信仰の証し「この喜びさえあれば」

樋口智津枝

一昨年、長女がかねてからおつきあいしていた方と結婚したいと言ってきました。私は、娘が選んだ人ならと賛成しました。

でも私たち家族が大切にしてきたキリストへの信仰、これなしに私たちは生きてこられなかったこと、子供たちの存在もなかったことを知っておいてほしいと、娘の夫になる方を幕屋の集会へ連れていきました。

宗教に対して不信感を抱いていた彼は、一度だけのつもりで参加したようですが、幕屋の信仰に感動してしまったんですね。それからは2人で集会へ行くようになり、自宅でも祈り会を始めました。そこへ、近くに住む方たちも集ってくださるようになったのです。こんなことが起こるとは思ってもいませんでした。

私は娘夫婦の家で始まった集会に参加しながら、いつもキリストへの感謝があふれてきます。かつての私は孤独で病気も抱えていたので、結婚はできない、ましてや子供を産むなんてことは考えられませんでした。親からも「一生、独りで生きていくことを覚悟しなさい」と言われ、自分の人生を恨んで泣いていた者です。

このような者にキリストが出会ってくださったことで人生が大転換し、信じられないことが私の身に起こったのです。

ある婦人との出会い

私は東京で生まれ育ちました。幼いころから極度の引っ込み思案で、自分の気持ちを素直に伝えられず、友達の輪に入ることができませんでした。クラスで嫌われ者になり、私の隣の席にはなりたくないと皆から言われて、寂しい子供時代でした。

そんな悩みを親にも打ち明けられず、我慢していました。心の負担が影響したのか、高校1年生の体育の授業中に、校庭で意識を失って倒れてしまいました。

病院で診察してもらったら、突発性のてんかんでした。それからは、発作が起こらないように、強い薬を服用することになりました。薬を飲んでいる間は大丈夫なのですが、少しの間でも飲むのをやめると、発作が起こって倒れてしまいます。もともと暗かった性格に病気が追い打ちをかけるように、私は暗闇の中に放り込まれてしまいました。

そんな時に知人が一人の婦人を紹介してくれました。末廣津弥子さんという方で、幕屋の信仰をもっていて、自宅で集会を開いておられました。

わが家は仏教でしたので、それまで聖書を読んだことなんてありません。でも、その集会では病の人が祈りの中で心が変えられ、元気になったと聞いて、私は「病気が治りたい」という一心で、その会に通うようになりました。

末廣さんは私を抱きしめ、キリストの神様に向かって祈ってくださいました。ずっと孤独を感じて生きてきた私には、末廣さんの体温が心にじんと沁(し)みました。

でも私は自分で祈ることができず、集会中、手は合わせてもずっと下を向いていました。2カ月ほどたったころ、ある集会で伝道者の方から、「『主よ、私のもとに来てください』と口に出してごらん」と言われて、そのとおりに声に出しました。

すると「わたしはいつもそばにいる」と声が響いてきたのです。その途端に体じゅうが熱くなって、次々と祈りが噴き出してきます。自分の意思ではなくて、祈らされている、といった感覚でした。気がついたら、顔を天に向けて祈っていました。祈りの時間が終わったら、それまでの自分とは違っていました。

私の神様はいつもそばにおられる。今も生きて私に語りかけてくださる。病気を気にしてびくびくしていた心が、どこかへ吹き飛んでいってしまいました。この喜びさえあれば、私は生きていける、と思ったのです。

樋口さん家族と末廣さん(左から2人目)

女の幸せ

その後、末廣さんの紹介で結婚しました。ずいぶん婚期が遅れていましたし、病が治ったわけではなかったので、私は結婚に対して引け目を感じていたのです。

でも末廣さんは、「女の人は結婚して、子供を産むことで本当の幸せを得るのよ」と私の背中を押して、主人を紹介してくださいました。主人も精神的な病を抱えていたので、2人で助け合い、キリストへの祈りを中心とした夫婦生活が始まりました。

数年して長女を妊娠したのですが、不安がありました。強い薬を飲んでいたので、胎児に影響が出るかもしれないと言われていたからです。私はおなかに手を置いて「この子を守ってください」と祈りつづけました。

娘が生まれて、私はすぐに手足は2本ずつ、指は5本あるか確かめました。とても元気な赤ちゃんでした。「私にも赤ちゃんが産めた」と、神様からのあわれみを感じて、涙が止まりませんでした。

不思議なことに出産以降、病気の発作がピタリと止まったのです。30年たった今も、一度も起きていません。それからも2人、子供が与えられ、決して裕福ではなかったですが、日々の生活の中で見つめつづけてくださる神様の眼差(まなざ)しを感じて生きてきました。

主の祝宴

昨年、聖書を読んでいたら、イエス・キリストが言われた「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ福音書9章13節)との言葉が目に留まりました。

人々から嫌われていた取税人や罪人たちと食事をしているイエス様を宗教家たちが非難し、それに対して答えておられる箇所です。

かつての私は、人から嫌われて、欠点だらけで祝宴の場にはふさわしくないと決めつけていました。そんな私の人生を、神様が変えてくださいました。そして、キリストの祝宴に座らせてくださっていることがわかって、泣けてしかたありませんでした。

60代の後半になりました。今でも人づきあいが上手ではありませんが、私なりにキリストへの感謝を精いっぱい表していきたいです。


本記事は、月刊誌『生命の光』879号 “Light of Life” に掲載されています。

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