聖書講話「圧迫に打ち勝つ生命」使徒行伝4章13~21節

イエス・キリストの弟子たちは、奇跡的な業(わざ)によってキリストが今も生きて働かれることを証ししました。すると、当時の宗教家たちはそれを問題視し、彼らを迫害しました。だが、そんな迫害をもはねのけて、彼らは福音を伝えてゆきました。
私たちの人生にも周囲から圧迫される時があります。しかし、旺盛(おうせい)な生命でそれをはね返してゆく道を、使徒行伝に学んでまいります。(編集部)

今日読む箇所は、イエス・キリストの弟子のペテロとヨハネが、エルサレムの神殿の前で乞食をしていた足の利かない男に向かい、「ナザレ人イエス・キリストの名によりて立ちて歩め」と命ずると、立ちどころに歩きはじめた、という話の続きです。

神の力の働くところ、こういう現象はよく起きるものです。でも信ずる心の鈍い人には、このような奇跡を見ても、またどれだけ言って聞かせても、信仰は起きませんね。

ペテロが足のなえた男を立たせたこの事件は、祭司や律法学者たち、ユダヤ教の社会に一大波紋をひき起こしました。いやしが行なわれて喜ぶべきはずなのに、かえって反発を買ったのです。それで宗教議会(サンヘドリン)が開かれ、2人は尋問されました、「どうしてこういうことが起きたのか、その秘密を言え」と。それに対してペテロは、「これは、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神がよみがえらせたイエス・キリストの御名を信ずる信仰によったのである」と答えました。

イエスの名を呼べば、今でもキリストの霊はガッと発動してくる。発動しないのは、ただの空念仏の祈りに終わっているからです。クリスチャンが「イエス様、イエス様」と口ではよく言いますが、そんな安易な祈りには神はちっともこたえたりされません。使徒行伝が言っているのは、イエスの名は、呼べばほんとうにこたえ、不思議を行なうことができるということです。その名には、人間にはわからない”何かが”あることを示したのであります。

無学なガリラヤの漁師でしかなかったペテロとヨハネの2人が、大祭司のような宗教の最高権威をもつ者たちの前に引き出されたが、「イエス・キリストは死んではいない。呼べばこたえるように、この足のなえた男を生かしたのだ」と堂々と言ってのけた。どうしてか。事実は議論より強いからです。事実というものが信仰にはいちばん大事です。私たちは空理空論の信仰をもちたくありません。

今は科学的な時代であり、人間の経験で試された事実が信ぜられる時代です。使徒行伝に書かれている原始福音は、科学的な、人間による実験に堪(た)えうる信仰です。人間の実験に堪ええない信仰は、信仰ではありません。どれだけ叫んでも、信じて祈っても何も反応がないならば、その人には神はいない、神は働かないのです。本当の信仰はそうでない。イエスの御名は今も生きて働く。この事実の上に立脚した信仰は強くあります。

イエス・キリストを焦点として

どうしたらそのような信仰を打ち立て、またひき起こすことができるか。4章8節には、「その時、ペテロが聖霊に満たされて言った」と書いてあります。聖霊は、どういう時にあふれるように満ちてくるでしょうか。それは、迫害に遭ったり、苦しんだり、貧乏したり、人から悪(あ)しざまに言われたり、失敗したような時です。だがそれは、ただ病気や迫害、人生の苦難の時だからなのかというと、そうではありません。そのような危急存亡の時には、必死になってイエスの御名を呼ぶから、聖霊がフッとやって来るんです。

苦しい嫌なことがありましたら、私たちは”神の霊を呼ぶ”ことが必要です。神の名を呼んで強められる、助けられ導かれる生活を繰り広げることが大事です。聖霊は架空なものでありませんから、必ず事実となって顕(あらわ)れてきます。ペテロとヨハネの尋問の時も、聖霊に満たされておりますから、彼らの言うことには堂々とした権威がありました。当時の最高の宗教家たちに真っ向から立ち向かって負けませんでした。

私たちは自分の信仰を、神学によって反省する必要はありません。聖書によって確かめることが大事です。聖書が裏打ちしていることが非常な強みです。なぜかというと、聖書は神の霊が書かせた書であり、神の霊がいかに人類に働いたかの事実の記録だからです。

4章11節を見ると、ペテロは「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」と言って、この御言葉がここに成就したんだ。これを見よ! と、詩篇118篇の言葉を引用して聖書で自分の信仰を確かめております。聖書によって確かめられ、事実に根ざして生きる信仰、これが原始福音です。

ペテロは大祭司たちの質問に答えましたが、彼らは悔い改めません。今再び、旧約聖書時代のモーセや預言者エリヤ、エリシャ、ダビデ大王らの時に現れたような、神の御霊の躍如たる働きがなされているのですから、この事実を見て神に帰るかと思うが、帰りません。そのような不信な人々の中にあって、ペテロは堂々とキリストの御名を証ししました。

私たちは聖霊に満たされていると、聖霊の器であったイエスの名を呼びはじめます。しかし、聖霊の臨在が衰えだすと、「神様、神様」とは言っても、イエス・キリストの名をあまり言わなくなります。人の信仰状態が、この点を見るとよくわかります。

初代教会の信仰は、イエス・キリストを中心にした信仰でした。「神」といってもあまりに大きな漠然とした名ですから、一人ひとり神観念が違います。それで、具体的にどこに焦点が絞られ、神という存在が私たちに見えるのかということが問題です。原始福音においては、イエス・キリストに焦点(フォーカス)が濃ゆく結んでいる。イエス・キリストこそは、神の顕(あらわ)れでした。この方を見れば神を見ることができる。

キリストは言われた、「わたしを見た者は、父なる神を見たのである」と(ヨハネ福音書14章)。神の光が、イエス・キリストの人格という焦点に集中していたのです。

ですから、私たちは聖霊に満たされる時に、あのイエス・キリストに宿り、今も働いておられる御霊を指して、その御名を呼ぶのであります。

古代の石造りの会堂(イスラエル北部)

圧迫されるほど、はびこる生命

人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互いに協議をつづけて言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。

使徒行伝4章13~18節

宗教的に素養のない一般人であるペテロとヨハネが、大祭司など最高の宗教家たちを前にして、何はばかることなく語った。このように堂々として宗教家に立ち向かうだけの権威を、どうして彼らはもったのだろうか。これは聖霊が与える権威です。私たちにとって必要なのは、キリストの聖霊を内に宿して導かれる生涯を繰り広げることです。

このペテロたちに対して、ユダヤ人たちは何も言い返せなかった。足のなえた男がいえたのは事実だからです。目の前で起きている事実を曲げて、否定することはできません。

このことのために一晩、ペテロとヨハネは牢(ろう)に入れられました。牢に入れられるというのは、ほんとうにつらいことです。皆さんは牢に入った経験がないでしょうが、私は戦時中に投獄されたことがあります(※注)。しかもそれは、いつ殺されるかわからないような、恐ろしい状況でした。人間というものは、体を縛られ監禁されて、いつ殺されるかわからないという状況になりますと、ずいぶん心が弱るものです。それで、体を縛ってしまえば心まで縛れるかのように思うけれども、ペテロやヨハネをおどかすことはできませんでした。

大祭司たちは、投獄し体を縛りますが、縛れば縛るほど大胆にペテロたちは語りました。それで、何を言いだすかわかりませんから、退場を命じたというのです。

4章17節に「これ以上このことが民衆の間に”ひろまらないように”」とありますが、この「ひろまる διανεμω ディアネモー」というギリシア語は、「分布する、はびこる」という意味です。「憎まれっ子、世にはばかる、はびこる」と俗に申しますが、「殖(ふ)え広がる」ということです。

たとえば、麦畑に大豆が芽を出しますと、「蒔(ま)きもしないのに、はびこってくるから困る」と言います。しかし、それは人間の立場から見てそう言うのでして、命あるものは殖え広がろう、殖え広がろうとするものです。はびこるのは生命力の問題でして、はびこるやつは抜いても抜いても、はびこってきます。これは生命力の広がりですから、致し方ありません。それでも人間に都合の悪いものがだんだん芽を出してくると、やはり嫌われる。

すべて命あるものは、自分の芽を出してきます。ここは麦畑だから遠慮しておこう、というようなことを豆がしだしたら、豆族は絶滅してしまいます。

いつの世にも、そのようなことが起きてきます。

ユダヤ教の中にキリスト教が発生しますと、「全く憎らしいものが生まれてきた」と言って、人々は嫌がった。そして摘み取ろうとする。しかし、当時の堕落したユダヤ教の中に何も新しいことが現れなかったら、その宗教は自滅していたでしょう。

これは私たちに対しても当てはまることです。「もう今はキリスト教会も平和だ。そんな”原始福音”などと、特別に言わないでいいじゃないか」と言われます。イエスが嘗(な)められたのと同じ批評を受けさせられます。しかし、放っておいたらどうでしょうか。堕落、腐敗、争いばかりがいよいよ起きてしまいます。

ここに、人間はどう思うか知りませんが、神様は逆に、堕落しているものの中に、あるものを植えつけ、はびこらせて競わせようとされる。そして生命の強いものがついに勝ちます。弾圧されても弾圧されても、聖霊に満たされた初代教会は負けませんでした。周囲が圧迫すればするほど、はびこってゆくのが、生物の一つの特徴です。最も生きるに困難な環境の中でこそ、寒さにも暑さにも耐えるような新品種ができてきます。

(※注)手島郁郎は日中戦争当時、特務機関の経済班長として現地で活動していたが、中国民衆の窮状を思って軍の方針に反したため、投獄された。

聖霊の人を待ち構える運命

ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。

使徒行伝4章19~21節

ペテロとヨハネは決して負けません。強い生命は、このように大多数を押し切っても、いよいよ、はびこってゆくんです。ですから私たちは、もっと信仰を強めて、はびこってゆかねばなりません。この世の大方のキリスト教は何であれ、私たちはキリストの新品種として、はびこってゆくことが大切です。これをせしめるものは聖霊の満たしです。聖霊に満たされると、それができる。

聖霊には聖霊の法則があります。聖霊が花咲きます時に、この世の人々は「自分たちは麦を植えようと思うのに、豆が出てくるとはけしからん」と言って、神の種子の芽を摘もうとします。そして、大勢に順応させようとする。しかしながら神様は、ご自分の教会が、神の国が腐敗し、堕落している時に、いつも新しいことをなさいます。聖霊に満たされた一群が発生することによって、神の歴史はまた息吹き返してゆきます。

このような聖霊の人には、受けねばならぬ十字架があります。

咲かざれば櫻を人の折らましやさくらの仇(あた)はさくらなりけり

古歌

この歌のとおり、人間は真骨頂を発揮した後、必ずいじめられます。立派になったばかりにいじめられる。イエス・キリストがそうです。ソクラテスがそうです。ソクラテスは、「自分が無知であることを知れ」と言って、当時の人々の目を覚まそうとしました。普通の人間であろうとせずに一頭地を抜いた者になると、必ず寄ってたかっていじめられます。

キリスト教徒として、キリスト教の真骨頂、真面目(しんめんぼく)を発揮する時に、平均的クリスチャンがいじめにかかってきます。自分が周囲からいじめられる時に、それは決して自分がつまらないからではありません、立派だからです。聖霊を受けた途端に迫害が起きてくるのは、生命の必然であり、運命なのです。聖霊を受けた者は、この世的キリスト教の社会から締め出されてしまいます。生命というのはそのような反応をもつものであり、ここに、ほんとうにキリストの生命を受けた弟子とそうでない者とが、はっきり分かれてきます。

生命力の強い者は勝利する

浦和の教会の牧師をしていた阿部孝君は、原始福音の信仰を取り入れたということで、彼の属していた教団からずいぶん不法な弾圧を受けました。6年前、勝手に阿部君を免職にし、代わりの牧師を任命して、彼の教会を乗っ取ろうとした事件がありました。

そのために裁判になり、阿部君はさんざん苦しまれました。彼は人がいいですから、「もう大概にしときましょう」と言われるが、「なあに、遠慮することがあるものか。不法者に負けることが、決してクリスチャンの道ではない」と言って、クリスチャンでも私のような男なら、どこまででもはびこってゆくほうですからね、負けないんです。

そのような試みに遭うと、だれしも心揺らぎ、不安になります。不安になれば、信仰も風前の灯(ともしび)のようにならぬでもありません。そのたびに私は阿部君を励まして、「ナニ! 負けるな」と言ったものです。結局、会堂建設のために教団本部から拠出された金だけは返す、ということになり、事無く済みました。また阿部君の牧師の職についても、「免職にしたのは無効である」ということで、はっきり決着しました。

長くかかりましたが、神様はこういう試みを通して真実を教えられる。背後にちゃんと見ておられる方、背後に立つキリストがおられたのです。キリストは霊ですから目にこそ見えないけれども、霊が保護しておられる時にちっとも恐れることはありません。不思議な御手が働いて、悪人たちが計画したことは全部、水泡に帰しました。使徒行伝の続きが今なお私たちの仲間にこうして続いているのを見て、私は神の御名を賛美します。

聖霊に満たされるということが起きると、「おまえたちがはびこると、自分たちに都合が悪い」と言って必ずいじめ、手折(たお)ろうとする人たちがおります。

なぜ神は聖霊の一群をはびこらせなさるのかと思うが、背後には神様の大きな立場があるのです。駄目になろうとする聖書の宗教という畑を、もう一ぺん新たにするため、新品種をはびこらせなさる。人々はこの新品種を憎むかもしれませんが、これは神の摂理です。

使徒行伝を読むと、全く「憎まれっ子、世にはびこる」という感じを受けます。はびこってゆこうとする時、弾圧、迫害、苦しみ、投獄などは付きものですが、聖霊に満たされて生命力が強い者は、ついに負けないで勝ちます。

その時、悪しざまに言われます。イエス・キリストがそうでした。十字架にかけられ、悪人呼ばわりされました。しかし今では、イエス・キリストは全世界が仰ぐ人になられた。歴史は、当時、悪しざまに言った者が間違いであったことを証ししてくれます。ですから、どうぞイエス・キリストの御名を呼んでください。あのイエスに宿った聖霊がいよいよ私たちにも与えられ、躍如として内に外に働いてくださるよう願わずにおれません。

世の流れに抗して

昔、『船頭小唄』という一つの歌が、日本じゅうにはやったことがあります。

 おれは河原の枯れすすき 同じおまえも枯れすすき
  どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき
 死ぬも生きるもねえおまえ 水の流れになに変わろ
  おれもおまえも利根川(とねがわ)の 船の船頭で暮らそうよ

この世の都合、流れのまにまに流れてゆこうよといって、膝(ひざ)を抱えて無力感をかみしめている人々の姿をうたったのが、この歌です。

しかし、こんな心荒(すさ)んだ退廃的な歌が全国にはやった時、当時の心ある人々は、「こんな歌がはやったら、日本はもう駄目だ。何の目的も、自分の存在意志というものももたずに流されるままに流れてゆこう、などという思想をもったら、もう日本は駄目だ」と言って嘆いたものです。どこかの岸にすがり付いてでも、流されるものか! 必ず生えてはびこってやる、といった目的意識──これがない民族になったら、その民族は亡(ほろ)びます。

使徒行伝は、「聖霊を受けた私たちは、ただでは済まない。私たちは違うんだ!」といって、あくまで自己主張しています。今も生きておられるキリストは、私たちを贖いたもうた。そしてなお、多くの人を贖いたもう。イエスの御名を呼んだら十字架上に死んだはずのキリストがありありとして生きて働かれる、と言ってやまない。このように旺盛な信仰、精神というものが大事です。

とかく今の人々は、どうせ流れは同じじゃないか、世の流れに流されてゆこう、などと言います。しかし流されながらも、自分は違う、と抵抗して”はびこって”生きようとする気がないならば、この使徒行伝を読めたとは言えません。

(1970年)


本記事は、月刊誌『生命の光』877号 “Light of Life” に掲載されています。

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