信仰の証し「悪夢は消えて生きる喜びが」

―沖縄戦を経て発見したもの―

平良(たいら)輝子

上皇上皇后両陛下には、御在位中の平成26年6月、沖縄をご訪問され、遭難から70年となる対馬丸(つしままる)の慰霊碑や記念館をお訪ねになられました。

対馬丸は、戦争中に沖縄から学童疎開の子供などを乗せて本土に向かう途中、米軍の潜水艦に沈められた船です。1500人近くが犠牲になりました。

末弟を対馬丸で亡くした私は、遺族の一人として記念館に招かれました。もったいなくも、何者でもない私に、両陛下はお声をかけてくださり、おそれ多いことです。

両陛下のお姿を拝見していると、亡くなった子供たちの霊がほんとうに慰められていることを感じました。

両陛下に拝謁した感激を語る平良さん

また別の日には、家に報道の方が取材に来られましたが、引き出されるままに、私は自分がキリストに救われたことを話していました。私の生涯は、原始福音の信仰を抜きにしては語れません。

水杯の別れ

昭和20年3月、沖縄本島に米軍の大規模な空襲と艦砲射撃が始まりました。当時の私は、那覇の高等女学校を卒業した19歳。陸軍軍医の事務員でしたが、軍医から「本島の北西部にある軍衛生部の本部(もとぶ)出張所に薬品を届けよ」と指示され、「向こうは安全だから、届け終えたら帰ってこなくていい」と言われました。一行は衛生兵2名と看護婦、私と16歳の妹です。

両親は残ることにしました。私たち姉妹は出発前、両親と「生きていたら、この場所にまた集まろうね」と水杯を交わして別れました。それは3月の終わりごろ、米軍が沖縄本島に上陸する3日前でした。

出発した私たちは、藪(やぶ)や岩陰に隠れながら移動するのですが、昼間は艦載機が、道行く一人ひとりを機銃掃射で狙い撃ちするんです。夜には照明弾が上がって真昼よりも明るくなり、艦砲射撃の砲弾が容赦なく飛んできます。住民にも直撃弾や破片などが当たって、泣き叫んでいます。まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷(ちまた)でした。

そして4月1日に、「敵が上陸したから皆、解散」という通達が伝わると、どこに行ったらいいのかわかりません。右往左往するうちに皆とは別れ別れ。私と妹だけになってしまいました。

いろいろさまよった挙げ句、北部の山の中で1カ月ほど、ニガナやヨモギなどの野草と水で命をつないでいました。妹は栄養失調で極度に衰弱して、もう死んでしまうんじゃないかという状況でした。

やがて男の人が来て、「米軍が山狩りをする。山から下りてこない者は皆、射殺されるから、下りてきなさい」と言うのです。妹と一歩一歩、やっと山を下りると、そこの部落はもう米軍の支配下でした。

平安のない日々

占領下の沖縄では、米軍の交通証がないと隣の部落にも行けないのですが、私は両親を捜しに、隠れながら南に向かいました。途中で親戚に出会って、「あなたの両親は亡くなったよ」と言われ、悲しくてどうしようもありませんでした。

南部はどこもかしこも、何もない岩肌ばかりの焼け野原になっていました。両親と別れた所まで行き、遺骨を捜しました。でも、いろんなお骨があってどれが両親の骨かわからず、石と土を取りました。それは、今も両親のお墓に置いてあります。

両親の遺骨を捜した真玉橋(まだんばし)付近

学徒出陣した兄や少年航空兵に志願した弟たちが帰ってきて、兄弟一緒に暮らしました。でも、対馬丸で海底に沈んだ弟や、両親を思っては夜、泣きました。機銃掃射や、艦砲射撃が飛んでくるビュービューという音や、たくさんの屍(しかばね)の悪夢にもさいなまれました。

やがて私は結婚し、子供を授かりましたが、心に平安はありません。夫も、父親を戦争のため理不尽な形で亡くし、病を負った弟を抱え、苦しんでいました。私たちは、希望も何も、失いかけていました。

「聖霊を下さい」

昭和35年のこと。夫は、熊本の幕屋から初めて沖縄に伝道に来られた門脇誠治先生と出会いました。先生に祈っていただくと、夫は聖霊を注がれ、回心したのです。男は泣くもんじゃないと一度も泣いたことなどなかったのに、わんわん泣いて。それまでの苦しみが全部解消され、喜びにあふれて帰ってきました。

「どうしてこんなにうれしいのか」と、夫は回心の体験を話してくれるのです。それまで悲観的な言葉しか口にしなかった夫が、顔も声も、まるで別人のようでしたが、何か偉大な人の話を聞いて感動しているんだろうなと、私は猜疑心(さいぎしん)をもって聞いていました。

でも、家族が寝静まってから、「主人を別人のように変えたもうた神様、聖霊が何か知りません。どう祈っていいのかもわかりません。でも、私も変わりたいです。聖霊を下さい、聖霊を下さい」と祈りました。すると私は光に照らされ、打ち倒されたのです。

それまでは毎朝、雨戸を開けるたびに、「今日も嫌な一日が始まる」という思いでしたのに、その翌朝、雨戸を開けたら、すべてが美しく光り輝いていて、庭の木が祝福しているんです。涙があふれました。

両親や末弟のこと、また私にはずっと劣等感があって、いつも死にたいと思っていましたが、「生きていてよかった!」と生きる喜びにあふれる者に変えられたのです。戦争の悪夢もピタリと止まってしまいました。

人に話しかけられなかった私が、それからは喜びを語ってやまないんです。痛みを負った沖縄の人たちが次々と幕屋に来て、回心して救われていきました。

やがて、両親や末弟が天で喜んでいる姿を夢に見せられて、私はほんとうに慰められました。

私たちの世代は皇室を尊び、お国のためにすべてをささげるという教育を受け、愛国心に燃えていました。けれども敗戦後は、そういうことは一つも口に出せない状況でした。私は回心して、「ああ、この命をキリストにささげていけるんだ」と、ほんとうに希望に燃やされました。

晩年に至りましたが、生けるキリストを発見して回心するならば、必ず希望が回復すると、私は伝えていきたいです。

激戦の地、沖縄本島南部を照らす夕日

本記事は、月刊誌『生命の光』820号 “Light of Life” に掲載されています。

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