神機熟して

「イエスは彼らに言われた、「わが時はまだきていない。……わたしはこの祭りには上らない。わが時はまだ満ちていないから」と言って、イエスはガリラヤにとどまった。」

ヨハネ福音書7章6~9節 私訳

「わが時はきていない」とか「わが時は満ちていない」とか言われる、この”時”は、ギリシア語で「καιρος カイロス」という言葉でして、「κειρω ケイロー 切断する」という言葉から出ています。

時間の断層というか、意味をもつ短い時をいうのですが、時計が刻む単なる時間ではなく、過去・現在・未来に流れ過ぎゆく時間ではなく、天の時が地上の時間に干渉し、時間を切断しようとして迫ってくる。そのような時を「καιρος カイロス」と申し、この時の徴(しるし)を見て重大な時(カイロス)のもつ意味を知らねばなりません。

それでイエスは、一つの譬(たと)えを話されました。「イチジクの木を、またすべての木を見よ。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと自分で気づくのである。このように、あなたがたもこれらのことが起こるのを見たなら、神の国が近いのだと悟れよ。よく聞いておきなさい。これらのことが、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は、決して滅びることはない」

天の時が歴史の時間に切り込んで、地上の時間を割き、今までとはぜんぜん違う歴史や運命が始まる。そんな歴史の断層を起こすような異変と審判の時を指して、「καιρος カイロス」という時間の概念があります。

例えば28年前、1945年8月15日、あの敗戦の詔勅が下った日を境に、日本の運命はがらりと変わって、それまでの思想も政治も法律も経済も、みんながたがたと崩れてしまいました。これは私たち日本人が経験した、酷いカイロスの断層でありました。

機械的に時計が刻む時間ではなく、意味をもつ、異変を起こすような時間。一国、一民族だけでなく、一個人にも、だれにもカイロスの時が臨みます。

例えば、学校に受験する。通るか通らぬかで、その人の運命が違ってきます。また結婚をします。その人の結婚を境に、今までとは運命が分かれてくるので、ただならぬ時となります。このように、生涯にも、または民族の歴史の上にも意味をもつ時間がカイロスであります。

このカイロスという時は、聖書特有の思想ですが、「時(カイロス)は満ちた。神の国は到来した」という宣言からイエスの伝道は始まって、最後の新約聖書・黙示録に「神の裁きの時(カイロス)が来た」と、いたるところに使われております。

一般の人々はそういう時(カイロス)の概念を重視しませんが、聖書を読みながらこんな点をよく学ばねば、聖書の意味はわかりません。

「イエス・キリストの来臨によって、時が満ち、神の国が近づいた」との思想は、古代バビロニアの世界年の占星的な思想から発しているようですが、イエスは人々に「あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」と言って、不審がりました。

徳川時代の農業指導者として有名な二宮尊徳は、「目を開いて天地の経文を読むべし」と言って、「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経を繰り返しつつ」と詠いました。1年365日、神は何かを常に訴えつつある、というのです。

日本では昔から、非常に優れた宗教人を「聖(ひじり)」と呼んでいますが、”ひじり”は日を知る、時を知る人のことを言うのでした。

例えば聖徳太子は”日知り”でして、「私はこうしたいが、いつの日がよいでしょうか」と伺いをたてますと、「ああ、それは何日は時が悪いな。何時に死になさるな」などと、未来の出来事を教えてくれました。古代人の時の観念は深く、現代人のように浅薄なものではありませんでした。

何故、キリストは「時は満ちた」とか、「私の時はまだ来ていない」などと言われるのか。これは”日知り”というか、神の預言者に特有の時間観念なのです。日知りが知っている時間というものは、普通の人の知っている時間とは違う。

私たちは時計がカチッ、カチッ、カチッという意味のない時間を時間と思っていますけれども、天上を見上げている人間には、「はあ、霊界にああいう幻が見えた。このはねっ返りはグワーッと地上に来るぞ」というように、未来が既に見通せて、わかるんです。

ですから、私たちもいつも祈り深く、天を見上げながら、天の時間に呼吸を合わせるようにして地上を過ごさねばなりません。聖書を読んで私たちも”日知り”、キリストの弟子らしく学ばねばなりません。ただ、あたら意味のない日々を過ごしたんではいけません。

イエスは「あなたがたの時は、いつでも備わっている」と言って、普通人が天を仰いで、天の呼吸に合わせて生きようもしないから、いつでも勝手に好きな時に好きなことをする。しかし、一般人のこういう”無時間”ともいうべき世界に生きているのに対して、イエス・キリストは「神の世界が切り込んでくる時の断層・カイロスを、自分はいつも見て生きているのだから、違うんだ。勝手な行動はできんのだ。何も敵を恐れ、迫害が怖いからエルサレムに上らんというのではない。背後にある神の御手の動きを知ればこそ、大天地と呼吸を合わせて行動するんだ」とイエスは言われたんです。

やがて神の時が来たと悟られると、イエスは一転して神機熟して肉躍り、仇の待つ危険なエルサレムを指して、泰然として出発なさいました。

私の人生に、幾たびか過去に、迫害や不可解な試みがありました。しかし、天を仰いで祈るうちに神の御守(おんまも)りと導きが感ぜられ、出かけて行きますと不思議に良い結果を見ました。

16世紀のこと、マルティン・ルターはキリスト教会の酷い腐敗を嘆いて宗教改革を叫びましたために、異端者として教会から破門され、、またヴォルムスでは皇帝、王侯貴族、宗教代表者の立ち並ぶなかで、宗教裁判にかけられました。

ほとんど同情者とていないルターには、死地に踏み入るような危険な時でした。怯えながら泣いて神に祈りました。神に祈ると、急に起ち上がる力を得ました。「われはヴォルムスの屋根瓦のように悪魔が巣食っていても、恐れずに出かけるぞ」と申して出発しました。

同様に私たちも、危険で困難な問題にぶつかる時に、天の時が切り込んで、あまりにも偶然に偶然が折り重なるように問題に干渉して、助けてくれるのを幾たびも経験するものであります。

私たちを追い詰め、苦しめようとする人々が逆にやられて、えらい目にあって苦しみます。

どうぞ、神のカイロス・時の切り込みを信じ、思い切り積極的に行動しようではありませんか。

どうぞ、元気を出してください。困難な問題に悩むあなたを、天の父よ助けてください、一転してあなたを救うカイロスの時たらしめてくださるように、と私は心から祈っております。