聖書講話「十字架上の雄叫び」マルコ福音書15章37~39節

イエス・キリストはその生涯の最後、十字架にかかって死なれました。古くから「十字架」は、キリスト教の最も重要な出来事とされ、一般にも知られてきました。けれども、イエスの十字架の真の意味は、あまり知られていません。
今回は、マルコ福音書の十字架の箇所を通して、神殿宗教を打ち砕いたイエス・キリストの最期のお姿を、手島郁郎が説いています。(編集部)

今日はマルコ福音書15章を通して、私たちの贖い主イエス・キリストの、地上での最後のお姿を学びたいと思います。キリストの宗教の重大なポイントは、ここに記された十字架の出来事であります。そして、キリストの十字架がわかればわかるほど、信仰は深いものになってゆくといいます。

イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」

マルコ福音書15章37~39節

これはイエス・キリストが十字架にかかり、息を引き取られる場面です。わずか3節の短い記事ですが、なんと活き活きと雄々しく力強い筆致で、主イエスの最期の真面目(しんめんぼく)を語ってくれていることでしょう。このような死に方をされたがゆえに、これを見た異邦人の百卒長も、イエスを「神の子であった」と告白せざるをえなかったのです。

これこそ、十字架の死に至るまでの聖書の受難記事の掉尾(ちょうび)を飾る精華ともいうべきです。激しい闘魂、なんと素晴らしい壮絶な死に方でしょう。この人が神の子でなくして、どうしてこのように死んでゆけましょう。

神の子キリストたる真義

多くのクリスチャンは十字架の記事に接する時、ただイエスの死を悼(いた)み、その受難を悲しみます。しかし私は、イエスの死に対する勝利を賛美します。主イエスの死こそは、生前の素晴らしさに勝(まさ)って、その真骨頂を示されたものであったからです。

多くの人は、私がこのように言うのを怪しむかもしれません。それは、マルコ福音書のこの箇所を1節ごとにばらして、別々の出来事として読むからです。だが、ここの文の流れに沿って読めば、これによって彼が神の子であるという真義を訴えていることがわかる。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と福音書1章1節に書き出したマルコは、ここにその結論を出したのです。

4つの福音書は、キリストの十字架の死を、最大の命題として論証しています。中でもマルコ福音書のこの短い聖句こそ、真にイエス伝のクライマックス(絶頂)であり、圧巻であります。これを見失っては、十字架の受難も意義を失うでしょう。

使徒パウロはイエスについて、「肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」(ローマ人への手紙1章3~4節)といって、イエスが神の子である根拠はその復活にある、神の義はその復活によって証しされた、と主張しています。けれども私は、イエスの十字架の死だけでも、十分に神の義を拝察することができると思います。まして、復活の事実を見ればなおさらです。

主イエスはその肉体を十字架に釘(くぎ)づけられ、肉体の疼痛(とうつう)にも増して、体液の流動がはばまれた結果、極度の苦しみを感じたもうた。天地も暗澹(あんたん)とし、耐えがたくして「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と言われると、人々は「そら、エリヤを呼んでいる」「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」と言って、みんな固唾(かたず)をのんで十字架上のイエスを見上げました。「いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」(マルコ福音書15章32節)と言う者もありました。生前にイエスがなされた多くの奇跡を知る民らは、今こそ何事か最後の大奇跡が起こるのではないか、と一斉に注視したのです。しかり、人々の意表に出る、最も恐怖すべき、戦慄(せんりつ)すべき一大奇跡は起こったのであります。

神殿の幕が裂ける、とは

「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」のです。ここにはただ「声高く叫んで」とあるだけで、言葉ではなかったのです。何一つ辞世の句もなく、ただ唸(うな)るように絶叫、大声にて「口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉」(コリント人への第二の手紙12章4節)を発せられた。

「おそらく大音声(だいおんじょう)で異言(※注)を語られたのであろう」と、ある学者は推測します。それが異言であるかどうかはどうでもよい。大音声の一言に、エルサレム神殿の最も神聖な至聖所の幕が断ち切れた。それによって、主イエスの御霊は至聖所に躍り込みたもうたのです。崩すべきものを崩して、帰るべき所に主は帰られたのでした。至聖所とは、大きな幕によって隔てられた神殿の内陣で、神の箱が安置された所です。そこに年に1度、大祭司が犠牲の血を携えて入り、民の罪を贖ったのです。

その幕を通過することのできる者は、地上ではイスラエルの大祭司のみでしたが、霊となって至聖所に躍り込みたもうた者こそ、霊的な意味での大祭司イエスの姿でありました。

しかしそればかりではない。当時の信仰の伝承では聖所の幕が裂けるとは、やがてエルサレムは滅亡する、というユダヤ民族破滅の予言でもありました。最も恐るべき不吉な兆しが起こったのです。エルサレムの住民挙げて震撼(しんかん)せざるをえないことでした。

その昔、イスラエルの強敵であったペリシテ人にとらわれた士師サムソンは、主エホバに祈り、一大腕力に物を言わせて、偶像信仰であったダゴン神の大神殿を崩壊させたものでしたが、主イエスは腕力ではなく、ただ霊威で、御言葉の威力のみによって、一言のもとに崩すべきものを崩し去って、神去(かむさ)られたのでした。

当時のエルサレム神殿を再現した模型
壁で囲まれた神殿の建物内には聖所があり、
その奥には幕で隔てられた至聖所があった。
(※注)異言(いげん)

新約聖書に書かれている神よりの賜物の一つで、聖霊を受けて通常とは異なる言語で語りだすこと。使徒行伝2章によると、イエスの弟子たちに聖霊がくだった時にも異言が語られたという。

至聖所は開け、万人は祭司のごとく

当時、一部の宗教者階級がイスラエルの宗教を牛耳って、祈りの家と唱えられるべき神殿は商売の家となり、神の家である神殿での礼拝は形骸化(けいがいか)して、むしろ神と人とを隔ててしまっているありさまでした。

イエスはエルサレムの都に入られるや、神殿で「宮きよめ」をなされましたが、神殿礼拝の否定、神殿なき宗教の確立、それはイエスの伝道の、最初からの宣言でした。そして、その生涯をかけて徹頭徹尾、この戦いを戦われ、「わたしは手で造ったこの神殿を打ち壊す」と言われたため、神殿侮辱の罪証は確定、十字架の死刑となったのです。

ローマ総督ピラトは何とかしてその死罪を免れさせようとしたが、イエスは黙って死を甘受し、刑場ゴルゴタの丘を指して出発されたのでした。十字架にかけられても、どんな肉体の激痛にも屈せず、死の脅迫にもめげずにどこまでも敢闘し、ついに最後の勇を鼓して雄たけびして、十字架上より聖所の幕を切って落とし、死にたもうたのです。

かくして至聖所は開け、万人が祭司のごとくに直接、神を礼拝しうる道がひらかれたのです。何人(なんぴと)も戦いえない戦いに勝ちたもうた。そうであればこそヘブル人への手紙の筆者は、イエス・キリストを、父祖アブラハムに油を注いで祝福した祭司メルキゼデクに勝る大祭司である、と信じたのであります。キリストの永遠の実存の相、真の姿はこれであります。

まさに、「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル人への手紙9章11~12節)とあるとおりです。

イエスの霊言の威力

しかし、ある人は問うでしょう、果たしてゴルゴタの丘より、はるかかなたの神殿内の幕を切り落とせるものか、と。だが、イエスは一言にて暴風雨を鎮(しず)め、遠隔の病者をも一言でいやしうる霊の人であったではないですか。

たとえば小さな魚類でも、水中で電気を発出し、他をしびれさせ攻撃する電気魚というものもいるではないですか。小さな魚がどこからそんな電力を得るのであろう、と議論したって、事実は事実なのです。ましてや、イエス・キリストが渾身(こんしん)の力を込めて雄叫(おたけ)びし、不思議な霊力を発動したとしても、何をいぶかる必要があるでしょうか。

神の霊を注がれた者は、新しいアダムとなる。人類は、現在のこの程度の進化でとどまるべきでない。天使のようなもっと優れた霊的段階に進化すべきなのです。

ものの見事に、霊言をもって聖所の幕を切り落として絶命され、ついに宗教革新にとどめを刺された主イエスの霊的権威とその勝利、なんと壮烈果敢な闘魂でしょうか。まことに彼こそは神の子、人間の始祖アダムに比すべき「第二のアダム」の先駆でありました。ここに、罪と死に打ち勝つ霊的生命の義を如実に証しなされたのです。

勝利者イエスによる贖い

古来、十字架の死の意味を求めて、多くの論議がなされてきました。そしてだれもが皆、十字架上で語られた7つの言葉、十字架上の”七言”からその死の意味を引き出そうとします。しかし私はそれにも増して、この雄叫びの”絶言”に最大の意義を発見します。ここにイエスの最大の勝利があったのです。この勝利者イエスのみが、私たちをすべての罪より救出する贖い主であります。初代教会の聖徒らは皆、主イエスの死の勝利を、このようにほめたたえてきたのです。まことに、主イエスの生涯とその死は、イザヤ書53章の預言の成就、主エホバの僕(しもべ)の勝利でした。

「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ書53章11~12節)

現今、神学者たちによって信じられている「神意充足説」や「代罰説」などは、贖罪の解釈として後代の西洋人たちによってこじつけられたものであって、一面の真理はあっても、深い聖書的な解釈とは言いがたいものです。それらは、原始キリスト教会が与(あずか)り知ることのない変な解釈です。

私の贖罪信仰は、初代教会時代の人々が信ぜしごとく、勝利者イエスの御霊が私たちを悪より、死の権力より奪還したもう、私たちが贖われたその事実、経験に基づくものです。神の子イエスの血、永遠の霊が私たちを贖うのです。罪より義に、死より生に移すのです。

(1954年 『生命の光』誌52号より)


本記事は、月刊誌『生命の光』856号 “Light of Life” に掲載されています。