エッセイ「手紙の余白」

山口卓也

部屋を片づけていると、昔の写真や手紙が出てくることがあります。

先日は、今は亡き父からの手紙を見つけました。私が病気の療養のために親もとを離れて暮らしていた、19歳の時のもの。ですから、私を励ます言葉が続いていました。

印象深かったのが、余白の文字です。便せんの端に、畑のスイカやブドウの熟れ具合といった、何げない近況報告が、絵を添えて書いてありました。

吃音(きつおん)があって、話すのが苦手な父。その父が、会話をするようにして一木一草の世話をしている。そんな横顔が目に浮かぶようで、何だか父を身近に感じた、忘れられない手紙です。

余白という表現は、紙以外でも使われます。時間の余白、気持ちの余白などさまざま。空白という意味合いでしょうか、「人生の余白」という言い方もあります。

私にとって、寝たきりに近い生活だった19歳の1年間は、言ってみれば人生の余白みたいなものでした。

椎間板(ついかんばん)ヘルニアが原因で、外出は週に1度の通院のみ。自分だけ人生が止まっているようで、有意義な時間を過ごしているであろう友人たちのことを思うと、何もできない毎日が恨めしかったです。焦りと将来への不安で苦しんでいたそんな時、私は幕屋の集会に参加しました。

「神様、治してください、治してください」と必死に祈っていると急に、想像すらできなくなっていた今後の自分の姿、将来への希望が、あふれるようにわいてきたのです。涙が止まりませんでした。帰宅後もうれしくてうれしくて、「ああ、キリストがそばにいてくださる」 と感じることが、それから何度もありました。気がつくと、いつの間にか腰の痛みを忘れていました。

試しに病院でMRI検査をすると、1年前は突き出ていた椎間板が実際によくなっています。神様の奇跡を検査結果の画像で見ているようで、医師の説明を聞きながら、私は泣いてしまいました。

長い人生、立ち止まったり、コースを外れたりもします。でもそんな余白みたいな時にこそ、私はキリストを身近に感じることができたのです。順風満帆だった時より、かえって思い出すことが多い1年間。忘れることのできない、大切な時間です。


本記事は、月刊誌『生命の光』847号 “Light of Life” に掲載されています。

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