信仰講話「民族を奮い立たせる宗教 ―原始のキリスト教に帰れ―」

手島郁郎はその伝道生涯を貫いて、聖書に記されているオリジナルの信仰、原始福音に立ち帰ることを叫びつづけました。
そして、聖霊による油注ぎを受けて真の信仰心が目覚める時に、個人が救われるにとどまらず、民族精神の復興につながることを訴えました。
新年に当たり、手島郁郎が目指した原始福音について語っている講話を掲載します。(編集部)

私はこの20年間、「原始福音」と銘打って伝道してまいりました。なぜそう言わねばならないのか。

多くの人は、キリスト教をお信じになります。しかしながら、今のキリスト教を信ずることが、キリストの宗教を信ずることではありません。キリスト教は、イエス・キリストによって基礎を置かれ、始められた宗教です。そうであるならば、そのお手本はイエス・キリストに帰ること、イエス・キリストを見上げて生きることであります。

福音書を読みますと、イエス・キリストがどのような御業をなさったかが、こまごまと書かれてあります。また、そのキリストの御生命が弟子たちに臨んで働く時に、使徒行伝で見るような驚くべき不思議な生涯が展開してゆきました。これがキリストの宗教であります。私たちはあえて「原始福音」と言っておりますが、昔の本当の、オリジナルな、原始のキリスト教に帰ることが大事なのです。

イエス聖誕のころ

私たちは聖書の宗教を信じています。それは、宗教は決して人間の側から始まった出来事ではない。人間以上の神がいたもうて、私たちに働き、私たちを動かし、私たちを救おうとしておいでになる。このことが前提だからです。

しかし、今からおよそ2000年前、イエス・キリストがお生まれになった時には、このような宗教の力が働くことがすっかりやんでおりました。マタイ福音書2章を読むと、
「さて、(キリストの誕生を見届けた東方の博士たちがヘロデ王に報告しなかったため)ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基づいて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる2歳以下の男の子を、ことごとく殺した。 こうして、 預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
『叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞こえた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった』」(16~18節)

母親たちが慰められることを厭(いと)うほどに胸打って、「こんな時代に生きるのではなかった。もう死んだほうがましです」と言って泣き叫ぶ声が聞こえた、と書いてあります。

当時のイスラエルはローマに支配されて歴史的に最低の時代で、多くの人はもう神を見上げることはしませんでした。どうしてか。神は自分たちを救いたまわないと思っていたからです。宗教は人々の魂を救うはずのものですが、その宗教が神の霊を注がれること、つまり「油注ぎ」を失った。聖書の宗教から油注ぎの出来事が失われる時に、人々に何ら希望はありません。モーセ以来、赫々(かっかく)たる歴史的伝統をもっていたユダヤ民族にとって、信仰を失い、歴史的伝統を失うことは大変な事態を来たらせることでありました。

聖書時代からあったといわれるガリラヤ湖畔の道

歴史の喪失は民族の自殺

カール・ヤスパース(注1)という現代の最大の哲学者が申しております。

「歴史が崩壊すれば、人間は――依然として確かに人間ではあるが――数千年前の状態に再び落ち込むであろう。そこでは文化的遺産に関する知識もなければ、由来の意識も存在しないであろう。……歴史において獲得されたものは、意識的に伝えられねばならず、まかり間違えば喪失しかねないものである。飛躍的な創造において、精神的に人間の世界に植え込まれたものは、以後、文化的遺産として伝えられることによって、人間の精神的態度を形成し、変化を与える。そしてまた、このようにして獲得されたものは、きわめて緊密に伝承に結びついているので、伝承されない限りは……完全に消滅しうるのである。かくして人間は、むき出しの基質(歴史以前の未開野蛮な「裸の状態」)に戻らねばならぬ」(ヤスパース著『歴史の起源と目標』より)

このように歴史を失うことは、民族の自殺に等しい。民族はその歴史というものがある限り、生きつづけることができる。しかし歴史を失うと、「裸の状態」に返ってしまう。

たとえば、シルクロード沿いの天山山脈から蒙古(もうこ)に通ずる地方には、昔、随分と栄えた国々がありました。しかし、今は砂漠に埋(うず)まった廃墟(はいきょ)になっている。また、中近東地方では昔栄えたバビロニア帝国や大ペルシア帝国の跡を、アテネでは昔のギリシア文明を遺跡に偲(しの)ぶのみです。

歴史の疑問として、どうしてあんなに栄えた国や文明が滅んで廃墟となってしまうのだろうかということがあります。ヤスパースは言いました、「それは歴史を失うからだ」と。

その歴史とは何か。先祖以来、言い伝えられた伝統と文化、精神を伝承することをいいます。祖先が経験した経験を、もう一ぺん復習することをいうのです。

私たちは遠い昔のことはよくわかりません。しかし、民族に今も伝わる古典を通して、「自分たちの祖先はこうだったんだな」と知り、読む間に血が沸き立つ思いがします。

たとえば、ヨーロッパでは古い時代のギリシアの文献などを読み直した時に、近代文明を生み出してゆくルネサンス(文芸復興)という運動となりました。

私たち幕屋が、日本の宗教や歴史を尊び、大事にしておりますと、「何だ、原始福音の連中は、伊勢に行って集会をして喜んでいる。馬鹿な話だ」と言ったり、「『古事記』には天照大神(あまてらすおおみかみ)のことが書かれているが、そんなのはつまらない神話じゃないか」と言ったりして批判する人があります。また、幕屋で紀元節を記念すると、「日本の歴史は紀元4~5世紀ごろから始まり、せいぜい1600年か1700年しかないんだ」と批判します。今の中学校でも高校でも、公然とそう教えております。これは恐ろしいことです。

ヤスパースが言うように、歴史を失うことは民族が滅びる前兆であります。民族や国家は、歴史的な遺産を意識的に親から子に、世代から世代へ伝えていって発展しつづけてゆくものです。それが断絶しましたら、どんなに栄えた民族もその文明も、後世へつながらなくなります。

(注1)カール・ヤスパース(1883~1969年)

ドイツの哲学者。人間は限界状況において、それまで確実だと思っていたものが崩壊するが、その時に超越者と出会い、本来の実存に目覚める、と説く。ユダヤ系の妻と共にナチスの大迫害を体験。

アメリカの巧みな占領政策

マッカーサーは日本を占領しました時に、エライことを次々にしてくれました。

それは何か。まず憲法を変えました。私ははなはだ気にくわない。そしてもう一つ。小学校、中学校、高校で、それまでの日本の歴史や地理を教えることを禁じました。歴史の断絶は民族精神の断絶に通ずるからです。やがてその民族は「裸の状態」になる、こういうことをアメリカは知っていましたから、占領政策によって恐ろしい教育を日本で始めました。かつてのオランダも約400年前、インドネシアのジャワなどを植民地化してから、古い物語や歴史を語ったり、出版したりすることを禁じ、愚民政策を施しました。

今度、日本の学校で神話の教育が行なわれる方針に対して、日教組は非常に反対しているが、これは由々しいことです。今後の日本の最も大きな障害となるものは、日教組が抱いているような思想だと思います。

歴史を奪われると、民族はくらげのように骨抜きになります。骨抜きになった民族は、民衆とか大衆と称して、衆愚となる。ですから、だれかが「共産主義がいい」と言うと共産主義に、「社会主義がいい」と言うと社会主義にと、どのようにでもなる。

記紀を旧約聖書のように

しかし、そんな中から民族が復興し栄える時は、いつでも歴史の読み直しがなされました。どうして日本は、明治維新によってわずか40~50年の間に世界の強国に列することができたのか。

それは、400年前にポルトガルなどが日本にやって来た時に、徳川幕府が「白人国家に踏みにじられたくない」と鎖国政策をとり、歴史を保ちつづけたからです。
日本は、天照大神のご神勅があり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から神武天皇を経て始まった国です。そして、その天つカミの心を体して、この大和島根を栄えさせようとして代々続いてきました。それは単なる神話ではなく、天皇とご皇室という歴史的事実が今も続いていることで明らかです。このような不思議な国柄が日本です。それを伝える『古事記』や『日本書紀』を、江戸時代に本居宣長(もとおりのりなが)その他の国学者たちが、もう一ぺん読み直しました。そして、民族精神が目覚めました。そのことが、幕末の志士たちの心を動かし、ついに王政復古がなされ、明治維新に発展していったのです。

わが国は、その維新を経て明治・大正年間に、支那(シナ)やインド、他のアジアの国々がまだ西洋諸国並みに至らずに喘(あえ)いでいる時に、すでにその域に達しました。これは何を意味するか。歴史を尊ぶことがいかに重要かを示しています。

私は若いころ、難しいでしたけれども『古事記』や『日本書紀』を愛読して、日本は尊いなあと思いました。また、そのような古典を学校で教えてくださる先生がいたことは、私の一生の幸福だと思っています。その後も、私は記紀を読みつつ、旧約聖書を読んでいるような気がして、心が躍ってたまりませんでした。

伝道している竹下仁平君が以前、「私はこの原始福音の信仰を高めてゆくのに、どういうことを勉強しましょうか」と尋ねてきたことがあります。その時に私は、「君は大学で国文学を学んだのだから『古事記』や『日本書紀』を勉強しなさい」と言いました。だが、竹下君は大変困りました。私から、何かキリスト教神学の本を読めとでも言われるかと思っていたからです。戦後の新しい教育では、漢文や『源氏物語』などの古典は教えますが、大事な『古事記』や『日本書紀』は教えません。

東京の集会にお集いであった加藤与五郎(注2)先生は、創造工学の第一人者でした。愛国者で、国を憂え、国のために物を考え、発明するお方でした。先生は、日本の国土は狭く資源にも乏しい。これでは日本の国は成り立ってはゆかない。しかし、日本人が優秀な民族精神さえ失わなければ、決して日本は滅びることはない、と信じておられました。

今年は、明治になってからちょうど100年の年です。人は「明治100年が何だ」と言うかもしれない。けれども、明治天皇という英邁(えいまい)な君主が日本を指導なさり、国民の心に歴史的な目覚めが起きた時に、国は起ち上がったのです。しかし、アメリカはその日本の歴史を教えることを禁じました。

今になって「歴史教育」ということが言われるようになりましたが、それは実にゆがめられた歴史、赤い共産党が喜ぶような歴史が学校で教えられている。恐ろしいことです。

しかし、眠っているような尊い民族精神を鼓吹し、目覚ましめるものが宗教です。先祖以来、語り継ぎ言い継がれてきた歴史が、キリストの御霊をもって爆発する時、ワァーッとみんなが起ち上がることができる。私はそう信じている。

(注2)加藤与五郎(1872~1967年)

愛知県出身の電気化学者で東京工業大学名誉教授。現在の産業を支える日本発の画期的な磁性材料・フェライトなど、工業化学分野の研究で約300件の特許を取得。「日本のエジソン」と呼ばれる。

天来の火に燃やされる時

なぜならイエス・キリストがそれをなさったからです。イエス・キリストはユダヤ民族に生まれ、民を励まされました。そして、ユダヤ民族を通して神が大きくなされつつあった御業を、もう一ぺんなそうとされたのです。

民がみんなユダヤの宗教や歴史的な尊さを忘れて、ローマの皇帝カイザルの権力の下に打ちひしがれておりました。彼らの尊い信仰は民族の間に語られ、旧約聖書に書かれてはおりましたけれども、長い間、その本来の力を失っていた。

それがイエス・キリストによって、神の生命が火のように臨んだ時に、眠っていた信仰が呼び覚まされました。ひとたび人々の心に信仰が目覚めてきますと、祖国の大きな希望と使命を、また未来に対するイマジネーションを描くことができたのです。

個人の人生を見ましても、私たちは若いころはその目的について考えます。人間とは一体何だろう、何のために生まれてきたのだろう、そして何をすべきだろう、と。でも、そのことがわからないままに中年になり、「人生の目的や理想を追求しても無駄だ」と現実の生活にかまけてしまいます。

しかし魂が目覚めだしますと、息づいて奮い立つことができます。イエス・キリストは聖霊と火とでバプテスマするだろうと洗礼者ヨハネは言いましたが、眠りこけているような者に、キリストはまさに天来の火を点じられました。そして、心が燃えて明るい光で見てみると、それまでわからなかった真理がわかりだして、うれしくてたまらなくなります。

イエス様ご自身、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けて、水から上がられると、天が開けて神の御霊が鳩のようにご自分に降(くだ)ってくるのをご覧になった、と書いてありますように、聖霊をお受けになった。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という神の御声を聞かれました(マタイ福音書3章)。原始福音の一番の目的は、現代のキリスト教が忘れてしまっている、この”聖霊の油注ぎ”です。もう一ぺん聖霊の火がこの日本に燃え立ちさえすれば、日本は世界に大きな役割を果たすだろうと思います。

宗教の第一の目的とは

多くの人々は聖霊の火が燃え立つことを求めております。しかしまた、昔のペンテコステの出来事はもう起きない、とあきらめております。

しかし戦後、昭和25年(1950年)、神は私たち幕屋の一群に御霊を注ぎ、聖霊の御業をお始めになりました。この与えられた聖霊の火を、どうして多くの人に分かたずにおれましょうか。聖霊にバプテスマされる時に、まず自分の心が希望をもって起ち上がることができます。そして天が開け、生きながら神の世界に通じ、天使たちと交わるような霊的経験が始まります。原始福音に触れた人たちの心のときめきは、それです。それまでは「神様、助けてください」という祈りでしたが、天が開け、神の御声に導かれはじめると、「どうしてこんなに恵まれるのでしょうか」と言うほどに、ありがたくてたまらない生涯が繰り広げられます。

これをまずイエス・キリストが経験なさいました。そして人々の胸を開いてこの天来の火を燃やそうとなさいました。キリストは「神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」(ヨハネ福音書1章51節)と言われましたが、キリストを信じる者には天が開けて、天使の声が聞こえるような不思議な境涯が始まる。これが宗教の第一の目標であり、目的であります。

このような宗教が全くなくなっている時に、私たちの胸の中に天が開けはじめたのです。

10年前、私が東京に開拓伝道のためにやって来たころを振り返ってみると、「主様、今は多くの人々の胸に天が開けました。ご覧ください」、これがキリストに対する私の報告です。

戦いに勝利する秘密

今の時代、多くの人々の心は、憎しみと争い、罪と不安と病に蝕(むしば)まれております。なぜ人々がこのように恐れおののいて心を閉ざしているのか。イエス・キリストは、それはサタン(悪魔)の業(わざ)であると見られました。使徒パウロも、「自分たちの戦いは、人間との戦いではない。人間を恐れさせたり脅えさせたりしている悪の霊との戦いである」ということを言いました(エペソ人への手紙6章)。

この悪の力が人間に働いている時に、人々は神を信じることができません。そうして、恐れおののいて心を閉ざし、真っ暗な気持ちでいます。せっかく尊い使命、神の目的が人間を通して地上に、また歴史に具現されようとする時に、立ちはだかってひどいことをする悪の勢力がある。

ところが、イエス・キリストが地上に現れることによって、多くの人々の胸に本当の宗教心がよみがえってきて、まざまざと神を見上げまつる時が来ました。そしてさらに、悪の霊との戦いに勝利することができたのです。

マタイ福音書を読みますと、「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」(4章16節)とあります。はっきりと悪の霊を見据えて戦う者にとっては、キリストは大きな味方、大きな力になりたもう。ここに戦いに勝利する秘密があります。この力を帯びて伝道するのが、私たちの目的です。

東京に居を移しましてこの1年、原始福音の力を奪おうとする悪の霊との戦いがありましたが、神の助けにより打ち勝つことができました。

日本民族の復興の鍵(かぎ)

キリストとは「油注がれた者、神の霊が注がれた者」という意味です。このキリストを中心とする聖書の宗教において、本来の油注ぎが失われる時に、人々に何らの希望もありません。言葉では神ということは知っていても、神を見失い、神の霊を注がれることを失ったキリスト教では何の力にもなりません。本来、宗教は人々の魂を救うはずのものです。

ここで私たちは、キリストの御霊が我々少数の群れを通してなしたもうたことを感謝し、そして、原始福音というものは何かをはっきりと受け止めたい。

私たちにとって模範は、すでに用意されている。キリストの御霊がその弟子たちに宿る時に、彼らを通していかに不思議なことをなされたか。それを現代において繰り返すことであります。キリストの原始福音は変わらないのです! それは、今の教会が「時代に適合するようにキリスト教を改善するんだ」と言っているようなものとは違います。

キリストが福音書や使徒行伝において、いかに弟子たちを通して働き、今も働きつつあられるか。”使徒行伝の続きを生きることが原始福音”なのであって、研究するということとは違うのです。

全く神の霊が働かないキリスト教、死んだミイラのようなキリスト教会。なぜこうなったか。それは原始福音を失い、原始福音の尊い歴史を無視しているからです。

同様に、日本民族の復興は、昔の先祖たちを通してなされた不思議な歴史的経験、これをもう一ぺん回顧することから始まります。

(1967年)


本記事は、月刊誌『生命の光』874号 “Light of Life” に掲載されています。