聖書講話「大いなる我を目覚ましめよ」ヨハネ福音書10章23~30節

今日はヨハネ福音書10章23節から読んでゆきます。

私たちは、お互いこうして宗教を志しております。「宗教」とは、英語で「religion レリジョン」といいます。これはラテン語の「religio レリギオ 結合」という言葉から来ています。この世にあって私たちの魂は、神から離れてさまよっている。その間、私たちにとって神は遠くかけ離れた存在です。信仰とは、もう一度この神の懐に立ち帰ることです。そして、神と結合することを宗教というのです。それならば、どうしたら私たちは神に結合できるのでしょうか。

今日お読みするヨハネ福音書10章で、「わたしと父とは1つである」(30節)とおっしゃっているように、イエス・キリストはいつも父なる神との一体感をもっておられました。私たちもまた、キリストと1つであるという結合感をもちたい。これが宗教であります。

すべてより大いなるもの

前の箇所まで、イエス・キリストはご自分と、ご自分に従ってくるキリストの民との関係を、羊飼いと羊に譬えてお話しでした。

23節以降を読むと、イエスが宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた時に、ユダヤ人たちが「いつまで私たちを不安のままにしておくのか。あなたはキリストなのか」と質問しました。それに対してイエスは、次のように答えられました。

イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」

(ヨハネ福音書10章25~30節)
かつてソロモンの廊があった神殿の丘(エルサレム)

ここでイエス・キリストは「父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである」と言われていますが、ギリシア語の原文では「παντων μειζον εστιν パントーン メイゾン エスティン すべてより大いなるもの」となっています。父なる神が与えてくださったのは、「大いなるもの」である。それをキリストが握りたもうなら、誰も奪い取ることはできない、と言われるのです。

お互い信仰していて、「どうして自分の信仰は不安定なんだろうか、はっきりしないのだろうか」と思っている方もおられるでしょう。

私は、集会でいろいろな人の感話を聞いておりますと、「この人は優れた信仰をもっていると思っていたが、そんな程度の状況をいまだにさまよっているのか」などと考えさせられることがあります。信仰がちっとも進歩していない。何か困難なことが起こると、「よーし」と奮い立つこともなく、恐れ戦(おのの)いて人間に寄り頼んだりされる。あるいは、すぐに神様から離れてしまう情けない自分を見ては、「私は偽善者です」などと言っている。これは一体どうしてなのか。

ここでキリストが「父なる神がわたしに下さったものは、すべてより大いなるものである」と言われるが、この「大いなるもの」が問題なのです。「大いなるもの」をキリストに握られて生きている人の信仰と、そうでない人の信仰とでは大きな違いがあるのです。

人間の中にある2つの心

昔から人間の心には、天使のような心があり、また悪魔のような心があるといわれます。たとえば、ゲーテは「人間の中には、神のような霊と、獣のような霊が住んでいて、互いに争っている」と言っております。使徒パウロはこの問題について、肉体の欲求に従う「肉なる我」と、神の律法に従おうとする「霊なる我」との葛藤が自分の中にある、と申しております。

ロマ書7章の終わりに、「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている……そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(18~24節)と嘆いております。

人間とはそういうものです。それなのに、だめな自分を振り切ろう、振り切ろうとして自分を苛めると、かえってだめな自分が頭をもたげだしてくる。そして、その自分を抑えようとすればするほど苦しみ、ヘトヘトに疲れてしまいます。

私も以前は、自分の悪いところを見ては「直さねばならない」と思って、自分を責め、苛(いじ)めて苦しんだことがあります。だがある時から、もう自分で自分を責め苛(さいな)むことはなくなりました。それよりも、少しでもよい自分を見出したら、それを伸ばし、よい心を積極的に引き上げてやるように心がけたのです。そして、だんだんよいほうの自分が増してきますと、自然と悪い心は抑えられて、ほとんど顔を出さなくなる。そしてよい性質ばかりが輝いてくるようになりました。

大我と小我

また、人間の中にある2つの心を、「小我」と「大我」ということもあります。

たとえば、いつもは小さく引っ込み思案で、戦いて小心翼々としている自分が、時々、考えつかないようなことをやってのけることがある。「ああ、今日はうまくいった」。周囲の人々からも、「いやー、あなた素晴らしいじゃないですか」と言われる。そういうことを経験してみると、自分の中に2つの我がいるということを感じはじめます。

小我とは、罪深い自分、小心翼々として恐れ戦(おのの)いて生きている自分です。それに対して大我とは、大胆不敵な自分、希望と愛と喜びに満ちた自分です。この2つの性質が誰にでもあるのです。そして、この大我、大いなる我というものを育ててゆくのが信仰なのです。

イエス・キリストは、「父なる神によってわたしに与えられたものは、大いなるものだ。そして誰も父なる神の御手からそれを奪い取ることはできない」とおっしゃった。

皆さん、どうでしょうか。お互い2つの我をもっているというならば、どちらを神様に握っていただいているか。卑しい惨めな罪の自分を握っていただいているのか。そんなものは、神様といえども握りたくありません。神様がほんとうに喜ばれるのは、もう1つの我、大いなる我である、ということに気がつかなければなりません。

イエスの弟子たちは皆、この世的には無学な、地位の低い卑しい人たちでした。しかし、神様の目には尊い者たちであった。彼らの中の大いなるものが神様に握られていたからです。私たちもここで大いなる我を目覚ましめ、それを神様に握っていただくなら、より大きな我に力がぐんぐん増し加わり、運命がすっかり変わるのです。

魂が目覚める時

何かの教えを伝えるというのが普通の宗教でしょう。しかしキリストの宗教は、人々の魂を目覚めさせ、信じる心を奮い立たせ、素晴らしい生命を受け取らせるところに主眼がありました。

「伝道」という言葉がありますが、「道を伝える、宗教を伝える」などということが、そもそも間違いのもとです。私も、何かを教えようとしてきませんでした。私はいつでも、皆様がたの胸を揺るがして、魂の目覚めを起こすことを願ってきました。大いなる我ともいうべき、尊い魂を目覚ましさえすれば、あなたの内にも驚くべき神の力が、神の生命が流れていることをご発見になるのです。目が塞がれている間はどんな美しい光景のお話をしてもわからないように、私の伝道は一貫して、魂を目覚ましめることにあります。

平生は、目覚めていなくとも生きられるでしょう。だが多くの場合、何か病気にかかったり、何か躓きがあったり、失敗や不運のあげく、「神様!」となぜ言いだすか。それまでは、常識的に普通の歩き方をしておればよかったんです。しかしながら、恐ろしい状況に陥ってどうにもならなくなると、「神様、助けて!」といって叫ばざるをえなくなります。

詩篇46篇に、

神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとい地は変り、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない……
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」

とありますが、大戦争、大地震、洪水のような状況に直面すると誰でも慌てます。けれども、この詩人はそのような時にも慌てない。どうしてかというなら、彼は「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という神の声を魂に聞いて、もう一つの「大いなる我」に目覚めたからです。

大いなる我に生命が臨む

人間は強い刺激を受けると、普通はそれで、くしゃっとつぶれてしまいそうになります。弱い、肉なる自分は卑怯で、「ああ、これ以上の刺激は嫌です」と言いたいものです。

しかし、もう1つの我が立ち上がると、「よーし、やるぞ」と勇みだす。困難に対して挑もう、突破しよう、前進しよう、ここから引き上げられよう、というもう1つの我があるのです。宗教は、この大いなる我を目覚ましめるものです。

多くの人の信仰を見ていると、大いなる我という我は育てずに、小さな我のだめさをつついて、「なんて自分はだめなのだろうか」と嘆いておられる。しかし、すべてに対して恐れがちな自分、卑怯で消極的な、罪なる自分を問題にしている間は救いはありません。

ところが、大いなる我、神なる我が、キリストの生命を受けてぐんぐん強まりだしますと、いつしか小さな我、罪の自分は影を消してしまいます。ないとは言わないけれど、ほんとうに小さくなってしまう。そして、「こんなとき、昔だったら恐れてばかりいただろうけれども、今ではなんでこんなに勇み立つことができるのだろうか」といって、今までとは違った自分を発見するものです。この大いなる我を目覚ましめることが大事です。

抜山蓋世の力を引き起こす

イエス・キリストが「わたしが父なる神様から与えられているものは、大いなるものだ」と言われているが、父から与えられたイエスの弟子たちの多くは、とても大いなる者ではありませんでした。イエスが十字架にかけられるとなると、恐れて逃げ去ってしまうような弱い者たちでした。しかし、神様は彼らの中にある大いなるものを握っておられた。それを握った以上、神は放さない、と言われるのです。

もしお互い、神からすぐ離れがちな自分があるというならば、あなたの心のあり方が間違っているのです。神の御手に握られる魂は、いつも光り輝いて希望と愛と喜びに満ちている。信仰に満ちている。神のごとくに無限に赦し、無限に愛し、無限に信じる。背かれても信じるような、大きな我というものがあるのです。しかし、今はそれが眠っている。目覚めだしたなら、そして神様がそれを握りだされたなら、キリストはその魂を通して大いなることをなさいます。

こういう霊的な啓発は、普通の世の中ではなかなか行なわれません。これは教育の仕事ではありません。宗教の仕事なのです。religion レリジョン(結合)というけれど、何が何と結合するのか。大いなる我と呼ばれるもの、私たちの魂が神と結合するのです。宇宙の根本である神に握られだしたら、運命は劇的に逆転しはじめます。魂が目覚めるならば、抜山蓋世(ばつざんがいせい)の驚くべき力が自分にあるということを知ります。

ですから、霊なる我・大我と、肉なる我・小我を対等においていてはいけません。聖霊が私たちに臨むというのは、霊なる我に臨むからです。ひとたび魂が目覚め、聖霊が臨んで霊なる我が力強く息づいてきさえしましたら、今までは奴隷のように小さく縮こまって生きていたのに、ぐんぐん押しまくって勇者のごとくに立ち上がることができます。

そのような2つの自分がある、ということをよくお考えになることが必要です。キリストが、御手に握ったら放さない、と言われる霊魂が皆さんの中にあるのです。

大浪関とビタ銭

明治年間のことです。大浪(おおなみ)という力士がおりました。この力士は非常に体格もいいし、稽古熱心だが、土俵に立つと負ける。あれだけの体をして、あれだけの技をもっているのに、どうして負けるのだろうかと、皆が不思議がりました。

ある高名な禅師が大浪関の不評判を耳にして「ひとつ、わしが大浪に会ってみよう」と言った。「老師がそう言われるのなら連れてきましょう」というわけで、大浪が連れてこられた。

すると老師が大浪に「騙されたと思って、わしの言うとおりにせい」と言って、大浪をお寺のお堂に籠らせた。そして老師が言うのに、「よいか、どのように眠くなろうとも今夜一晩、寝てはいかん。そして、目の前の仏を睨みつけて、こう言え、『おまえが釈迦(しゃか)か! おれは大浪! おまえが釈迦か! おれは大浪!』と」。大浪は言われたとおりに「おまえが釈迦か! おれは大浪!」と言っていたら、だんだん瞼が重たくなってしょうがない。けれども、絶対に寝てはいかんと言われたから、つねったり、いろいろするけれども眠くてかなわない。それで、お尻の付近を痛くしたら眠らないだろうと思って、煙草入れの飾りにしていたビタ銭をお尻の下に立てて一晩過ごした。

その翌日以来、土俵に立ったら、今まで負けてばかりいた大浪が、小結だろうが関脇だろうが大関だろうが、鋼(はがね)のようにバンと跳ね返して負かしてしまう。始末に負えないくらい強くなった。それで、どういうわけでこのような天下無敵の力が一夜にして与えられたのだろうかと皆が驚いた、という話があります。

本来の面目を発見

それである人が、「どうしてあなたは一夜にしてあんなに強くなったのか」と聞くと、「あの夜、老師に言われたとおりに、『おまえが釈迦か! おれは大浪!』と繰り返しているうちに眠たくなって、尻の下にビタ銭を据えた。その時、『ああ、おれもこのビタ銭のようなつまらんものだ』と情けない気持ちになった。

ところが、そのうち夢見心地になって尻の下のビタ銭がどんどん波打つように増えてきた。夢か幻か、自分はビタ銭の大波の上に浮かんでいる。その時に、今まで自分はビタ銭のようにつまらない奴だと思っていたのに、そうではなかった。ビタ銭を尻に敷いているおれが大浪だ、という大きな気持ちになった。

その気持ちのまま次の土俵に立ったら、今までどうしても負けていた相手がビタ銭に思えてきた。それで『おれは大浪! どんな者が来ても、ビタ銭だ、エイッ!』という気持ちで取り組んだら勝ったのです」と言いました。

どうでしょうか。大浪という力士は本来の面目ともいうべき、もう1つの「我」を発見したのです。ビタ銭のように卑しく、小さく情けない自分だと思っておったのに、急に「大いなる我」、大浪の自覚に立った。その時に、それまでの自分を踏みつけてしまうような、大きな自分が現れてきたのです。

神と結合する宗教体験

宗教はこれです。宗教は、神に通じる魂、神が喜ばれる大いなる我を目覚ましめることにあるのです。常識的な、小賢しい、利己的な心が神に通じることはありません。誰にでも神に通じる心はあります。しかし、多くの人はそれを押しのけて、自分中心な、小心翼々としている我を大事にして生きております。そして、不安に戦(おのの)き、自分を守るのに精いっぱいですから、人とぶつかって、争いごとばかり、確執ばかり起きてきます。すべてを包容して生きるというような、本来あるべき大きな自分というものが現れてはきません。

私たちは「信仰、信仰」と言いますけれども、もう一ぺん目覚める必要があるのではないか。目覚めた、大いなる我が神を信じるのでないならば、キリストの言われるように神様と1つになることはありません。もし目覚めているならば、人の目には卑しく見えても、神の目には尊く見える、神様が握って放さないとまで言われるぐらいの者となります。そのような魂の目覚めは、行き詰まって逃げ出したくなるような状況で、「神様!」と叫びだすときに起こってきます。

今まで「神なる我」などと聞いてはいても、他人事のように思っていた。しかし、それが目覚めだし、やがて自分の心をすっかり占領しはじめると、それまでの自分はどこに行ったかわからないくらいに、もう1つの我が輝き出てまいります。

神様を「貴神(あなた)は」と外に拝していたのに、聖霊が自分を占領し、自分を通して語るほどに現れてくださる。これが、キリストが「わたしと父とは1つである」と言われた宗教体験です。

どうぞ、それくらいまでに全く神に握られて生きたい。

そのためにはどうしたらいいのか。今までのあなたの心の使い方が間違っていたのです。もう1つの我があるということを知らずに信仰していたために、どうしても信仰が伸びなかったのです。もう1つの大いなる我が力をもってきたら、今までのだめな我はいつの間にか消えてしまいます。これが目覚めさえすれば、信仰はぐんぐん成長するでしょう。

キリストが、「父がわたしに下さったのは、すべてより大いなるものである。それをわたしの手から奪い去る者はいない。神様も握って手放されない」というような密接不離な、神と人間との結合関係、このことが大切であります。

(1963年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2019年3月号 “Light of Life” に掲載されています。