ、愛し合うからだと思いました。

湘南の人たちが、彼を非常に大事になさる。そしてT君にも、自分が何かをしたという意識がない。T君は尊いなあと思いました。皆の中に一つの大きな生命が貫いている。

母親は、子供に乳を飲ませる時に幸福です。与えてやっているなんて意識はありません。また、子供にとっても母乳を吸うことは幸福です。このように、私もキリストと共に生きて、キリストの生命を飲んで成長させていただいているのであって、自分が伝道しているなんて思いもしません。自分が何かをする、という意識がない。大きなキリストの生命が自分を通して皆に流されれば、それだけで十分なんです。自分が何かをしたと思うのは、小さな命(プシュケー)にとらわれているのであって、それを捨てなければ永遠の生命はわからない。

このことがわかりますと、神様が私たちを通して現そうとされる栄光を現すことができます。プシュケーの命、己の利己的な命、この世のはかない感覚的な命ばかりを大事にして、それを保存することに汲々(きゅうきゅう)としておる者は、それすら失ってしまいます。人間の肉体的命などは、やがて死んでしまうはかないものだからです。

しかし、この世において神の霊が注がれ、神の愛を知るときに、死んでもいい、小さな自分は踏みにじってもいい、と思って生き抜くことができる。そのような人は、ついに永遠の世界を発見できる。否、すでに永遠の生命がそこに始まっている。このように、永遠の生命の捉え方を、イエスはここでお説きになったのです。

豊かに結んだキリストの実

イスラエルの麦畑(エズレル平原)

一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶように、ナザレのイエスという大工の上に神の栄光がとどまり、十字架の死を通して永遠の生命が現されると、多くの人が救われ、地球上の10億の民がキリストを信ずるようになった。なんという驚くべき実りでしょう。

イエスはここで、すべての民族を超えて人々を導くために、十字架に死んで肉体を脱いで、キリストの霊となって働くということを予言しておられるのです。

イエスは、死んでも死んでいません。多くの人の胸の中に生きています。キリストの姿は、今は見ることはできません。しかし、ほんとうにキリストを信じ、キリストと共に生きている者たちの顔に、その面影を見ることができます。

ある方が熊本に行った時、「熊本幕屋の人たちは天使のように見えた」というお話をされました。しかし、あの人たちも生まれながらに天使ではなかったんです。人生の大きな悩みと苦しみを通り、地上に絶望した時に、キリストに出会った。そして、キリストの生命がその人から花咲きだしたら、天使のように変わったのです。これは、真にキリストを信じ、その生命を受けて生きている人たちが、ひとしく体験することです。

キリストが与えようとされるこの永遠の生命を得るためには、「私の小さな命、プシュケーはお捧げします。貴神の大きな生命に加持されたい」と願わなければなりません。

死生一如、死と生は一つ、といいます。死といい、生というけれど、ほんとうに永遠の生命に浸っている者には、死が死でない。また、生きていることが生きていることですらないほど、自分を忘れて生きられるのです。

(1964年)

*原始福音・キリストの幕屋とは

イエス・キリストとその弟子たちが生きた、愛と喜びと力とにあふれた信仰を、私たちは「原始福音」と呼んでいます。原始とは〈オリジナルの〉、福音とは聖書に出てくる〈喜ばしい知らせ〉という意味です。それは、天から注がれる神様の霊・聖霊によって、生きる希望に満ちた新しい生涯が始まる体験です。
私たちは、現代において「原始福音」そのままを生きようとしている者の集まりで、「キリストの幕屋」といいます。

前の記事

10月31日

次の記事

11月1日