聖書講話「天の下に類なき御名」使徒行伝4章5~14節

使徒行伝3章を読むと聖霊降臨(ペンテコステ)の後、イエス・キリストの弟子たちを通して不思議な業(わざ)がなされたことが記されています。長年、足腰の立たなかった者が、イエスの御名によって立ち上がりました。このような奇跡を起こす「名」とはいったい何であるか。私たちは、その秘密を知りたいと願います。今回は4章から、イエスの御名の力について学んでまいります。(編集部)

イエス・キリストの弟子ペテロが、「金銀はわれになし。されどわが持てるものをなんじに与う。ナザレのイエス・キリストの名によりて立ちて歩め」と言いましたら、長い間、エルサレムの宮の前で乞食をしていた足腰の立たぬ男が、立ちどころに歩きはじめた。エルサレムは多くの参詣人がいる所ですから、驚いて次々と5000人の人々が集まってきたという。そして、ペテロの話を聞き、イエスを信じました。それを見た祭司階級の者たちはいらだって、ペテロとヨハネとを捕らえて留置しました。

死んでも死なない生命

明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである」

使徒行伝4章5~10節

エルサレムで召集されたのは、サンヘドリン(議会)と呼ばれる集まりです。これは、宗教議会であるだけでなく、ユダヤの国の最高議決機関でもありました。当時は祭政一致の時代だったからです。 

ここに「なんの権威」とありますが、原文のギリシア語では「権威」というより「力」ですね。「能力(ちから) δυναμις デュナミス」という言葉を使っています。どんな力で、だれの名によってこのことをしたのか、と聞きました。

この時から2カ月以前でしょうか、多くの人々が「メシアだ、世の救い主だ」と言ってイエスに追随しました。それが気に食わない当時のユダヤの宗教家たちは、あれを亡き者にさえすれば問題は解決すると思い、ついにイエスを十字架につけて葬りました。十字架の死刑といえば、いちばんむごたらしく、ユダヤ人にとっては恥ずべき殺され方でした。

ところが、これで解決するかと思っていたら、「イエスはよみがえった。復活して今も生きている」と人々が言いだした。まざまざと生きている証拠に、イエスの名を呼ぶと、立ちどころに不思議なことが次々と起こりだした。そして、信ずる者たちの人格が一変しただけではない、周囲にも奇跡が起きはじめた。それで、イエスを殺しても、かえって解決がつかなくなったわけです。

私が好きな歌にこんなものがあります。

 みかたちは消え失せたまへど天地(あめつち)に照り徹(とお)らせる御名朽ちめやも

イエスが死んでしまえば、彼ら宗教家たちにとっては世の中が平和になると思いましたが、ますますイエス・キリストを慕う者たちが増えてゆきました。真にこの歌のように、不朽の主イエスの御名は死生を超えて働きつつある、ということを示しています。多くのクリスチャンは十字架だけに信仰がとどまっていますが、初代教会の人々の信仰を鼓吹したのは、実にこの”死んでも死なない生命、復活の生命”が証しされることにありました。

初代教会において、キリストの御霊が、肉体をとっておられた時よりもどんなに素晴らしく働きたもうたか。同様に私たちの幕屋の中では、先立って逝かれた方たちの死が、いかに尊いものであるか。天に帰っても、その業がなお続いてゆくのを見る時に、私たちは死んだらそれで終わりではない世界を知っております。

聖霊に満たされて語る

牢獄(ろうごく)に入れられたペテロとヨハネは、翌日、民の偉い人たちに喚問されました。大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族という、最高位の宗教家たちの前に引き出されたのです。名もない庶民でしかないペテロやヨハネは、そういう人たちの前に立つと身が竦(すく)んでしまうはずです。しかし、そのような宗教家たちがこの世の権威を借りて審判しようとする時に、ペテロとヨハネは憚(はばか)ることなくその尋問に応じ、むしろ逆襲するくらいの意気込みを見せました。

私たちは、この世の権威というものに負けやすい。しかし、「ペテロが”聖霊に満たされて”」とあります。この「満たされて πλησθεις プレースセイス」という動詞は不定過去の分詞ですから、”その時に”聖霊に満たされていたのです。だから、この世のお偉方というものが眼中にありませんでした。私たちも、いろいろな大きな場に立たされることがあります。その時に必要なのは、”聖霊に満たされて立つ”ということです。

皆の真ん中に引き立てられた2人は、一夜を牢獄の中で過ごしました。今もエルサレムの城外に、カヤパの官邸跡と伝えられる所があります。その地下牢といわれるものを覗いたことがありますが、岩盤をくり抜いた穴ぐらの獄屋で、囚人たちを縛って身動きできないようにしたそうです。ペテロたちもこのような所に放り込まれ、縛られていたと思うと、悲壮な気がいたしました。これくらい肉体の苦痛、また精神的な圧迫下に立たせられると、普通の人でしたらヘナヘナと妥協してしまいます。しかし聖霊に、神の霊に満たされますと、私たちはそれを跳ね返すことができます。

カヤパの官邸跡の地下牢(エルサレム・鶏鳴教会)

奇跡を起こす力の秘密

この尋問では、エルサレムの宮の前で生まれながら足の利かない乞食をどうやって立ち上がらせたか、どんな力で、”何の名で”治したのか、ということが問題とされています。

宗教的に言えば、名を呼べばその力がやって来るのであって、どんな神の名で祈ったならば、こういう奇跡的な力が作用するのか、それを皆が聞きたいのです。私たちもまた、それを知りたい。もしそのような力の秘密があるならば、それは何でしょうか。力の秘密は、”イエス・キリストの名を呼ぶ”ということです。

それでペテロは、「きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり……」(4章9節)と答えています。今のクリスチャンは、良い業といえば何か道徳的な行ないのように思います。だが、聖書で言うのは、ペテロが一言にして足の利かない男を立たせたような奇跡的な業のことです。キリストの名を呼べば良き業が行なわれる、それを言うのです。信仰と良き業とは切っても切れません。それは道徳的な行ないであるよりも、むしろ霊的な力ある業のことで、それを「良き業」と初代教会では呼んだのです。

「このイエスこそは『あなたがた家造りら(「家造りら」というのは、国家を指導する階級を指す)に捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」

使徒行伝4章11~12節

ここで「隅のかしら石」というのは、建物の隅にしっかりした石を重ねて、嵐にも地震にも崩れぬようにする石のことです。あちらは石で建築しますから。または、アーチを造るようなときに真ん中の石を頭石(かしらいし)と呼ぶ場合もありますが、とにかくこれは建築物でいちばん重要な石です。それがしっかりしないと全部、崩壊してしまいます。

捨てられた石を神様は拾い上げて、いちばん重要な石とされた。このキリスト、メシアが聖書の宗教の要(かなめ)であり、この要石が崩れると聖書の信仰の命取りとなってしまいます。

12節の「この人による以外に救いはない」は、原文では「ほかのだれによっても絶対に救いはない」という強い言葉です。「救いうる」は、「救われるべき、必然的に救われることになっている」という意味です。原文どおりに訳すと、「なぜなら別の名は天(あめ)の下に存在しないからである。人々に与えられていて、私たちがそれにおいて必ず救われるような(名は)」です。イエス・キリストに代わるべき名、このような驚くべき力を発動する名は、天の下には、人間界にはない。その名を呼びさえすれば、驚くべきエネルギーが、力が発動して、このように人を癒やすのである、といってペテロは秘密を示しました。

名の実体を知ること

私たちにとって大事なのは、このキリストの御名です。ほんとうにイエス・キリストの御名の尊さを知ったら、あるクリスチャンたちのように、そういつも安易に「イエス様、イエス様」と御名を呼ぶわけにはゆかないものです。キリストの名が発動したら、驚くべきことをひき起こすだけの実力があるからです。

支那(シナ)の孔子が晩年、衛(えい)という国に、そこで仕えていた弟子の子路(しろ)に呼ばれて行ったことがあります。衛の国は、父と子が君主の位をめぐって争うというような混乱した状況でした。それで孔子の人徳、知恵を借りて衛の国を治めようとしたのです。

子路が先生の孔子に、「衛の王様があなたを迎えて政治を託されようとしていますが、先生はまず、何からなさいますか」と問いました。

この時、孔子は「必ずや名を正さんか。……名正しからざれば則(すなわ)ち言順(げんしたが)わず、言順わざれば則ち事成らず」と答え、「名を正す、正名」という有名な言葉を吐きました。「名を正す」とは、物事の本当の意味とその実体を問いただすことです。「君主である者は君主らしくあれ。臣下である者は臣下らしくあれ」といって、それぞれの名称とその実体とを一致させることです。そうでなければ、言葉が混乱し、物事も進んでゆきません。

ある人が言います、「聖書に書いてあるから、イエス様の名を呼んだら救われるんだ」と。しかしこれは、「名を正さず」に言っている話で、果たしてその人は、その名の意味している実体に触れて知っているのか。それに触れて知っているならば、使徒行伝のような出来事が展開しなければならない。だが、ただ口先で名を呼んでも何も起こりません。

このナザレのイエスの御名がいかにキリストとして真実に、ダイナマイトのように力をもって働くものであるかは、名を正しているから事が成るのであって、名を正していない人、その名の実体に触れていない人には事が成らないのです。

イエスの名に伴う御霊

イエス・キリストは、ヨハネ福音書の「最後の遺訓」の中でこう約束されました。

「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父(なる神)に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」(16章23~24節)

今までイエス・キリストが地上に生きておられたから、その名によって求めたことはなかった。しかし今度は、「わが名によって求めよ。そうしたら何でも成る。わが名によってやって来る聖霊が助け主として何でもするであろう」と言って、「名を正す」というか、ご自分の名の実体を説明しておられます。

また、使徒パウロもこう申しております、「あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ(※注)、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」(ガラテヤ人への手紙4章6節)と。イエス・キリストは、「父よ、お父様!」と言って神様に祈られました。神の子イエス・キリストの霊がやって来る時に、今まで神を「お父様」と呼べなかった者が「アバ、父よ」と言いだす。こういう経験があって、イエス・キリストの名を呼んでいるかどうか。だから、名を正しくするということを私は問うわけです。

そして、こういう絶対者の名前というものは、有って無いようなものです。しかし、その絶対者の御霊が私たちに到来する時に、その名というものはただの名ではない。

老子が「名の名とすべきは常の名にあらず」と申しました。普通に人々が名づけているようなものではない名がある。聖書は、真にイエス・キリストの名こそは世に類(たぐ)うべきもののない、またとなき名である、と書いています。比べることのできない不思議な名である。絶対者の名のように、人間には名づけることのできない名、「名の名とすべきは常の名にあらず」というような”名”が切り込んでくる時に、不思議なことが起こるのです。

(※注)「アバ」は、新約聖書時代の口語であるアラム語で「お父さん」の意。

今も霊験あらたかに働く力

先日、愛知の三ヶ根山(さんがねさん)で名古屋の方々と一晩の集会をいたしました。そこに大阪の病院に入院していた人が、友人に連れられて来ていた。その日の深夜まで、また翌朝も集会をしましたが、周りの人もこの方のために執り成しておられた。最後に私が祈ってさしあげたら、なんと立ち上がられた。今まで長い間、身体(からだ)が痙攣(けいれん)して寝たきりでしたのに、目の前で立ち上がってお見せになるから、一緒にいた人たちもびっくりしておられました。

何の力がこういうことをひき起こすのか。それはキリストの力であります。私は薬一服用いたりしません。しかし、イエス・キリストの御名は、2000年前、足のなえた人を立たしめたように、今も立たしめるんです。私のようなこんな愚かな者が主の御名を呼ぶだけで、目に物見せてくださるキリストの神様、あなたはなんと霊験あらたかな神様でしょうか。人々は十字架にかかって死んだように思っているが、あなたは今も生きて、こうして私たちのそばに来て、ご自身が生きておられることを表したもう、と御名をたたえました。

奇跡が起きることを喜ぶんじゃないんです。学問もない、地位もない無力な私に、主もまた共におられて不思議をなしたもうことが、ありがたくてならないんです。また、背後に多くの祈りがあった。今も切なる信仰のあるところ、こうして主は働きたもうのです。

大事なのは、名を正すことです。わけてもイエスは今も生けるキリストであって、復活し、時間空間を超えて働く不思議な御霊である。その名は世の常の名ではない。「だれの名、彼の名」というようなものではない名、これこそ神の名というものである。このように厳(おごそ)かな思いをもって、主の御名を呼んでいるかどうか。呼んでいたならば、主は今日もまた不思議なことをなさるものです。

無学なただ人であっても

人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。 

使徒行伝4章13~14節

この「大胆な話しぶり παρρησιαν パレーシアン」というギリシア語は「大胆さ、自由自在」という意味です。人々はペテロたちが何憚ることなく、自由自在に、当時の宗教界の最高権威者をやり込めている姿を見ただけでありません。2人が無学なただ人である。無学というのはこの場合、聖書的な学問をしていないという意味です。彼らは正規の神学校などを出ていない、ただ人、庶民、ヘブライ語では「アム・ハアレツ(地の民)」でした。

皆が不思議に思ったのは、一つには、死んだはずだと思っていたイエス・キリストが、「どっこい生きているぞ」といって、名を呼べばこたえるように働きたもうたからです。

またもう一つの驚きは、宗教的には無学なただ人である2人が大胆に自由自在に、宗教的な最高権威者に向かって挑んで語ったことです。下層階級の人であるにもかかわらず、このように多くのお偉方を前にしてでも、堂々と語ってのける。なんと素晴らしいだろう。

しかも、この人たちは、あの卑しむべき十字架にかかったイエスから学んだのである。イエスも大工だったんですから、宗教的素養が深くあったというわけでありません。あったとするならば、自分で学んだんです。そのような人からどうして、と人々は怪しんだ。

イエス・キリストは、現代の神学校のようなもので弟子をお作りになりませんでした。私もイエス・キリストに学んで、同様にするのであります。神学校などは作りません。けれども、優れた伝道者が私たちのグループから出ます。これはなぜか。私は無学なただ人です。しかし、世のキリスト教の先生方に引けを取らない、力と権威をもっております。もちろん優れた学者や牧師は尊びますが、こと宗教に関しては、イエス・キリストに聞くだけでいいんです。しかもキリストは、2000年前にイエスとして現れられただけではない、今も私たちのそば近くに来たりたもう、復活の主であります。この主ご自身が、私たち一人ひとりを教え導いてくださる。ですから不思議なことが起きます。

どうぞ、今も私たちと共にいたもうキリストご自身の御霊が働いて、今日もまた一人ひとりを恵み、力ある良き業をなしたもうよう祈ります。

(1970年)


本記事は、月刊誌『生命の光』876号 “Light of Life” に掲載されています。

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