信仰の証し「見えないものが見えてくる」

廣安義人

一昨年の夏ぐらいから体調が悪くて、息が苦しく、胸が痛いので、医者にかかりました。すると、前立腺がんの疑いがあると言われました。

ちょうどそのころ、家族の心配事もあり、精神的にもまいってしまって、家で布団をかぶって横になっていました。もう、体が痛くて耐えられなくて、半泣き状態。みじめな自分の姿でした。その時、つぶやくように「キリストの神様、天のお父様……」と、祈りともつかない祈りをしたんです。

しばらくすると、痛みがスーッと消えて、気持ちもすごく軽くなりました。それで、「よしっ!」とたち上がることができたんです。

何か、ものすごい体験をしたわけではないんですが、その時からいろんなことが気にならなくなって「ああ、うれしいな、ありがたいな」と思えて、心がガラッと変わってしまったんです。

前立腺がんは悪い部分を取ってしまえばあと10年は生きるということで、「82歳まで生きられるのなら御の字だ」と思っていました。ところが、12月に検査の結果が出て、医者から「進行性のがんで、リンパから脊椎(せきつい)、肩甲骨、肺、肝臓と、全身に広がっています。ステージ4です」と言われたんです。それを聞いた時はさすがにショックでした。でも、なぜか心は平安でした。

その年の暮れに、幕屋の全国規模の集会にオンラインで参加しました。若い人たちが自分の悩みを赤裸々に話し、神様に助けられた感謝を涙ながらに証ししていました。私には、一人ひとりに働く天の生命の突き上げというか、背後に神様が共にいてくださるのが見えるようでした。

最後に祈った時、オンラインにもかかわらず、私の中にワーッと神様からの生命がやって来て、熱いものが込み上げてきました。

神様が次の時代を用意してくださっている、その芽生えを感じて、自分のことよりも若い人たちのたち上がりがうれしくて、希望と喜びをもって新しい年を迎えました。

職場が私をサポート

私は、東京に80店舗以上を展開しているスーパーマーケットの、ネットスーパー部門で働いています。

ある日、「治療に専念したいし、皆さんに迷惑をかけるので、辞めさせてほしい」と上司に言いました。すると、「休んでもいいから、治療第一で続けてください。廣安さんは居るだけでいいんだから」と言ってくれるんです。でも、そういうわけにもいかないので、一生懸命働くんですけどね。

すると同僚が、「廣安さん、重たい物、持つな!」と言って、私の仕事をカバーしてくれる。時間内に終わりそうにない時は、ほかの人が進んで残業してくれるなどして、自分の周りが不思議とスムーズに動いてくれるんです。

職場のみんなは一人ひとり、家庭の事情やら自分の問題を抱えておられるのですが、そんなことも忘れて一生懸命、私を気遣ってくれます。

自分は信仰をもって生きていると自認していたけれど、今まで、人の欠点ばかりが目に入っていたなあ。この方たちは、私よりもよほど清い心をもっておられる。そういう姿が見えるようになって、頭が下がる思いがしています。

また家内に対しても、私の見る目が違ってきたんです。家内は、家政婦さんを必要とするご家庭に斡旋・紹介する仕事をしています。ご家庭の事情や家政婦さんの苦労を伺いながら、いつもへとへとになって家に帰ってきます。時には夜中にも電話がかかってきて、その人たちの話を聞いてあげている。それで家内の給料が上がるわけでもないのにね。

でも、それはただ仕事だからそうしているというよりも、キリストの御憐(おんあわ)れみがそうせしめている。そうすることで、そのご家庭の空気がガラッと変わって、また家政婦さんも元気になって、仕事に励んでいるという。

そのことを喜んでいる姿を間近で見ていると、今まで気づかなかった家内の尊さが見えてきました。

あるものが私の中に開けてきたら、人に対しても、また自分に対しても今まで見えていなかったものが見えてきたんです。

死がマイナスに思えない

私は自慢じゃないけど、若い時から “低空飛行の達人” でした。物事をマイナスにとらえがちで、ネガティブに考えてしまう。信仰していても、死ぬのがものすごく怖かった。死んだらどうなるのか、その先がよくわからない。それで、来世のことが書かれた本を一生懸命読んだり、探したりしていましたね。

ところが今は、不思議と私を後押しするような力が働いて、問題だと思っていたことが問題でなくなってきました。

そして何よりも、死ぬことが怖くない。死がマイナスに思えないんです。信仰はこの地上を生きていく力だと思っていたけれども、それだけじゃない、もっと豊かな世界に生きることなんだ、と。これは、実際に死と向き合わないとわからない世界でしたね。こんなことは、今までになかったことです。

私が見ている自分と、神様が見ていてくださっている私とでは全然違うんだ、と思うようになりました。50年、信仰してきたけれども、原始福音の生命の尊さが、初めてわかった気がするんですね。

そう思うと、体はしんどくて、あとどれだけ生きられるかわかりませんけれども、次の世界に向かって喜びいっぱい生かされていきたい。キリストに自由に用いていただき、この生命を現す者でありたい。今はそんな思いでおります。


本記事は、月刊誌『生命の光』840号 “Light of Life” に掲載されています。