先人の足跡を訪ねて「赤穂の地は語る 山鹿素行」

伊藤純男

明治から大正への御代替わりの時のことです。

裕仁親王殿下(後の昭和天皇)の教育係であった乃木希典(のぎまれすけ)大将は、崩御された明治天皇の後を追って自刃、殉死されました。その数日前、「必ずお読みになりますように」と言って、当時11歳の殿下に手渡された本がありました。それは『中朝事実』でした。

心を目覚めさせる土地

赤穂浪士で有名な兵庫県赤穂市。周りに山々が連なり、町の真ん中を流れる千種川(ちくさがわ)には多くの野鳥が集まります。雄大な川は海に流れ込み、潮風がとても心地よいこの地を少し歩くと、義士にまつわる建物が並び、歴史を感じさせてくれます。

その中に、ひっそりと据えられた像がありました。今はあまり知られなくなった人物、『中朝事実』の著者である山鹿素行(やまがそこう)です。

江戸時代初期に儒学者、兵学者として活躍した素行は、幕府の官学であった朱子学を熱心に学びました。

しかしある時、その朱子学を徹底的に批判します。現実に生きることを大切にした素行には、朱子学は空想空論ばかりで役に立たない、と思えたのです。

これはあまりに過激なことで、素行は幕府から呼び出され、死罪は免れたものの、ここ赤穂に流刑となりました。

赤穂城跡

江戸を追われた失意の中、自然豊かな赤穂で天を仰ぎ、地に聞くように過ごした素行は、大きく開眼していきます。それは日本人としての目覚めでした。

当時、日本の儒学者の間では、アジアで文化の中心であった中国に対する憧れが強く、自国を卑しめる風潮がありました。そうした中で、日本の素晴らしさを説いたのが、『中朝事実』です。

素行はこう言っています。

私は日本に生まれながら、その美しさに気づかず、外国の経典に学び、孔子などの聖人を慕ってきた。なんと志を失っていたことか……。日本の水土は卓越し、人も秀で、その心は洋々としている。天皇は連綿として国を治めつづけておられ、文化は輝き武徳も盛んで、天地にも比するほどである。

中国は革命が起きれば王朝が変わり、歴史が塗り替えられてきた。しかし、かの国で聖人と称えられてきた孔子の理想が実現しているのは、むしろ万世一系の皇統を戴(いただ)く日本ではないか。日本は、なんと素晴らしいではないか、と素行は訴えているのです。

素行がよく行っていたという赤穂市の南端、海に面した尾崎を、私も訪れました。

昇る朝日に照らされる岩や海の輝き、遠く続く島々。今も昔も変わることのない、この国の美しさに、私の心は、感動で震えました。

赤穂・尾崎に昇る朝日

素行という一人の人から

素行の時代には、あまり読まれることのなかった『中朝事実』でしたが、150年後、長州藩の山鹿流兵学師範の家を継いだ吉田松陰の心を打ちます。

山鹿素行を先師と仰ぎ、弟子たちに『中朝事実』の重要性を熱烈に説いた松陰。やがてその愛国の精神は、多くの志士たちに受け継がれて、明治維新の原動力となっていきました。

素行にとって不遇とも見える赤穂への配流は、むしろその心を目覚めさせました。そしてそのことが、やがて時を経て、日本の新しい時代の夜明けを来たらせたのです。

この日本という国に生を享けたということは、どれほど素晴らしいことなのか。新しい御代を迎えた今この時に、 素行や松陰のたどった心の目覚めが、私たち一人ひとりに必要ではないか。

赤穂を巡っていると、この地は、そう語りかけてくるようでした。


本記事は、月刊誌『生命の光』798号 “Light of Life” に掲載されています。