神の一言に成る

太初(はじめ)に神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水の上をただよっていた。神が「光あれ」と言われた。すると、光があった。神はその光を見て、よしとされた。

創世記1章1~4節

現代は物質文明の時代であります。大都会には素晴らしく巨大な、がっちりしたコンクリートのビルディングが、至るところにそそり立っています。また重工業の工場機械はうなりを立てて動き、石油コンビナートのプラントは林立して連なっています。見ゆるところ、極めて強く永く繁栄しそうで、不屈な堅固さを誇っているのが、現代文明のように思えます。しかし、もし今、第三次大戦が始まるなら、日本列島は、たった5発か6発の水爆で、モロクも一瞬にして消滅してしまうでしょう。私たちの住む現代文明が、強そうでも、他面、なんと薄弱なものだろうか、と思います。1発の水爆の連鎖反応によって、地上の空気という空気が、全部燃え上がり、地球が火だるまのようになると、すっかり物質文明も崩れてゆく。こうなると、私たちはここで、もっと確実な、揺るがぬ力の上に新しい文明の構想をする必要があります。もし、「日本列島の改造」とかいう大きいテーマを実行・施策されるにおいても、まず新しい文明の基礎を何に求めるかが、先決問題です。

聖書は

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を実証することである。信仰によって私たちはこの世界が神の言葉で造られたのであり、したがって見ゆるものは、現れているものからできたのではないことを悟る。

へブル人への手紙11章1~3節

と言って、私たちが住んでいる物質的世界の根源は、何であるか? 見ゆる物質は目に見えないエネルギー、すなわち非物質から成っている。超エネルギーが作用して原子核となり、原子となり、分子となり、凝集して物質となって現れてきますが、物質が形を失うと、元のエネルギーに返って、見えなくなります。

ただいま読みました聖書は、2000年、否、4000年前からすでに、物質が見えない非物質、非現象的なものの上に組み立てられているのだ、と断言しているのには、驚くじゃありませんか! 宇宙の根底は見えないエネルギー、その底には、何があって、これを動かしているのか?

宇宙の根底は霊

端的に申すならば、大宇宙の根源に神の霊がある。一切のもの、神の霊が決意すれば、その言葉の思いどおりに創造が成ってゆく。神が「光あれ!」との一言(いちごん)で、光が創造されたように、神の一言に反応して、霊のエネルギーは動きだし、一切のものは言葉(ロゴス)によって、その形を現してくる。それで、逆に心が間違って、言葉が混乱すれば、霊も渾沌(こんとん)として乱れ、間違った現象が現れてくることともなります。誤った心がけで、神の心に反する理念をもったりしていると、その誤ったとおりに恐ろしい結果を招きますから、警戒を要します。

カペナウムにかえられると、一人の百卒長がそばに来て願って言った、「主よ、うちの下男が中風で家にねていて、ひどく苦しんでおります。主よ、私はあなたを、わが屋根の下にお迎えできるような者ではありません。それでただ一言、言ってください。そうすれば下男は治ります」。イエスは聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた、「アーメン、わたしは言う、イスラエル人の中でも、こんな信仰をもっている者を一人も見たことがない。行け、あなたの信ずるごとくに成れ」と。すると、ちょうどその時に、下男は治った。

マタイ福音書8章5~13節

ローマ軍の部隊長がイエス・キリストに、「私のしもべが危篤状況ですが、一言、言ってくだされば、私のしもべは救われます」と申しました。もしキリストの霊が”癒やそう”と思って、一言くださるならば、それで十分、部下は癒やされると、彼は信じました。キリストが思って、一言、命じてくださるならば、そのごとくに現象界は成ると信じていたので、キリストはびっくりなさった。「あなたのような信心深い人は、全イスラエルの中にも見たことがない」と絶賛されまして、「行け、あなたの信じたとおりに成れ!」と言われると、ちょうどその時、その下僕は危篤の状況から癒やされたという記事が、マタイ伝8章に書いてあります。イエス・キリストには、神の聖なる霊が内在していて、この神の聖霊が発動さえすれば、思いどおりに、信じたとおりを成すことがおできになる。実にこの神の霊こそ、宇宙の根源、すべてのエネルギーを動かし、一切のものは、神の言葉によって神霊が働き、支配されてゆくのであります。

原爆下の久保田豊氏

ヘブル語の「言葉(ダーバル)」とは、事柄の背後にあるもの、という意味ですが、すべての事柄の背後に言葉があって、一言(いちごん)発すれば、霊が働き、信じたように事柄が成り立ってゆく ―― これは日本語の「言霊(ことだま)の幸(さきお)う」信仰に似ております。私たちが心の内にささやく言葉で、神の霊に影響を与え、神の霊を動かし、神の力を受けさえすれば、大なり小なり、私たちは何かをしでかすことができます。

この一例を申してみますと、もと三菱製鋼の社長でした久保田豊氏とは、私は別懇の親しいお交わりを致しておりまして、同じ原始福音運動を進めてきたのでしたが、ちょうど、終戦直前のこと。昭和20年8月9日の昼前ですが、雲の間からアメリカのB29が飛んできまして、原子爆弾を長崎に落としました。すると、一瞬のうちに、浦上(うらがみ)一帯は焼け野が原となり、原爆の真下にありました三菱製鋼所はたちまち燃え上がって、すっかり廃墟となりました。たまたま久保田豊社長は、重要な書類を取るために、地下室に下っておられたので、一命が助かりましたが、地下室から出て見られると、地上は数千度の高い熱風のために焼けただれて、家も草木も、鉄骨の工場も跡形もなく燃え尽きて、数万の人々が死傷して、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄となっていました。久保田さんは、全く奇跡的に生き残られたのでしたが、死屍累々(ししるいるい)たる焼け跡に立って、放射能のたださす中で、毎日、事後処理に陣頭指揮を続けておられました。それから7日目のこと、生き残った2人の女学生のお嬢さんが、自宅も焼かれて帰る所もなく、お母さんも死んでしまわれて、しょんぼり所長室にたどり着かれました。久保田さんは、それまで一度も自宅にも帰ろうとされず、廃墟の中に踏みとどまっておられたのでしたが、その時、泣き崩れる2人のお嬢さんを地下室に連れてゆかれ、自分のベッドの上に寝かせられて、炊き出しのオニギリを持ってきては、慰めるすべもなく、蚊やハエをウチワで追ってやりながら、茫然(ぼうぜん)としておられました。その時、その時でした、雷のように一つの声を聞かれました。「恐れるな、進め! なんじを助くる者多し!」と。大鐘が鳴り響くようにも、神の声を久保田さんは聞かれ、魂を打ち震わされたのでした。

これは、日本がアメリカに降伏した翌日の出来事ですが、満目荒涼たる廃墟の中にあって、ただちに久保田さんは決心して、工場の再建に乗り出されました。これを見て多くの人々は笑いました。「もう戦争は済んだじゃないか。今さら何のために鉄鋼の生産だろう? 隣の三菱造船所も、すっかり閉鎖されたというのに」とか言って、時代錯誤を嘲笑(あざわら)いました。重役会でも、「一切を清算して、会社の解散をすべきである」と言って、久保田さんを冷笑しました。

人に聴くより神に聴き従え

しかし、人々の言葉に耳を貸されず、ただ神の声のままに、工場の再建にいち早く乗り出されたので、数年後には旧に倍する、立派な三菱製鋼所が再建されたのでありました。

久保田社長が言われるのに「人々は、終戦直後のこととて笑いました。しかし、神の言葉は偉大ではないですか。鉄床(かなとこ)2つぐらいしか残っていなかった荒れ果てたところから、このような大工場が早くも再建できたんです。人の助けは神の助け。不思議な助けが、次々と差し伸べられたからです」と言って、自分の功績にされず、神の声に従ったから助けられ、成功した次第を、こと細かにいつも私にお話しでありました。

久保田豊社長は、ほんとうに人格崇高な、まれにみる信心深いクリスチャンでしたが、7年前(1965年)の12月4日にお亡くなりになりました。私にとって大きな信仰の教訓を残されました。

私たちも神に祈り、神の声を一言でも聞き、行なう信仰をもって立ち上がりとうございます。

(1972年)