聖書講話「すべてを許すこと」マルコ福音書14章17~21節

イエス・キリストはその生涯の最後に、イスラエルの都エルサレムに上られました。そこで、腐敗した当時の宗教を正し、神殿をきよめられました。そのため、宗教家たちから命をねらわれることになったイエスは、十字架の刑を予見しながら、弟子たちと共に「最後の晩餐(ばんさん)」をなさいます。
今回は、弟子の裏切りを知りつつ、共に食事をされる場面の講話を掲載します。(編集部)

夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは言われた、「12人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」

マルコ福音書14章17~21節

これは、イエス・キリストが十二弟子と一緒に「最後の晩餐」をなさった場面です。

神の善意をすり替えて悪用する人間がサタンの子であり、人間の悪をも善用するのが、キリストであります。ここに記されている「最後の晩餐」の時における、イスカリオテのユダとイエス・キリストを対比してみると、そのことがよくわかります。

イエス・キリストはすでに、弟子のユダがご自分を裏切り、敵に引き渡そうとしているのを知っておられた。フランスの諺(ことわざ)に「すべてを知るとは、すべてを許すことである」とありますが、実に意味深長な言葉です。相手の善をも悪をも、共に許している。すべてを許すことなくして、すべてを知ることはできません。「許す」とは信じていることです。信じ、愛することなくして、許すことはできません。

ルカ福音書7章を読むと、イエスがある宗教家の家に招かれて食事をしている時、罪の女であった者がイエスの足元に近寄り、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭(ぬぐ)い、そしてその足に接吻(せっぷん)して香油を塗りました。それを見ていた宗教家が心の中で言いました、「もしイエスが預言者なら、こんなことはさせないだろう。触っているのは罪の女なのだから」と。しかしイエスは、涙で足をぬらし、自分の髪の毛で拭う女のしぐさに、その女の心を知って、「この女は多くの罪を許された。それゆえその愛することも多い。許されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。

しかり、イエスのごとくすべてを知る者は、すべてを許している者です。すべてを許すとは、相手のすべてを許し、自分を相手にゆだねることです。

善も悪も共に許す

たとえば、よき夫婦の間では、お互いにすっかり自分を赤裸々に許し合っているからこそ、本当の意味で愛が通い合っているのです。愛の眼差(まなざ)しはすべてを知ります。

イエス・キリストの「最後の晩餐」に、私はその姿を見ます。ご自分を売ろうとしているユダの心理が手に取るようにわかっていながらも、イエスは彼を許しておられる。否、自分自身をユダに渡しておられる。まざまざとこの裏切り者の心理を知りつつ、これを受け入れて一緒に食事をなさる。何という大きな許しでしょう。ユダの善悪共に許し、裏切ることをも許している。それは自分自身をユダにゆだねることでした。自分を敵方の宗教家たちに売るも売らぬも、ユダの思いのままです。生かすも殺すも、ユダの自由です。ここに驚くべき寛容と愛が見えます。

「すべてを知るとは、すべてを許すことである」

私は長い間、このフランスの格言を知っていながら、真意がわかりませんでした。ところが今朝、ふとイエスの「最後の晩餐」の情景に結びつけてこの言葉を思い起こした時に、初めてその深遠な意味がわかりました。愛は許すことであり、許すとは裏切られることを、敵に引き渡されることをも許すことです。ユダに裏切られる、しかし、愛は黙ってそれを見ている、こらえているのです。

愛とは、愛する者の罪をも、憎しみをも、反逆をも受け入れている心です。イエスは、ユダに裏切られ、弟子たちに捨てられ、パリサイ的宗教家に罪せられ、多くの国民に罵(ののし)られ、すべてに捨てられました。しかしイエスは、十字架上で肉体的な苦痛の極限状況にありながらも、彼を罵り迫害する者たちの罪を見ずに天を見つめて、「父よ、彼らの罪を許したまえ」と言って、執り成して祈っておられます。

「最後の晩餐」の部屋(エルサレム)
「最後の晩餐」の部屋(エルサレム)

耐えがたい愛の裏切り 

多くの人は十字架上のイエスを見て、その肉体的な苦痛を痛ましく思い、その受難を悲しみます。けれども肉体的苦痛は何とか耐えられますが、イエスが味わわれたような愛の裏切り、魂の苦痛をどれほどの人が感じ、また耐えることができるでしょうか。魂の本質ともいうべき愛に傷が入りますと、もう耐えられません。私はそれを感じて困る時があります。自分の魂に深い痛みがあることは、どうにもなりません。

愛が裏切られるとは、愛の魂、それ自身の生命が殺されることです。なんと苦しいことでしょう。何がつらいといっても、これ以上につらいことはありません。生活の苦しさや貧しさは耐えられます。体の痛みや病気はこらえられる。しかし、愛の裏切りは耐えがたい苦痛です。これは味わった者のみ、よく知っています。

たとえば、X君やY氏が裏切ろうとした時でも、私は事前にそのことをよく知っておりました。知るというより、まず魂が疼(うず)きだしてきました。その時に、私は何ができなくとも、ただ限りなく彼らを許そう、そう思いました。

真の愛は聡明である

イエスは、「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マルコ福音書14章21節)と、暗示するように言われています。ユダの裏切りをあらかじめご存じでした。すべてを許しているから、愛する者は目ざといのです。

ユダが去っていった場面は、ヨハネ福音書13章により詳しく記されています。イエスは、この世を去って父の御許(みもと)に行くべき自分の時が来たことを知って、極みの愛をもって弟子たちを愛されました。すなわち、イエスは手ぬぐいを取り、水をたらいに入れて十二弟子の一人ひとりの足を洗われました。ユダの足をも洗われました。

それから、イエスは心が騒ぎ、厳(おごそ)かに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(ヨハネ福音書13章21節)と。そして、ほかの弟子たちに気づかれないように、一切れの食物をユダに渡し、「あなたがしようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。

相手に自分の身を許し、渡している、こんな愛はすべてを目ざとく見抜くことができます。ああ、この人が次の行動――何を思い何をしようとしているかが、よく洞察できます。
すべてを許す者は、すべてを知ることができます。すべてを知りだした愛は、恐ろしい洞察力を含んでいます。愛は盲目といわれるが、真の愛は鋭敏です。聡明(そうめい)です。

これは多少とも伝道したことのある人なら、よくわかるでしょう。愛する信者の心の動きが、敏感によくわかります。また伝道する者は、そのような深い洞察力 insight(インサイト)がなければいけません。

物事の実相を看破する内観性(インサイト)、それを信仰というのであります。できるだけ垣根を作ってはいけない。自分を相手に渡しておれば、相手のことがびりびりわかります。

イエスの透視力は、自分の運命を予知できました。そればかりでなく、他人の隠れた心や考えまでも透視することができました。けれども、何にも勝(まさ)ってここで私たちが学ばねばならないのは、裏切る弟子にさえ、裏切りを知りつつもご自分を渡しておられたという、その十字架の愛であります。

(1954年 『生命の光』誌49号より)


本記事は、月刊誌『生命の光』855号 “Light of Life” に掲載されています。

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