聖句随想「わが避け所は高き岩の上に」―詩篇61篇に寄せて―

切り立った岩山の要害(マサダ)

「あの高い岩山の上に登ることができたら、どんなに強い敵も攻めてくることは絶対にできないだろう」

イスラエルの南部、死海の西岸には、だれもがそう思うような、切り立った、荒々しい岩肌の山があちこちに見られます。

今から3000年前のこと、イスラエルの王ダビデが、愛する息子に謀反を起こされ、命からがらエルサレムの都から逃れたという事件がありました(サムエル記下15~18章参照)。

絶体絶命とも思えるその時、ダビデは、「わたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください!」と、神様に向かって助けを求めて叫び、祈りました。

敵に四方八方を囲まれるような窮地に陥っても、上なる天は開けています。ダビデは追っ手を寄せつけない、高い岩山を心に思いつつ祈ったのでしょう。

その祈りを詠ったのが、詩篇61篇です。

真の問題解決に至るには

聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌

神よ、わたしの叫びを聞いてください。
わたしの祈りに耳を傾けてください。
わが心のくずおれるとき、
わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。
わたしを導いて
わたしの及びがたいほどの高い岩に
のぼらせてください。
あなたはわたしの避け所、
敵に対する堅固なやぐらです。……

詩篇61篇1~3節

1節に、「神よ、わたしの叫びを聞いてください」とありますが、これは単なる祈りというより、叫びを上げるほど、ダビデが大問題に直面し、窮地にいたことをうかがわせます。

人は、突然大きな問題にぶつかると、まずどうすればその問題を解決できるかと、あれやこれやと手だてを考えるものです。しかし、ダビデは問題に直面した時、それまでの経験や常識から解決策を考えるよりも、まず「神よ!」と叫んで、神様に解決を求めています。

さらにダビデは「わたしの祈りに耳を傾けてください。わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります」と、神様に向かって呼ばわりつづけます。

ダビデの心境は、息子の反乱により心くずおれ、まさに地の果てにまで追いやられた気持ちだったのでしょう。しかし、そのような状況でも、彼はあきらめて悲嘆に暮れることなく、神様に向かい、救いを求めて呼ばわりました。

そうして、ダビデの魂が神様の方に向かいはじめると、彼の口から発せられたのは、「わたしを導いて、わたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください」という祈りでした。

人間の力の限界を知っていたダビデは、自分の力ではできなくとも、神様にはできうる、及びがたいほどの高い岩の上に登らせてください、導いてください、と祈っています。

だれも追い迫ってくることのできない高き岩、神様の御もとにまで魂が引き上げられるなら窮地から救われるという確信が、ダビデにわいてきたのです。

天の生命に覆われると

今から7年前、私は、「神様、なぜこんなことが起こるのですか」と、天に向かって、そんな訴えしかわいてこないような出来事に遭遇したことがあります。

その年の夏、幕屋の聖会が鳥取県の大山(だいせん)で行なわれることになり、そのための下見がありました。そこで、中高生部会の担当をしていた、32歳の松井大志(ひろし)さんが、聖会で中高生と共に沢登りをするための下見をしているうちに山に迷い込み、行方不明になってしまいました。

私も捜索の手伝いをするため、救助隊の方々や多くの教友と、現地で共に過ごしました。そして、行方不明になって7日目、松井さんは遺体で発見されました。滑落死でした。

つらい現状だけしか見えない時は、心が上を向けませんでした。悲惨な現実の前に、私たちはどう祈っていいのかもわかりませんでした。

しかし、その最悪とも思える時に、この詩篇61篇を皆で共に読みました。そして、ダビデのように魂を天に向けて、「この状況から、私たちの魂を『及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください』」と、激しく祈りました。

そうして祈りつつある時、私の心は天からの力強い生命に覆われる体験をしました。その体験をしたのは私だけではありませんでした。

その時、二人の幼いお子さんを抱えた、松井さんの奥さんは、「最初はただただ、必死で主人の無事を祈っていました。不安で気がどうかなりそうなほど、気持ちが激しく揺らぐ時もありました。でも皆さんと一緒に祈っているとある時から、キリストの神様に贖われたその愛が今、私の魂を覆っている、主人の祈りと愛の揺りかごの中に、私も置かれていることがわかりました。これから主人は、願っていたように、神様の働き人として天で働ける魂になれると思うと、うれしくて希望でいっぱいです」と話されました。

最も確かな避け所

私は、その時の彼女の輝いた姿を忘れることができません。もしこの時、つらい現実しか見ることができなかったら、悲しみと不安で心は乱れ、激変した現実に翻弄(ほんろう)され、このような言葉は決して出てこなかったでしょう。しかし、皆と共に祈り過ごすうちに、彼女の魂は天の生命に覆われました。

すると3節に、「あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです」とあるように、次元の違う世界、神様の避け所ともいうべき、愛の揺りかごの中に引き上げられるような体験へと導かれていったのです。

もちろん、それから今日に至るまでの歳月は、決して平坦な道のりではなかったでしょう。しかし彼女は、信仰と兄弟愛の中で、この大きな困難と矛盾を乗り越えて生きてこられました。

今、二人の子供さんたちは元気に成長しています。そして、天国のお父さんと何度も夢の中で語り合っていることを話してくれました。

大きな問題に直面した時、「避け所」を、人の励ましや慰めの言葉に求めたり、問題を真正面からとらえずに逃避したりすることがないでしょうか。そうしている間は、魂が真の安きを得ることはありません。

しかし、心が開け、神様の御手の中に守られていることを知ると、最も確実な避け所こそ、神様であることが確信されます。

神様こそ、わが避け所であり、敵に対する堅固なやぐらなのです。その確信が魂の内からわいてくる時に、どんな問題や困難も乗り越えてゆくことができます。

困難な時こそ、私たちの魂は霊の高嶺(たかね)に飛躍することができるのです。

(藤井資啓)


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年6月号 “Light of Life” に掲載されています。

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