信仰講話 クリスマスに寄せて「愛の負債に生きる」

今年もクリスマスが巡ってきて、1年の終わりに近づきます。クリスマスは、暗い夜空に輝く明星のようにしてイエス・キリストが世に来られ、私たちを救ってくださることを祝う時です。それと共に、1年の感謝を神にささげる時でもあります。過ぎし日を思い返し、新しい年に向けて心を新たにしたいと願います。今回はクリスマスに当たっての信仰講話を掲載いたします。(編集部)

イエス・キリストは、およそ2000年前、イスラエルのベツレヘムに父ヨセフ、母マリヤの滞在中にお生まれになりました。今、そのベツレヘムの町は、数千、数万の巡礼者でごった返すように賑(にぎ)わっていることと思います。

私たちも、この地上に生まれたもうた神の子イエス・キリスト、そのおかげでこのような不思議な原始福音の贖いに浴したことを思いますと、心いっぱい、主のご降誕の日を祝賀しとうございます。

イエス・キリストを知りまつらずして

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互いに語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼いたちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。

ルカ福音書2章15~18節

ヨセフとマリヤは、ローマ皇帝アウグストの命令で、ヨセフの出身の町に名前を登録するためにベツレヘムに来ていました。ところが、旅館の母屋(おもや)には旅人がいっぱいで泊めてもらえず、2人が通されたのは薄暗い馬小屋でした。そこに泊まっている間にイエスがお生まれになって、布にくるまれて飼葉桶(かいばおけ)の中に寝かせられました。

この時、天の多くの軍勢と御使いが、輝くように御空に現れ、神の栄光を声高らかに歌い、賛美しました。野宿していた羊飼いたちは、それを聞いてびっくりしてベツレヘムを訪ねました。そして彼らは飼葉桶に寝かされている嬰児(みどりご)イエスを見た、ということが福音書に書いてあります。

私は、このようにベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエスを知ることがなければ、キリストを知りまつらず、霊なるキリストを知らなければ、神を実存の父、魂の父として知りまつることもありませんでした。そして、現在の霊的実存への回帰と、救われた大歓喜もなく、今もなお暗黒の中に泣き叫びつづけている者でしかなかったでしょう。

人間の近づきがたい聖なる光の中に住みたもう神が、その光を和らげて謙遜な覆いで身を包み、イエス・キリストとして、私たち人間に理解されうる段階にまで降りてきて、ご自分を顕(あらわ)してくださった。

もしこのことがないならば、罪深い人間は、永遠に神の温情ある愛のご本質も、神の義の御心もわからずじまいで、ただ神を暗中模索するに終わります。また、わかったつもりであっても、それは神であると自分に言い聞かせているだけで、神ならぬものを神として拝しつづけているにすぎないでしょう。

このように思っては、私は厳粛な気持ちでイエス・キリストのご降誕を心からお祝いし、御名の栄光を声高らかに賛美せざるをえません。

1年の総決算をする時

日本ではこの季節になると、デパートやカフェーに至るまでクリスマスの大売り出しをやりますので、クリスマスの真の意味がわからなくなってしまっておりますが、これは歴史的にどのようにして定まったのでしょうか。

羊飼いが野辺で夜通し羊を守るということは、寒い冬ではできないことです。それで、どうしてクリスマスは12月25日に祝われるのであろうか、と疑問がわきます。それには、いくつかの説があります。

キリストの福音は、ユダヤからシリアや小アジア、ギリシアといったローマ帝国の世界へ広まってゆきました。当時のローマ帝国における大きなお祭りの一つに、太陽神を祭る日があり、それが12月25日ごろでした。宗教史的には、これが後に聖母礼拝、赤ん坊のイエスを抱く母マリヤの像が拝まれる、というように転化していったといわれます。

ちょうどこのころが、1年で最も日が短い冬至に当たります。東京でも夕方5時になったら、もう真っ暗ですね。そして世の中がだんだん寒くなってゆく。けれども、これを過ぎると日は長くなってゆき、やがて冬枯れの野に春が巡ってきます。

ですからこの変わり目が、冬祭りとして祭るのには恰好の時で、そのようにして1年が終わり、やがて来たる新しい1年が祝福された年となるように、と人々は願いました。

このような節目に、私たちがイエス・キリストのご降誕を心からお祝いし、また聖なるキリストの御霊を私たちの魂に迎えまつることは大事です。

それだけでなく、年の終わりのこの時に1年の総決算をして新しい出発をするために、クリスマスがあるのです。

日本では昔から12月を「師走(しわす)」と呼びまして、お坊さんはお経を上げるために忙しく走り回り、商売人も年末の決算のため売掛金の取り立てに走り回る、と一般にいわれます。「師走で忙しい」といいますが、私もその言葉を考えながら一年の総勘定をしてみる時、「神様、ほんとうに今年は感謝でした」と心から御名をほめたたえてやみません。

私たちの信仰生活においても、自分の信仰を振り返って決算するのは大切なことです。

ベツレヘムの聖誕教会

師走の思い出

私はこの師走の時期になりますと、若いころの出来事を思い出すことがあります。

ある時、私が奉公していた会社で、会計係の人が夜遅くまで真面目に計算をしていました。私が、「どうしてそんなに遅くまで働いているんですか」と聞きましたら、
「お金が合いません」
「いくらです」と尋ねると、
「10銭ほど合わない」と言うんですね。ずいぶん大きな取引をしていた会社ですから、10銭くらい何でもないお金です。

私は課長でしたから、
「それじゃ私が出すよ」と言って、1円か5円だったでしょうか、差し出しました。すると、「手島さん、あなたがくれるのはかまいませんが、私の帳面のほうは合わない。それでは社長に対して申し訳ない」と言って、仕事を続けていました。

この人は以前、家が貧しくて会社の金を使い込んだことがありました。しかし社長は、そのことがわかってもとがめずに、「それじゃ君、月給から毎月差し引いて払いなさい」と言って、なお会社の会計を任せていました。その社長は偉かったですね。また、こういう一厘(いちりん)もゆるがせにしない番頭がおりますと、その会社は繁盛しますね。

使徒パウロは、信仰によって神に義とせられることを説いて、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(ローマ人への手紙4章3節)と言いました。この「認められた」は「λογιζομαι ロギゾマイ」というギリシア語の受身形で、「勘定に入れられた、数えられた」 という語です。そこには、私たちは罪人でしかないのに、神様は信仰のゆえに義と認めてくださる。勘定は合っていないのに、「よし、よし」と言って、四捨五入してでも勘定に入れてくださる。そういうような意味を含んでいます。これはまさに、神の御愛のなしたもうところです。

後になって考えてみて、私はあの会計係に同情的にもあんなことを言うべきでなかったと思い、恥じました。あの人は、間違いを犯した自分を社長が赦(ゆる)してくれた、その罪滅ぼしのためにと、忠実に働いていたのですから。

師走にそのことを思い起こすと、私はいいかげんに毎日過ごしてきたなあと思います。

1年の終わりに当たって、私は自分の信仰の姿勢を正そうと思うと、「神様、ほんとうにすみませんでした。もっとなすべきことがあったと、後になって気づきます。そんなことがいっぱいあって、申し訳ありません」という悔いの気持ちばかりです。もちろん感謝は大きいですが、なお、来年もこんなであってはたまらない、という気がいたします。

そうやって人間は、1年に1回くらい自分を清算し、仕切り直して、もう一度新たに歩き出さなければ、毎年毎年向上し、進歩してゆくことができません。「まあ、いいよいいよ」と言ってダラダラした生活をしていましたら、天の祝福に入ることはないと思います。

決算のできない愛

さて、聖書で使徒パウロは言っております、
「互いに愛し合うのほかは、何人(なんぴと)にも負い目があってはならない」(ローマ人への手紙13章8節 私訳)と。互いの間で愛すること以外には、人に負い目、負債があってはならない、ということです。

私は今までこの箇所を、「私はずいぶん人様から愛された。受けた愛というものは、自分に果たすべき義務として、負い目となって残っている」と、愛された側として受け取っておりました。しかし、よく読んでみるとそうではないですね。

パウロはまず、「すべてに対して義務を果たせ。税を納めるべき人には納め、敬うべき人は敬え」と言い、それ以外は「お互いの間に愛するということのほかに負い目があってはならない」と言っています。借金をしたら、一切の借りは返さなければならない。税金も滞納していたら払わなければなりませんが、愛以外の負い目はみんな払えるものです。しかし、人を愛するということは、「愛したからこれでもう愛の決算が、勘定が済んだ。負い目がなくなったからそれでよい、ということにはならない」という意味です。

母親が子供を愛するときに、「遠足があるというから、あの子に弁当作って送り出した。ああよかった。もう弁当作ってやったから、それでいい」とは思いません。毎日毎日、どれだけ愛して育てても、「今ごろどうしてるかな。あれでよかったかしら。こうもしてやれたんじゃないかしら……」と思って自分を省みる。愛とはそういうものです。

「私、あの人をあんなに愛してあげたのに、あの人は一向、私に感謝していない」などと言うならば、それは取引する愛ですね。また、愛し愛されたからといって何か物でお返ししたら、それで決算がつく。それだったら愛ではない。

パウロが言う愛は、どれだけ人を愛しても、愛を注いでも愛し足りない、なお「十分でなかったなあ」と借金になって、負債になって自分に残る、ということなのです。

愛する喜びは尽きず

「あなたの神、主を愛せよ」という聖句がありますが、私たちはこの1年を終わるに当たって、「神様、私はあなたを十分に愛しました」と言っているならば、それはうそです。また夫に対して、妻に対して、子供に対して、友人に対して、自分の職場において「あの人に尽くした」と言って満足しておったら、それは真の愛ではない。

「互いに愛し合うのほかは、何人にも負い目があってはならない」

この言葉がグサッと私の胸に刺さるようにして、「ああ、あの方、この方と思うと、自分の無力、何もしてさしあげられないことばっかりで、ほんとうに申し訳ないなあ、すまないなあ」という悔いの気持ちのほうが大きいです。ですから、私は人から感謝されたいなどとは思ってもおりません。ほんとうに駄目な私ですから、することなすこと申し訳ないなあという気ばかりして、自分をとがめます。

けれども、それは決して、いわゆる借金に首を絞められるようなとがめられ方ではありません。人を愛した喜びというものがあります。また、その喜びが尽きることはない。

毎日のように、どれだけでも愛がわく。しかも負い目を感じながら、なお愛し足りないといって一生が終わるのではないですか。それだったら幸福ですね。愛しうることは幸福です。しかもそれが義理でないときに、ほんとうに幸福です。

ある養母の涙 

この10月の聖地巡礼で、イスラエルへ向かう飛行機に乗っておりました。その時に、竹上君の奥さんも一緒でしたので、「テルさん、うれしい?」と聞きました。初めてイスラエルに行くんですから、うれしいに決まっています。聞くほうが野暮です。
「うれしいです……」
「うれしい? ああ、あなたは今、日本に残したご主人のことを思っているね」
「いえ、サーラのことを思っていました」と、日本に残した養女のサーラちゃんのことが忘れられないと言われます。そして、「サーラのことを思うとねえ」と言って涙ぐまれる。

私はその姿を見た時に、うれしかった。サーラちゃんの母親の中野静さんは、病院の手術の失敗で亡くなってゆきました。遺児のサーラちゃんを引き取ってくれたテルさんは、だれよりも涙ぐましい気持ちで愛して育てていなさる。テルさんとサーラちゃんの親子関係は義理でないことを見た時、この人をたまらなく尊く思いました。どうぞ、いつまでもそうであるように。愛することのほかに負い目あらざれ、です。 

私たちは、こういったことをもういっぺん心の中で清算しなければ、新しい年の出発はできません。12月は総勘定、総決算の時であるというのは、娑婆(しゃば)の世界ばかりのことではない。私たち、お互いの信仰においても、愛においてもそうです。そして、愛というものは最後まで勘定ができない。また、満足できない。不満足に思いながら、いつまでも愛することが負い目になっているならば、その愛は正しいですね、健全ですね。

キリストの御霊を迎えまつるクリスマス

イエス・キリストは、最後の晩餐(ばんさん)の席で弟子たちに何と言われたか。

「わたしはやがて十字架にかかって死ぬ。しかし、死ぬことを喜んでくれ。やがてわたしは聖霊として、助け主として再びやって来て、あなたがたと悩みを共にし、あなたがたのそばにおり、そしてあなたがたの内にもおるだろう」と、極みまで愛を示された。

また、復活のキリストは、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録3章20節)とも言われました。

キリストが魂の戸をたたいて、私たちの中に宿りたもう。私たちに必要なことは、内なるキリストと共に歩くことです。このキリストの御霊が私たちの胸の中に生きて、私たちを手となし足となして、地上を歩かせ、栄光を現したもう。そのような域に達したときに、原始福音の信仰者として完成するのであります。

イエス・キリストは、「あなたがたは、聖書の中に永遠の生命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについて証しをするものである」とおっしゃり、また、「永遠の生命とは何か。それはわたしだ」と言っておられます。草花の生命は、花として咲かなければわかりません。キリスト・イエスに咲いたあの生命を、私たちも物にしたい。否、それ以上に私たちの中に宿りたがっておられるのが、イエス・キリストご自身です。

今のキリスト教は客観神学などといって、イエスを外に拝しております時に、私たちはキリストを戸の外で嘆かせず、魂の内にお迎えし、内なる至聖所において拝しとうございます。私たちのクリスマスは、私たちの心の中にキリストが入り込みたもうことです。昔、乙女マリヤに宿った御霊が、私たちの魂にも身ごもることをいうのです。

このような、内なるキリストを信じる信仰、これが極意です。肉の罪深い者ですのに、こういう卑しい者の中にも潜ってきて共に住み、私たちのような至らない者を通しても栄光を現そうとして苦慮しておられるキリストを、戸の外において嘆かせたくはありません。

祈ります。どうかキリストを見上げて。深い呼吸をしてください。

尊きキリストの神様、私たちの贖い主でありたもう、守護神でありたもうお方よ。

あなたはご自分の姿を地上にイエス・キリストとして顕したまい、今は私たちに宿らんがために、待ちつつありたもうことを感謝申し上げます。

願わくは主よ、多くの人々が「クリスマス、クリスマス」と言って外側で騒いでおります時に、乙女マリヤがあなたを内に迎えまつりましたように、私たちも聖霊に満たされた不思議な人間でありとうございます。どうぞ、主の御霊よ、私たち一人ひとりに来たりたもうて、あなたが私たちを手となし足となして用いてくださるよう、お願いいたします。

十字架上に今も血を流しつつありたもうお方よ。どうかあなたの御血汐(おんちしお)を私たちに注いでください。私たち、あなたの御血によって贖われた者たち、互いに深く愛し愛されつつ、あなたの御国をこの地上に現し、築いてゆくことができますよう、どうか導いてください。

どうぞ、聖霊に満たされた兄弟姉妹たちが数多く現れて、東京の空気を一変することができますように用いてください。

(1968年)


本記事は、月刊誌『生命の光』873号 “Light of Life” に掲載されています。

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