信仰の証し「私の目指すべき支援は」

大津山愛児

東日本大震災で大きな被害を受けた、岩手県釜石市。縁もゆかりもなかったその地に、私がスーツケース1つで飛び込んでいったのは、7年前(2012年)のことでした。

被災地へ

私は以前、茨城県の児童養護施設で働いていました。親から虐待を受けてきた子供がほとんどでした。「これこそ天職」と思って無我夢中で過ごしていました。

でも、聖書の信仰をもつ者として一度は聖書の舞台に立ち、聖地を体験したいと、幕屋の送り出しているイスラエル留学を希望しました。34歳の時でした。

もう少しで出発するという時に、東日本大震災が起きました。施設の子供たちと数日間テントで過ごし、私は後ろ髪を引かれる思いで旅立ちました。

帰国後は当然、その施設に戻るつもりでした。でも、ユダヤ民族が幾多の困難を乗り越えてきたことが記されている聖書を読んで祈っていたら、「被災地の東北で祈る者になりたい」という思いが湧いてきて、抑えることができなくなりました。

帰国して、東北で開かれた幕屋の集いに行きました。その時に出会った釜石の方々の姿に触れて、ここで働きたいと思いました。何の当てもなかったのに、思いがけず養護施設で働くために取得していた資格が役立って、私は釜石で仕事に就くことができたのです。

最初は、大きな仮設団地のサポートセンターに勤めました。赤ちゃんからお年寄りまでいる、和気あいあいとした、昔あった団地のような所だったんです。

でもそれが2年経ち、3年経つと、若くて生活力のある人たちは、家を建てたり、アパートを借りたり、内陸部に移ったりして、仮設団地を離れていかれます。だんだんと、そうでない人たちが、ぽつん、ぽつんと残されていきました。

4年前に、生活困窮者自立支援法という、生活保護に至る前の人たちの自立を支援する法律が全国に施行されました。私は社会福祉士として、その支援に携わることになりました。具体的には経済的な困窮などに対する支援ですが、対象になって私が出会った方には、人との関係を失っているケースが多くありました。

たとえば、ゴミ屋敷のような中で20年、30年引きこもっているような人たちに、何とか社会に出て、社会とつながってもらうという仕事です。まずドアをたたくことから始まりますが、どうにかしてその方たちに心を開いていただく、それが私の使命だと思いました。

仮設の退去期限

釜石の仮設住宅の退去期限が昨年度いっぱいでした。私にとってもこれが集大成だと、仕事に臨みました。

けれども、最後の最後まで仮設に残った人たちは、引き取る家族もいない、行く当てもない、お金もない。復興住宅に入ろうにも、被災をしていないので入れない人がたくさんいます。被災した親を介護するために他の町から戻ってきたけれど、親は亡くなり、その人自身は被災者ではない、というケースです。そうすると、被災者対象のサービスは全然受けられません。

そういう人たちに、どうやって仮設住宅から出て、次の生活を始めてもらうのか。その中には、精神を病んでいる方もたくさんおられます。

私はある方の家に3年通って、ようやくドアを開けてもらって、一緒に精神科の病院に行き、一緒に生活保護の手続きに行って、一緒に不動産屋も回り、やっとアパートを見つけました。その契約書ができて、サインをしてもらおうとその人の家に行ったら、玄関に「生きることを諦めました」と遺書があって、部屋の中で亡くなっておられました。

私は、立ち直れないようなショックを受けました。家やお金や、そういったものを整えることが被災地の人のためになると、精いっぱい仕事をしてきました。一体、自分はどうあったらいいのか、と思いました。

後ろに見える景色が

私の上司は被災して仮設住宅に住んでおられました。津波の被害がとても大きかった両石(りょういし)という所の方で、そこに新しく家を建てられたので、お宅を案内してくださいました。「8年間、長かった」、そうおっしゃいました。新しい家は、津波から守るために、元の地面から20メートルかさ上げしてできた宅地にあります。そこに、両石にいた人たちが帰ってきて住むのです。

以前、私はその上司に、「20メートルも地面が上がったら、風景も違うでしょう。そこを故郷と思えるんですか」と、とても失礼なことを言ってしまったんです。そうしたら、こう言われました、

「大津山君、そうじゃないんだよ。両石の人が2人、3人集まって話をする時に、その人の後ろに両石の風景が見えるんだよ」と。

私は、何もわかっていなかった。目に見える建物や環境、そういうものが満たされることが、私の目指すべき支援じゃない、そう知りました。

最後に仮設住宅に残った2人の方の行き先を、何とか決めることができて、私は昨年度いっぱいで釜石を離れることになりました。そして新年度から、東京の福祉事務所で、生活保護を受けている方たちの支援事業に携わっています。

先日、岩手出身の方が相談の窓口に来られました。「私もこの前まで岩手にいたんですよ」と言ったら、その方の表情がすごく明るくなったんです。きっと私の後ろに、岩手の風景が映ったんだな、と思いました。

支援の現場では、人の悲しみや苦しみ、抱えている心の闇に、私自身が押しつぶされそうになることがあります。しかしそんな時にこそ、目に見えている状況にではなく、もっと背後の世界、天にある光の世界に目を向けて歩むべきことを、私は教えられています。

一人ひとりの心にある故郷が、私の背後に見えるような人間でありたい。そして、魂の故郷というか、もっと深い世界につないでいく者でありたいと願います。

釜石では、数人の幕屋の方と共に、震災で亡くなられた方々のこと、そして被災地の復興を祈っていました。場所は変わっても、心の復興のために祈りつづけていきます。


本記事は、月刊誌『生命の光』799号 “Light of Life” に掲載されています。