聖書講話「愛の共同体 ―初代教会の信仰生活(前編)―」使徒行伝4章23~33節

聖霊を受けたイエス・キリストの弟子たちは、今も生きて働かれるキリストを大胆に証しして、奇跡的な業(わざ)を行ないました。すると、信じた人々による、それまでにない集団ができました。これが初代教会です。すべての持ち物を分け合うという、初代教会の愛に根ざした生活は、使徒行伝につぶさに描かれています。今回は、そのようすを4章23節以下から学びます。(編集部)

私たちにとって信仰のいちばん大事なポイントは、聖霊に満たされる、聖霊にバプテスマされる(浸される)ということであります。しかし、少し聖霊に触れる、聖霊を経験した、という程度のことはありましても、聖霊に”満たされる”というほどに、なかなかゆきません。

ここに私たちは、地上にあってこの世の勢力に負けないためには、どうしても神の力、神の御霊にほんとうに満たされるまでにならねばならぬと思います。

使徒行伝4章でペテロとヨハネは、当時の宗教や社会を牛耳っていた人々の前に引き出されましたけれども、おめず臆(おく)せず口をそろえて「キリスト・イエスが救世主(メシア)である、生きておられる」と証ししました。今も御名を呼べばその霊が働いて地上に不思議なことが行なわれる、と証ししたところ、イエスの名によって語ることを禁ぜられた。しかし彼らは、何と言われようが、イエスの御名を高らかに叫ばずにはおれませんでした。

ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕(しもべ)ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、
  『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか』
まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」
彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

使徒行伝4章23~31節

どうしたら聖霊にバプテスマされるのか。ほんとうに満たされて強い信仰に立てるのか。ここに「(一同は)口をそろえて、神にむかい声をあげて言った」というのですから、みんなが祈っていたということがわかります。私たちにとって信仰生活にいちばん大事なことは「祈る」ということです。祈りが欠けてきますと、どうしても力が失せてまいります。

弟子たちは、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ」と言って、神に向かって呼びかけました。神ほど強きものはありません。

4章29節に「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ」とありますが、私たちの信仰生活にとって、外側から脅迫、圧迫、恐喝というものがある時に、これは神の恵みだと思って喜ばねばなりません。だれでも、嫌がらせ、脅迫、恐喝は嫌です。しかし、これを信仰をもって受け取る気になれば、私たちに大いなる益があります。

実際に私たちの信仰を非難し、脅迫する人たちがいます。けれども、そのような圧迫によって私たちはかえって力を与えられます。それによって力を生んでゆくことができます。それはどうしてか? 神にいよいよ頼ろうと、神に追い込まれるからです。祈りに追い込まれるからです。

どうぞ、いろいろ難しい社会生活の問題があります時に、心から祈りとうございます。祈る時に、キリストの御霊、聖なる霊は働いてくださいます。

われらの生きる目的

また大事なことは、何のために生きるかということです。私たちが自分自身のために生きる時には、非常に力が弱いです。初代教会の人たちの信仰は、自分のために信仰しているというよりも、もっと違ったものでした。

「なぜ、異邦人ら(神なき人々)は、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主(エホバ)とそのキリスト(神に油注がれた者である救世主〔メシア〕のこと)とに逆らったのか」(4章25~26節)と、ダビデの言葉を引用しております。私たちは主とそのキリスト、この幕屋に逆らう勢力がありましたら、断固戦わねばなりません。これと妥協すべきでない。これが、初代教会の信仰でありました。

現代は非常に個人主義的な時代でありまして、多くの人が自分本意です。自分本意の時に、自分を見つめると弱いし、自分だけになりますと、どうしても孤独を感じます。しかし、人間にとって大事なことは、”生きる目的”、”生きる意味”です。多くの人々が、わけても若い青年男女は、生きる意味を失っております。

ある立派な家庭に育った青年のことです。一時は幕屋に喜んで来ていたのに、大学に入ると、この世の風潮が神なき退廃的(デカダン)なものですから、周囲の皆が「何だ、信仰なんか! そんなものは老人の寝言だ」と言うと、自分もそう思い、ついに信仰を失いました。信仰を失うことは、生きる意味を失うことです。せっかく大学に入っても、自分の人生の意義を、自分の存在理由を見いだせず、参ってしまいます。

しかし私たちは、”主とそのキリスト、そのメシアの世界のために生きるのである”。神の御国の一員とされ、神の御国のために生きる時に、ほんとうに生きがいがあります。

神が私たちの一群を日本に起こし、神がこうやって集め、不思議な御手が私たちを導きつつある以上、神が必ず私たちを全うしてくださる。いろいろな紆余曲折、困難はあっても、困難を排除して、神の霊が、神の力が働いてくださる。そのことが信ぜられる時に、私たちはほんとうに生きがいがあり、また突破しようという勇気がわいてまいります。

「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい」(4章29節)と、ペテロやヨハネたちは祈っています。人々が聞く耳をもたずとも、はっきりと主張すべきことを主張しなければなりません。しかも、自分のためではない。主とそのキリストとに逆らう者たちに対して、脅迫に負けないということが大切です。

野に咲くアネモネの花(イスラエル)

神の御手によるいやしを

私たちの祈りはそれだけではいけません。もう一つ大切な祈りがあります。

「そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」(4章30節)

これは初代教会の祈りですね。どうか神様、御手を伸ばして、病める人をいやしてあげてください、と祈っている。病気の人のために手を按(お)いて祈るが、これは人間が按手(あんしゅ)するのではありません。もし自分が按手するならば、神の御手が、キリストの手がその上に乗っている、ということです。キリストが御手を伸ばしてくださる。ただその象徴的な行動として按手するのであって、「私の按手で治った」などと言う人がいるならばイカサマですね。いつも自分は神の手先か神の道具、器でしかないという自覚が大切です。

神の霊が働く時に、こんな卑しい者をも祝したもう。自分自身を見ると、つまらない男や女であってもよいんです。神が用いたもうことが光栄なんです。

どうか、キリストよ、御手を伸ばして、傷ついている人、病んでいる人をいやしてあげてください。それをはばむものがあったならば、私はそれに抵抗します。

そして聖なるイエスの名によって、しるしと奇跡とを行なわせてください! 「奇跡の信仰なんかよくない」と、今の教会クリスチャンは言います。しかし、私たちは原始福音ですから、あえてこういう祈りを祈りたい。これは、初代教会の祈りのサンプル(見本)を書いてあるのですから、私たちも同様に祈りとうございます。

このような祈りがささげられた時に、一同が集まっている場所が揺れ動いた。それは地震が起きたのか、霊的にブルブル震ったのかわかりませんけれども、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語ったといいます。聖霊に満たされた時に語るその言葉は、普通の言葉ではなかったでしょう。預言的な、異言的な(注1)、霊感的な言葉を語ったのです。

(注1)預言、異言

聖書における預言は、神の言葉を人間が代理として語ること。異言は、人が神の霊に満たされた時に語る神秘な言葉のこと。

心も精神も一つになって

信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。

使徒行伝4章32節

聖霊に満たされると、皆の心と精神(口語訳の「思い」は原文では「ψυχη プシュケー 魂、精神」)が一つになっただけでなく、所有する財産まで皆が一つにしたというんです。なかなかこういうことはできません。人間は所有欲が強いので、握った物をなかなか放したがらないものですけれども、所有する財産もみんな持ってきて分かち合ったという。

初代教会では共産主義的な生活をしていたといわれるのは、このような箇所からですが、大きな目的のために生き狂いしはじめますと、もう物質というものは小さな価値しかもたなくなります。深く祈って、魂が高揚して高い天に上げられる心地がした後は、外側は貧しくとも「ああ、自分はなんと幸福であろう」と思って物質の乏しさは感じません。また、財産をもっていても、あるいはそれを失ったとしても、それらは小さなことになります。

あまりに高い所に上りますと、大都会の建物も、走っている自動車も、オモチャのように小さく見えますが、それと同じです。祈りの翼に乗せられて、私たちが神の御前に上るような経験をしますと、実に地上の物が小さく見えます。地上の物質界が色あせて薄く感ぜられます。それで持ち物を皆で持ち合い、分け合おうという精神がわく。これは、聖霊に満たされて祈るということなくして起きません。

今から17~18年前、熊本での幕屋の草創期は、ほんとうに初代教会の群れのような共同生活でした。みんながお互いに乏しい物を持ち寄り、出し合って生きていました。分け合えることが喜びでした。皆、貧乏な人ばかりです。東京の清瀬療養所などから肺を病んで住む所もなく、何も持たずに来ていた人たちでしたが、実に心豊かに生きておりました。野の草を摘み、芹(せり)を摘み、山芋を掘って生きていました。

山芋といえば当時はご馳走のほうですが、思い出すことがあります。

私の誕生日にW君という人を食事に呼びましたが、いつまでたっても来ません。やっと夜も8時か9時ごろになって来たので、彼をとがめました。

「何でぼくが待っているのに来ないか。君だけこうやってご馳走に呼んでいるのに」と言いましたら、「ハイ、ちょっと時間がかかりました」と言う。

彼は近くの薮(やぶ)に行き、私にくれるために山芋を掘っていた。自然に生えている山芋を掘るというのはなかなか難しいことでして、すぐ途中で折れてしまうものです。それを苦心して掘って持ってきてくれたのでした。その時に、私の小さな了見だけでとがめて、ほんとうにすまなかったなあと思いました。「W君、ほんとにすまん。そんなにしてくれなくてもよかったのに」と言って、謝ったことでした。

東京にある彼の実家は、お金も十分あるんです。しかし、「物質的な家庭にいたら息が詰まる」と言って、精神的放浪をして熊本まで来ておりました。

大きな目的があれば

今はもう、物質的に豊かな時代ですから、あのころのように分け合って生きるということは、そう必要ありませんけれども、昔は戦後のことで、何も物資のない時でした。しかも多くは肺病上がりの人たちですから、満足に働くこともできない。それですのに、みんながそんな生活をしながら輝いた顔をしていました。

何がああいうことをさせたのだろうか。聖霊に満たされる喜びがなかったら、こんなことをしないだろうと思います。家を捨て、職業を捨て、家族から憎まれて、やって来られた人たちがたくさんいた。そして、愛し合い、慰め合って生きておりました。尊い人たちだったなあと、しみじみ思います。

だが、これはまた、大きな目的をもつ場合にできるように思います。

10年ほど前にイスラエルに行った時、キブツという共産主義的な農業共同体に滞在しました。そこでは、男も女も働き、子供も共同で育て、財産も共有していました。食べ物も豊かで、みな分け合って生活していました。私はエライ所だと思って感心しました。

でも、同様に日本でやろうとしても、今のような豊かな時代にはできませんね。イスラエルは、迫害され、世界各地から無一物でたどり着いた人たちが多かった。アラブ人から荒れ地や沼地を買い、人が住めない所を開拓したんです。男も女も働かなければ食えないから皆が共同で子供を育て、持ち物も共有した。非常な窮迫した状況が彼らを共産主義生活に追い込んだのです。また、祖国を再建するという大きな目的があったからです。

信じた群れが、みんなハートを一つにし、精神を一つにし、また所有する物質もみんな一つにして生きた。これは、聖霊に満たされた時にほんとうにわく愛ですね。聖霊をもたない肉親よりも霊の兄弟に、よほどお互いが引き合ってくる。これは、皆さんが同様に経験していることです。なぜこう愛がわくのだろうと思って、疑いたいくらいの事実です。

初代教会がそれだったんです。ただ「愛、愛」といって、普通の愛だけで、これはできたのではないと思います。また、やろうとしてもやれるものではないですね。

己が十字架される時に

使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。

使徒行伝4章33節

原文では、使徒たちは「主イエスの復活の証し」を非常に力強くしていたというのです。「今もキリストは生きている」と言って証ししていました。私たちと同じ信仰です。

「今もあのナザレのイエスは、キリストは生きて、御名を呼べばこたえるように働いてくださる!」というポイントを中心にして、力強く伝道していた。それが「イエスが十字架にかかられたから救われた」と言うだけにとどまっている今のキリスト教の信仰と、もう一歩進めた原始福音――復活の信仰との違いです。

「復活」というのは、キリストが奇跡的によみがえったという理屈を信ずることでありません。キリストは今も生きて働かれるということが「復活の信仰」であります。

この復活のキリストを力強く証ししますと、どうなるか。証ししつつあると、「大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた」とあります。「注ぐ」という字はなく、原文は「大きな恵みがすべての者の上にあった」というのです。復活のキリスト、霊なるキリストが生きておられるがゆえにこんなに恵まれた、といって乏しい中にもいろいろな恵みを得ました。

聖霊に満たされますと、私たちは今までの行きがかりや党派心、教派心といったものがすっかり除かれて、一つになりえます。初代教会の人たちは、心と魂を一つにするばかりでない、物まで一つにして一緒に生きてゆこうとしました。

どうしたら一つに一致して生きられるだろうか。もう一つ考えてみると、私たちが対立するのは「我(が)」があるからです。「自分」があるから、「自分」を主張する時に対立します。

しかし、自分が失われる時に、十字架される時に、大死一番(注2)した時に、自分がないんですから、どんな困難にも耐えることができ、また皆と一つになって生きてゆくことができます。私たちにとって重要なことは、ほんとうに己を十字架して、己に死んで生きることです。(次回に続く)

(1970年)

(注2)大死一番

仏教用語で、自分の欲望や執着を捨て、仏の道に精進すること。手島郁郎は、神の子である真の姿を発見するため旧(ふる)い自分を捨てる、という意味で用いている。


本記事は、月刊誌『生命の光』878号 “Light of Life” に掲載されています。

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