聖書講話「歓喜と熱情の宗教」ヨハネ福音書12章12~18節

今日はヨハネ福音書12章12節から、「イエスの都入り」の記事を読みます。

イエス・キリストがエルサレムに入城された時、多くの人々が熱狂的に迎えました。イエスはナザレの田舎大工にしかすぎませんでした。しかし、そのような者を熱狂的に皆が歓迎したというならば、何か秘密があるのではないだろうか。これは、私たちがぜひとも心せねばならない人生の奥義です。これをものにしている者は、ただではない人生を送ります。

その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、
「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」
イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」
と書いてあるとおりであった。弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。

(ヨハネ福音書12章12~18節)

一切を捧げしめる力

イエスが入城したエルサレム東側の城壁

ここで、イエスが最後の都入りをなさいました。その時、大勢の群衆がイエスを歓呼して迎えました。ルカ福音書やマルコ福音書をあわせて読むと、これはただの群衆というよりも、イエスを信じている弟子たちが迎えに出た、ということがわかります。それに釣られて、大勢の群衆も一緒になって迎えたのだろうと思われます。そして、自分たちの上着を道に敷くまでして、群衆が熱狂的にイエスを迎えました。

イエスの宗教に対して、現在のキリスト教が誤解していることの一つは、この点です。今の日本のキリスト教には、このように人々の熱情を沸かすものがありません。型どおりの礼拝、気休めのお説教を聞いて帰るしかない。イエス様のためには、何もかもかなぐり捨てて迎えるような、熱い雰囲気が生じてくることもありません。

イエス・キリストは、たとえばガリラヤで伝道された時も、荒野の奥でさえ5000人の群衆に囲まれるくらい歓迎された。また、この都入りの前夜、ベタニヤのマリヤは価高きナルドの香油、男の1年分の給料ほどもするようなものをイエス・キリストに捧げ、油を注いで葬りの用意をしました。これはマリヤの信仰にもよるのでしょうが、一切を捧げしめるような力がキリストにあったということです。その時に、捧げる者も捧げられる者も共に喜ぶ、これがイエス・キリストの宗教であった。人々の胸に熱い火を燃やしうる宗教でした。

イエスの中に燃えていた火

日本でいちばん高い山は富士山です。富士山はなぜ高いか。火山のマグマの力が高くしたのである。浅間山、その他を見ましても火山です。火山であるがゆえに非常に高くなった。すなわち、地球の内部から込み上げてくる熱いものが高めたのであります。

イエス・キリストという名もない宗教家が、どうして少しの間に全世界の人の魂を焦がすようになったのでしょうか。それはイエス自身が天来の火で燃えていたからです。同様に、今も皆、燃えたがっているんです。燃えたがっている人々を燃やしさえすれば、皆が宗教で生きる喜びを感じるのです。イエスがエルサレムに入城される時、皆が熱狂的に迎えた。「これは群集心理に駆られて、ワーワーと歓迎したんだ」と注解する人もいます。しかし、考えてみてください。地位なり名誉なりがある人なら別ですが、名もないナザレの田舎大工をどうして群集心理だけで担ぐだろうか。彼自身が何か偉大なものをもたなかったなら、人は担ぎはしませんよ。そうせしめるものがあるんです。私たちもそれを得たいのです。そして、それを得る時に、私たちの人生がどんなに冷たい状況にあっても、熱く生きることができます。

宗教はある人が考えるように、何か縮こまって、独りぼっちで静かに、神と共に生きます、というようなことではありません。私たちは、なぜここに集まって聖書を読むのか。なぜイエス・キリストの御名を呼ぶのか。聖書を通してキリストの御足跡を偲ぶたびに、お互い胸がときめくからです。胸がときめく時に、生きる希望と力と熱情を覚えるんです。それを与えてくれないならば宗教は災いです。生きる希望と熱情を与えてくれるもの、これイエス・キリストの宗教です。

魂震わせる賛歌

ここを読んでわかりますように、もう皆が熱い感激をもって、熱情を燃やしながら、「ホサナ、主の御名によって来たる者に祝福あれ、イスラエルの王に」と歌をうたってイエスを迎えた。

「ホサナ」とは「どうか救いたまえ」という意味ですが、本当の宗教は万人の胸を揺るがすような歌なんです。賛美歌に「昼たたえ夜うたいて なお足らぬを思う」とあるように、皆が賛え歌ってイエスを迎えた。イエス・キリストの福音は、このように万人の心に共感を呼び、リズミカルに皆の心を一斉に動かすことができた。

イエスは、今の神学者や牧師がするような説教はしていません。マタイ福音書の「山上の垂訓」を読んでも、ほとんどが詩です。ですから詩のように、歌のように、皆の胸を震わすことができるものがイエスの説かれた宗教なんです。私たちもそれに唱和して、宇宙的なリズムに合わせて歌いたいんです。そうやって歌う時に、宗教についての理屈などは吹っ飛ぶんです。

また、「主の御名によって来たる者に」と歌っている。「来たる者」というのは、皆が長い間待ち望んだ救世主(メシア)・キリストのことです。来たるべき者が来さえすれば、時代の状況がガラッと変わる。「来たるべき者よ、来たれ」というのが、長い間のイスラエル人の祈りなんです。

私たちもそれに出会いたいんです。来たるべき者が来てくれないから行き詰まる。来たるべき者が来さえすれば、私たちは喜ぶことができる。聖書というのは、こういう熱い期待をもった雰囲気の中で読まなければだめです。

喜んで主の御用に差し出す

偉大な生涯を送る人は皆、ただ自分を救うだけではありません。人々の求めているものを与え、他をも救ってやまないようなあふれるエネルギーをもっているものです。私たちも同様のエネルギーをもたなければいけない。自分だけうまいことをしようと思う人に、信仰はわかりません。本当の信仰というものは、自分が恵まれるだけでなく、受けた恵みが周囲に及んで、人々を動かしてゆきます。

ここに「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた」と書いてありますが、キリストがエルサレム入城の前に、弟子を遣わしてろばを探しに行かせた記事が、他の福音書にあります。ベテパゲという村で、イエスは弟子に「まだ誰も乗ったことのないろばの子がいる。それを引いてきなさい。もしその持ち主が何か言ったら、主がお入り用だと言え。そうしたら渡してくれるだろう」と言われた。弟子たちが行くと、言われたとおり家の門口にろばがつないであったから引いてきた、ということが書いてあります。

「主の御用だ」と言ったら渡してくれる。これはなぜでしょう。「あらかじめ契約してあって、そこにイエスは弟子を遣わしたのだ」とか、「イエスは千里眼で誰が渡すかを知っていたからだ」とか、「その村にも誰か信者がいたのだ」というように聖書学者は推測して解釈します。

しかし、そうではない。イエス・キリストが燃えて生きておられる時に、同様に魂を燃やしはじめた人々がいたのです。私たちの間でも、一緒になって燃えて生きている人に「あなたに、これをお願い」と頼むと、「ハイッ」と言って喜んでしてくれます。そういう雰囲気ができると、進んでやってくれる。誰かが強制したのではない。魂が信仰復興(リバイバル)して燃えているときには、不思議なくらい人々が信仰に入るのです。皆、大きな力に動かされることを願っているのです。

生命の燃焼が人を動かす

このように、「喜んで差し上げます。喜んでいたしますよ」と言わしめるような力が宗教なんです。しかし、これは宗教だけのことではありません。もしあなたにも、このイエス・キリストにたぎっていたような熱情が与えられたら、家庭においてもどこにおいても同様に、することなすことすべてうまくゆきます。燃えているから、人々が協力してくれます。事業の面においても、胸燃やされて人に近づいてゆきますと、「ハイ」と言ってやってくれる。「どうしたら、私はセールスマンとして成功するでしょうか」などと言う人がいます。しかし、自分のやっている仕事に対して熱情と確信さえもっていましたら、誰の心でも動かすことができますよ。

これはイエス・キリストの与える生命の燃焼がしからしめるのです。宗教は、生命が燃え上がるところにその意味があります。もし、燃えて燃えて生きているならば、その人は幸福です。

NHKの局長をしている俳句の好きな人が、「俳句はいじくって作ったものはだめだ。本当のものは、生命の燃焼だ」ということを言いました。生命の燃焼、ほんとうに含蓄のある言葉だと思います。なまじっかな、燃えきらないものはつまらない。私たちの生命は赤々と燃えたい、燃えるときに幸せなんです。ユダヤ教ではこのような灼熱の歓喜をヒトラハブートといいますが、魂が燃え上がって、神秘な火花が胸の中に散るまでになりたい。

ある人がやって来て、「伝道者になりたい」と言いました。「それはけっこうだ。しかし、伝道者になろうと思うならば、君は熱い魂の人間にならなければ成功しない。君のように冷たい、かじかんだ心で『神様、神様』と言っていたってだめだ。自分が燃えておらずに、どうして人を燃やすことができるものか。大事なことは心が燃え上がることだ」と言ったことでした。

伝道者になろうと思う者には、どの人をつかまえても熱く燃やしてやまぬ心が大事です。

出会うだけで沸きたつ愛を

だから、「神を信じなさい」と人に言うよりも、このイエス・キリストと共に歩いて、燃え上がるような雰囲気を皆さんがもっておられれば、放っておいても人々が信仰に入るんです。それを「伝道します」などと言って、宗教の教理や哲学を教え込むことと思うなら大間違いです。

大阪のこの集会も、少しおとなしすぎる。入り口に人が来たら、顔を見ただけでも迎える人からワーッと喜びが伝わるようでないならば、私はイエスの宗教でないと思う。

今、K君が長崎の集会の話をされたが、外側は何もないようだが、燃え上がるような愛があるという。私が熊本で伝道していた頃もそうでした。私たちはもう一度、これを回復しなければならない。ただ会うだけで、燃え上がる愛の雰囲気が沸き起こる。その時に、過去の自分に何があっても、それは灰になってしまい、今は炎となって燃えているお互いを見ることが大事です。

この燃え上がるような熱情、これは旧新約聖書を一貫するものです。

イエス・キリストがエルサレムの神殿で、商売をする者たちを追い出して宮潔めをなさった時、「神の家を思う熱心、われを食らえり」という旧約聖書の言葉どおりであった。またイザヤ書には、「(神は)おのが民を救われる熱心を見させて」(26章11節)、「主は熱心を外套(がいとう)として身を包まれた」(59章17節)などとあります。この燃え上がるような熱心、それに身を包んでいる姿、これが神の姿、キリストのお姿です。

聖霊を注がれて、この宗教的な霊的熱情を燃やしている者が、次から次に人を燃やすのが聖書の宗教なんです。一人のモーセが、燃える柴の中に語られる神に出会った。そして、イスラエルの民の心を燃やし、エジプトの奴隷状況から解放した。私たちもそうでなければなりません。

神の力の加持

ろばに乗って都入りする
イエス(ドゥッチョ画)

ヨハネ福音書12章14~15節に、「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる』と書いてあるとおりであった」とあります。

何ゆえイエスはろばに乗られたか。当時、戦争する時には馬に乗りました。ろばは小さく、柔和で、おとなしい動物です。これは、「シオンの娘よ、大いに喜べ。見よ、あなたの王は柔和であって、ろばに乗る」というゼカリヤ書9章9節にある句を引用したのです。

優しいろばに乗ってきたのでは頼りにならないと思うけれども、神は馬や戦車など、武力に寄り頼む者を喜ばれない、神に寄り頼む魂を喜びたもう、というのが聖書の考え方です。神に寄り頼んで生きる者は、たとえ柔和で小さなろばに乗っても勝つ。何ゆえか。神の力が彼に伴っているからです。イエス・キリストは、そのようなお気持ちをもってエルサレムに上ってこられた。神の力が臨みさえすれば、柔和で小さなろばでもいいのです。私たちは弱いろばかもしれない。しかし神の霊が、キリストが私たちに乗りたもうならば、栄(は)えある生涯を送ることができる。

私が好きな仏教の言葉に、「加持する」というものがあります。弘法大師の真言密教などで加持祈祷といいますが、神霊の力が加わり、その力を持する祈りのことです。私たち、この世では地位も低く、乏しくともよい。しかし、神の霊がお互いに加持しだしたなら、ただではおきません。大事なことは、このような見えない神霊の加持をものにすることです。

夢がその人を作る

英国の劇作家シェークスピアの有名な言葉に「私たち人間は、夢と同じ材料で作られている」(『テンペスト』)というものがあります。

人は物事の外側を見る。しかし、目に見える世界は、私たちが心に描く夢、イメージが作ったのである。夢がなかったら外側の事物も生まれてこない。同様に、夢を作っているものが、私たち自身をも作っている。人間は自分がもつイメージのようになる。だから、その人がどんな夢をもつかによって、やがてその夢がその人に実現する。それで「夢の材料が我らを作る」というのです。実に偉大な言葉です。多くの人はその意味を理解しないが、時としてインスピレーションのように私の心に響く。

人間の尊さは外側にありません。その人のもっている心にあります、夢にあります。イエス・キリストはナザレの田舎大工、それが外側の社会的地位でした。しかし、イエスの尊さは外側にはありませんでした。イエスが、なぜこんなに多くの人々から歓呼をもって迎えられ、「我らを救いたまえ」と言わしめたのか。神と同質の夢、神のような心をもっておられたからです。これはお互いが聖書を学びながら、自分たちのものにしなければいけないことです。

この厳しい世間においても、あなたを偉大にするものは夢です。夢は外側にありません、内側にあります。現在の自分の姿を見ると、粗末ですし、卑しいし、運命が開けそうにない。そして、それに泣きます。だが大事なことは、我らを作るものは夢であって、その人のもっている心の本質、霊的な本質がその人の運命を決める、ということです。

日ごとに神の奇跡を見させたまえ

何ゆえにイエス・キリストは、次々と死人を生かしたり、らい病人を清めたりする奇跡を行なうことができたのでしょうか。人々はそれに驚きました。だが、もし私たちが「日ごとに奇跡を起こしたまえ」という夢を描き、祈りだしたら、そのとおりに実現するものなんです。この真理を多くの人は知りません。

奇跡をひき起こすような時の精神的状況というのは、この聖書の箇所で読むように、燃えたぎっております。心が燃えたぎっているところでは、奇跡が起きるんです。しかし、心が冷たく、縮こまっている者たちに奇跡は起きません。私たちは、このように自分を沸騰させるようなものを欲する。精神力の沸騰するところに奇跡は起きるからです。

まず大事なことは、信仰を温め、燃やすことです。そして、信仰に自由を与え、思い切って現状を打破する決心を、希望を、勇気を与えることです。これなくして奇跡は起きません。

宗教が、ただ現在の状況や伝統を保ちつづけるものだと思われている時に、イエス・キリストの宗教は改革でした、熱情でした。思い切って現状を打破することでした。そこに、自由を得る喜びがあります。宗教的解放の喜びがあります。また、そこに進歩があり、前進があります。

私たちは今年前進したい。それにはどうしたらいいか。聖なる火が燃えはじめなければなりません。聖なる火が胸を焦がし、聖なる霊が注ぎ込まれなければ、日ごとに奇跡を拝するということはありません。「今日も神の奇跡を見させたまえ、不思議を見させたまえ」という夢を私はもつ。夢がその人を作るんです。このような夢は燃える魂でなければ湧いてこないのです。

enthusiasm (熱誠)に生きよ

私たちは聖書をただ読んで、読み過ごしたくありません。何を書いてあるか、そして読みながら、私たちも聖書の人物そのままになりきってキリストをお迎えしたい。「ホサナ、ホサナ」と言って、しゅろの枝を持って私たちの心にお迎えしたい。

私たちは、心が燃え上がるときに嬉しくて自分を忘れます。どうして自分は我(が)強いのだろうかと嘆く人も、燃え上がって何かに熱中しているときには、自我がありませんよ。しかし、冷たい心になりますと、氷のように鋭い気持ちで人を批判するものです。

この、エルサレム入城の時にイエス様を群衆が迎えた姿、また人々の心を沸かして沸かしてやまない熱情的な状況、それはいつも私たちが夢に描かなければならないことです。今の自分に何が足りないのか。それは熱情的な喜びだ。イエス・キリストがもっており、多くの人を燃え立たせたものは、この熱情的な喜びです。今のキリスト教が言っているようなものと違うんだ。これがやがてキリストの死後、大宗教を作るに至らしめたのです。

このような、火のように燃やしてくれるものを皆が欲している。万人が熱く喜ぶことを欲している。皆さん方が、ただ聖書を読むだけじゃない、「そうだ、自分も火だるまのように熱く燃えてやろう」と思いだされると、この熱さは次から次に伝染します。熱い愛は伝染します。

このような熱い情動を、英語で「enthusiasm(エンシュージアズム)」といいますけれども、「熱誠」という意味です。ヘブライ語でいうなら「キヌアー」、熱心、熱情です。私たちはぜひとも現代の世にこれを回復して、伝道なり、仕事なり、家庭なりをやってゆかねばならないと思います。

このようにキリストの火花を躍動させて生きている人に、皆が寄ってくるんです。「あの人のところに行こう、あの人に相談してみよう」と言って、知恵を求めてくるんです。私たちは、温かい、熱い、希望の人に自分を改造するために、ぜひそれが必要です。これをものにしはじめたら、あなたが「こういう事業をしたい」と言えば、「私にも助けさせてください」と言って皆が協力してくれるんです。また、そういう人は、自分だけではない、人をも潤すのです。

祈ります。深い呼吸をなさって、精神を集中して……。

人間には宗教心というものがあって、心が研ぎ澄まされて集中してきますと、わからないはずのものがだんだん見えだしてくるのです。見えだすだけではない、やがて胸の中に赤々と火が燃えはじめます。燃えはじめたら、その火があなたにすべてを教えます。もういろいろなことは要らない。キリストと一つになるくらいに、燃え上がりとうございます。

(1964年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2019年8月号 “Light of Life” に掲載されています。

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