聖書講話「神に聴き従う時に(前編)」使徒行伝5章12~32節

人生において、正しいことや、よりよき進歩、新しい前進をしようとすると、不可解な力が働き、抵抗を受けることがあります。イエス・キリストの弟子たちも、聖霊に満たされてキリストの復活を証しすると、旧(ふる)い宗教勢力から迫害され、投獄されました。そのような時に、私たちは何の声に従うのか。人の声でなく、神の声に聴き従う道を使徒行伝は教えています。 (編集部)

使徒行伝は、聖霊と悪霊との戦いであります。聖霊が働くところに悪霊も働く。私たちが神の霊に満たされて、神の手足のごとくなろうとすると、必ずこれを妨げる力も反動として起こってきます。それに対し、おとなしくしておれば何事もないでしょうが、動あるところに、必ず反動はあるものです。このように、現実の信仰がいかにあるべきかということを実例をもって教えてもらえるところに、使徒行伝を読む興味があります。

そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。……そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。

使徒行伝5章12~18節

イエス・キリストの弟子たちは素晴らしい働きをした。だが、このような素晴らしい業(わざ)に対しては、人間の間に妬(ねた)みが起きやすいものでして、名もないイエスの弟子たちが台頭してきますと、旧い勢力、宗教家たちは放っておけなくなり、弟子たちを牢(ろう)に入れました。

いずれの時代でも、進歩が起こる時には新旧2つの勢力が争い合います。新しく生き生きとして台頭してくる人々は、現状に甘んずることができず、時代を改造し、古びた思想を革新しようとする。そして革新できたところに進歩があり、進歩の喜びを味わえる。それに対して旧い勢力は必死になって現状を温存し、ずっと守りつづけようとします。現状のままで平和に過ごそうとする。平和はいいが、本当の平和でない平和は、私たちの魂を腐らせます。私たちの生活を、面白くもない陳腐なものにいつまでも縛りつけてしまいます。ここに、2つの考え方の違いというか、道徳観念の違いが出てきます。

その背後にあってこれを操るのは、キリストであり、また悪魔である。キリストはよりよき人間の幸福、進歩向上、また天の喜びを回復させようとされるのに対して、悪魔の勢力は人を滅ぼし、人を現状に固定し、やがて化石のようにして魂を殺してしまいます。死ぬか、生きるか。破滅か、生命か。これが問われるところに福音があります。

神の恩寵に勇気を得て

ところが夜、主の使いが獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。……(使徒たちが獄にいないと祭司長たちに報告があった後)そこへ、ある人がきて知らせた、「行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています」。そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。

使徒行伝5章19~27節

天使が使徒たちに、「宮の庭に立ち、この生命の言葉を漏れなく人々に語れ」と言って、彼らを牢から連れ出しました。弟子たちは、おのずとエルサレムの神殿の方に足が向きました。これが聖霊に導かれる経験です。天使に導かれる経験は、人間が頭で利害打算することとは違います。彼らは前日に捕まえられて牢獄にぶち込まれたんですから、常識があれば神の宮で同じことは繰り返すべきでありません。しかし、十二弟子こぞって、宮の庭に立って民衆を教えました。何か我ならぬ力が働かなければ、そういうことはできません。

また人間ですから、一瞬、不安にも思うでしょう。しかし、ひとたび神に救われ、天使の保護の中に導かれた経験というものが、この人たちを励ましたのです。

私たちも、何か非常に不吉なことがありましたら、過去における神のご恩寵(おんちょう)を思い返しますと、「そうだ! 過去において神様はお導きになったから、今度この問題についてもお導きになるに違いない」と勇気が出ます。

26節を読むと、神殿の守備隊長である宮守がしらが下役と共に使徒たちを連れてくるのに、最初は手錠でもかけるようにして捕縛しましたけれども、今度はそうではない。「手荒なことはせず」とあります。どうしてかというと、乱暴なことをしたら、民衆がいきり立って自分たちを石打ちにする危険があったからです。攻守ところを変えるといいますか、昨日まで捕らえられ引き立てられたような人々が、今度は逆に民衆の名声を博しました。これは、この事件の背後に神がいたもうからであります。

理解できないような不可解な事件が起きる時、天使もキリストも私たちに伴いたまいますから、 じっと目を据えて天の働きを見定め、 神の声を聴くことが大事です。どんな矛盾の中にあっても、キリストが勝ちたまい、神の義が現れるでしょう。

人の声でなく、神の声を

すると、大祭司が問うて言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである」

使徒行伝5章27~29節

議会(サンヘドリン)というのは、日本の衆議院のような議会ではありません。ユダヤの最高の自治機関で、司法裁判所、兼宗教裁判所、兼国会です。その中で、大祭司が尋問したという。大祭司はエルサレムの神殿で最高の身分の”管長さん”ですから、いちばん偉いんです。

その大祭司がまず言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか」と。「あの名」と言っているのは、「イエス」という言葉を使いたくないからです。あれほど厳しく何度も命じたのに、このイエスの名をエルサレムじゅういっぱいにしてしまった。どの人の口からも、「イエス」「イエス」「あの十字架にかかったイエスは素晴らしい神の人だった。救世主(メシア)ではなかったろうか」という噂でいっぱいになった。

これは何でしょうか。次々とその名によって奇跡が起きるからです。放っておけない。弟子たちをいじめて鎮圧しようとすればするほど、奇跡が起きてくる。大祭司がもうこの名を使わせまいと思いましても、人の口から口に伝わっていってしまう。

大祭司は、最高の宗教的、政治的権力をもっている人です。しかし、そのような人間としての最高の権威、権力すらも彼らには通用しない。どうしてか。もう1つの命令を、声を、キリストの弟子たちは聴くからであります。

真のクリスチャンは2つの声を聴く。1つはこの世の声、人々の声です。しかし、それ以上に神の声を聴く、キリストの御旨を聴く。ここに大祭司たちの理解しがたい点がある。

そして、イエスの名が上がるにつれて自分たちの名が下がる、ということを大祭司らは怒っているんですね。ですから逆に、「あなたがたは確かに、あの人(イエス)の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」(28節)と邪推したわけです。

これに対してペテロをはじめ使徒たちは、「人間に従うよりは、神に従うべきである」と答えました。この裁判には、大祭司や多くのサンヘドリンの長老たち、偉い人たちが集まっていますから、最も権威があり、一度決まりましたらどうにも覆すことができません。そのような裁判にペテロたちは引き立てられました。

普通でしたら、殺されるかもしれないと思えば、「赦(ゆる)してほしい」という言葉が先に出るものですね。または、「今後は少し注意してやりますから、ここはどうぞ勘弁してください」と妥協すべきところですが、しかし彼らは徹底的に突っぱねてしまいます。

かえって「あなたがたは人間として最高に偉いかもしれないけれども、もっと偉いものがある。それは神である。神に従うべきである」と言いますから、これでは赦されるどころか、むしろ命も危なくなります。人は「もっと上手にやったらいいじゃないか」と思うかもしれません。しかし、ここに信仰の知恵があります。危なっかしく見える歩き方でも、神に聴いて歩むことを貫き通すと、結果的には別な答えが出てきます。

東側よりエルサレム旧市街を望む

死を突き破って生きるキリスト

「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」

使徒行伝5章30~32節

「木にかける」は申命記21章23節の言葉で、元来、十字架にかけて殺すことではありません。罪を犯して殺されて木の上に曝(さら)しものにされた者は、その日のうちに土に埋めてしまわねばならないという律法の規定がありました。「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」という聖句は、ユダヤ人ならよく知っている、曝しものに対して使う言葉です。とにかく十字架も、呪(のろ)いの木にかけられたという点においては同じですので、この言葉を引用して、「このようなイエスを神様はよみがえらせた」とペテロは断言しています。あなたがたは、イエスが「神に呪われている」と言うけれども、神はイエスをよみがえらせた。今もイエス・キリストが生きている証拠に、不思議なことが起きる、と。

ですから、私たちの信仰とは何か。十字架にかかって死んでしまったイエスを伝えることが福音ではありません。死んだはずなのに今も生きておられるキリスト、このキリストを伝えることにあります。死んだ者がよみがえるということは、信じられません。しかし、そのようなことが起こるところに、またそのような御霊の働きがあるところに福音があります。

イエスは十字架にかけられて後、ずいぶん何度も、ご自分の身体(からだ)をもってよみがえっていることを現されました。しかしそれだけならば、一つの奇跡というだけです。ところが、ここにペテロは「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」(32節)と言っている。

ペテロたちはただイエスがよみがえったという単なる奇跡を証ししているのではない。「その生き証人が私たちである」と言って、いかに鮮やかにキリストが生きているかを知るためには、自分たちを見たらよくわかると示したのです。キリストが生きているのでなければ、とてもこんな不思議なことはできないと思わせるような人たちが出てきた、というのです。ほんとうにそうでした。牢に入れられても、いつの間にか出てきて伝道している。

イエス・キリストは復活された。よみがえって今も生きていたもうキリスト、Living Christ(リヴィング クライスト)を伝えるところに初代教会の信仰がありました。カトリック教会にでも行くと、イエスが十字架にかかって苦しんでいる血なまぐさい絵がかかっていますが、そういうイエスを信じたのではありませんでした。そのような十字架を突破して復活し、今も生きておられるキリスト。この働いてやまないキリストを信じるのが、初代教会の信仰でした。

悔い改めと罪の赦しは同時に

このイエスがよみがえられたのには、どういう意味があるのか。31節を読みますと、1つにはイスラエルの人々が自分たちの誤った信仰や、宗教観念を”悔い改めるため”であり、もう1つは、”罪の赦しが与えられるため”である、というんです。そして、そのためにイエスを「ご自身の右に上げられたのである」。ここの「右に」は、ギリシア語原文では「右手で」という意味です。神様の右手で、すなわち力をもって天上に引き上げられた。そして、その昇天されたキリストがいつでも、生きて地上界に、人間に影響を与えておられるというんです。それは何のためかというと、イスラエルのためだという。

イスラエルといえば神の民のことですが、私たちでいうならクリスチャンです。普通、クリスチャンになったらもう悔い改めなくてもいい、と思うかもしれませんが、そうじゃありません。神の民といえども、間違った信仰は悔い改めなければなりません。

「悔い改め」といっても、教会では大概こう説きます。まずいろいろの理屈をつけて神の存在を証明する。神が存在するということがわかったならば、次は「あなたがたは神に背いて生きている。罪を悔い改めなさい」と教える。そして「悔い改めます」と言うと、今度は「あなたの罪は十字架のおかげで赦される。それを信じなさい」と言う。

ところが31節をギリシア語原文で読むと、そうは書いていません。「悔い改めと罪の赦しを与えた」と書いてあるように、この2つは同時です。順を追って、「悔い改め」の次に「罪の赦し」ではありません。罪が赦されるというか、「自分は真っ暗な状況だ」と思っている者が急に神の光に入れられると、「ああ、自分は間違っていたなあ。ああ、わかった」と言って恵まれて、悔い改めが起こる。同時に起きるんです。同時に与えられるんです。その時、その信仰は健全です。

昨日、滋賀県・堅田(かたた)教会牧師の財津正彌(まさや)君が、「私は教会の牧師をしながらも、聖書とはかけ離れた無力な信仰で、もう苦しくて罪に呻(うめ)いてたまらなかった。ところが義理の妹が奇跡をもっていやされた。骨脆弱症(こつぜいじゃくしょう)で16年間、立つことも歩くこともできなかったのが、目の前で立っただけじゃない、歩きだした。それには驚いた。しかし、その奇跡によるだけでは、全き救いに至りえませんでした」と話されました。

神様は生きているなあ、とはわかったでしょうが、それだけでは駄目ですね。その後、比叡山(ひえいざん)での一晩の集会で、財津牧師は聖霊に満たされて回心(コンバージョン)して、すっかり信仰が変わっておしまいになった。その時のことを、「ほんとうに私は罪が赦された。そうしたら、今まで信じていたキリスト教は間違っていた! と悔い改めた」とおっしゃった。

これが本当です。大きな生命に浴した感激に、「今までの自分は愚かだった」と思って悔い改める。同時に起きるんです。これは、今のキリスト教の伝道のしかたと違います。神の大きな生命の海に浸される経験が、自分を変えるんです、悔い改めせしめるんです。

運命の縄目を断ち切るもの

罪が赦されるというのは、罪の中にいて「赦された」と思うこととは違うんです。監獄の中にいて「私は罪が赦されている」と思っても、ちっともうれしくありません。その監獄から解放されるように赦されてみると、今までなんと自分はがんじがらめに、悪魔の罪に毒されていたかということにハッと気がつきます。それを「罪の赦し」といいます。

縛り上げられて人間にはどうにもできない、その罪の縄目を切って落とすのがキリストです。こういう力に触れなければ本当の救いを得ません。「赦し αφεσις アフェシス」というギリシア語は、「解放、釈放、罪から放免すること」という意味です。すなわち生けるキリストが私たちに臨在したもう時に、悪魔の毒というか、罪から真に解放されます。

今のクリスチャンは、人間が罪深いものだと思っている。人間が罪を犯すと思っている。もちろんそう思うのが当たり前でしょうが、しかし罪を犯させるものがある。それは、悪魔(サタン)という見えない霊的実在です。こいつをたたいて弱めなければ、サタンはいつまでも頑張ってその人を虜(とりこ)にします。不運続きの嫌な運命の呪いの中に閉じ込める。

しかしキリストは、この悪魔の頭をたたき割ってでも私たちを救いたもうものである、というのが初代教会の信仰でした。悪魔よりも大きな力、私たちの運命を操っているものよりも、もっと大きな尊い力に出合わなければ、私たちは救われない。このことをペテロは説いております。

聖霊に満たされると、「ああ、自分は愚かだったなあ」という気持ちと同時に、もう1つは、「ほんとうに罪から赦されたなあ」という、うれしい気持ちが一緒にわいてきますね。これが定着しましたら、私たちの信仰は本物になります。

それで使徒たちは、「私たちはそのことの証人です」と言うんです。また、神に従う者に与えられる聖霊もその証人であって、自分だけではありません。もう一つ、神に聴いて生きる者には聖霊が与えられる。どうして自分は聖霊が十分に与えられないのだろうか、また与えられてもすぐ蒸発するのだろうかというと、神に聴き従って生きないからです。たとえそれが十字架の道であっても、覚悟して生きはじめると聖霊は働きます。超自然的な聖霊がいろいろ教え導き、奇跡を起こして働きます。そして、私たちの信仰が正しいということを教えてくださる。かくして、まことにイエスが導き手であり、救い主であることがわかります。私たちの先頭に立って、イエス・キリストが導いておられるのです。私たちの牧者はキリストであります。

こういうことをペテロが語ったという。裁判に立たされて、逆にペテロは所信を堂々と語りました。どちらが裁判官かわかりません。よほど見えない力が私たちに働いていないと、これはやろうとしてもできませんね。(次回に続く)

(1970年)


本記事は、月刊誌『生命の光』882号 “Light of Life” に掲載されています。

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