聖書講話「神の力を信ぜよ ―― 不可能を可能とするには ――」
マルコ福音書9章22~23節

現代のような物質文明が進んだ世の中では、目に見えない神の力を信じることは難しくなっています。しかし、福音書にあるように、人々の中に神の愛と力を信じる心、信仰が起きる時に、どんな困難な問題も解決されます。「信仰、信じる心」こそ、人生に最高の幸福をもたらします。
本講話は、マルコ福音書のキリストの御言葉を通して、聖書の説く信仰の偉大さを学びます。(編集部)


「もし、あなたが何かおできになるならば、わたしどもをあわれんで、お助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、すべての事ができる」

マルコ福音書9章22~23節 私訳

「信ずる者には、すべての事ができる」。単純にしてこのような偉大な言葉を、私はほかに知りません。まことに、イエス・キリストの真骨頂を示す言葉であり、人類の中で最高の発言であると思います。「信は力なり」、信ずる者には、すべての事ができる。しかし信じないなら、何もできない。信心ほど不思議な力はありません。人間の心には、いろいろな働きがあります。その中で最も重要なのは、信ずる心の働きです。

近代日本の生んだ大哲学者の一人、西田幾多郎(にしだ きたろう)は、人間のもっている心の働きの中で最も深いものは、愛すること、信ずることである。これは感性や理性や意志に勝(まさ)って、はるかに深く尊い、ということを言っています。けれども、「信仰」や「信ずること」が大事だと言うと、今日、多くの人は「フフン」と鼻であしらいます。

でも、考えてごらんなさい。人間、もし信ずる心を失ったら、生活が破滅してしまいます。卑近な例だが、電車に乗ること一つでも、「東京行き」とあるのを「信じられない」と言ったら、乗ることすらできないでしょう。信ずる心を失うと、すべてを失うこととなる。信ずる心を回復してこそ、真に生き生きとした力強い人間になることができます。

いつぞや、福岡の空港で飛行機を待っておりました時、ある年配の外国人が私のところにやって来て、いろいろと話しかけて言うのに、「あなたは、あらゆる力の中で、最も強い力は何であるか、知っているか?」と聞きます。 「それは、神の力だ」と私が言うと、「ノー! Mind Power マインド・パワー(心の力)だ。あなたに言っておく。心の力! マインド・パワーを開発した人が偉大である。Mind Power! Mind Power!」と、その老人が大きな声で、何度も繰り返し繰り返し言っていました。何かの信念をもった人でしょうか、最も偉大な神の力を知らないにしても、何か信念一筋に仕事をした人のようでした。

信ずる心の回復

人間は他の動物と違って、自由意志、自由な心をもっています。心のままに自由に想像し、意志し、実現してゆくことができます。これは、実に偉大な力であります。

ナポレオンは若いころ、フランス軍を率い、アルプスを越えてオーストリア軍と戦いました。普通でしたら、とてもあの雪のアルプスを数万の軍隊が乗り越えるなんて、できることではありません。部下の多くはその不可能を説きました。しかしナポレオンは、「私の辞書に〝不可能〟という言葉はない。不可能などとは、愚者の言い訳だ!」と言って、ついに数万の兵士と共に、常識では考えられないような雪のアルプス越えを実現し、オーストリア軍に勝利しました。

ここにいるⅩ君は、大学の受験に失敗して無力感に悩んでいる、という。しかし君は、人生で最も大切なものをまだ知らない。それは心の力です。中でも信ずる心こそ、神が人間に与えた最高の天賦の力です。この一つのこと――信仰――を知ったら、君は無一物にして無尽蔵、驚くべき祝福の、力強い人生を歩みはじめることができます。つまらぬ自分と言うなかれ、信ずる心の回復が、何よりも君に大事です。

こんな、人生に最も大事な基本を、現今の学校では教えてくれません。親も教えてくれません。それどころか、信仰を説いているはずの教会ですら教えてくれる所が少ないです。現今のキリスト教会では、その教派の教条や教理を信ずることを信仰のようにいいますが、教理を信ずる信仰など、キリストの説かれた信仰とは、似ても似つかぬものです。

心をどのように用いるかによって、素晴らしいことも行なえれば、また逆に奈落(ならく)のどん底にも落ちてゆきます。現在、あなたの心をどう用いるかによって、あなたの未来が変わってきます。「未来はどうにもならぬ」と言う人は、まだ信ずる心の力を知らない人です。私たちの中にある信ずる心の力によって、自分の未来をほんとうに輝かしいものにしてゆくことができます。

しかし、人間の信念が福音ではありません。キリストの福音とは、信ずる心が神の力を引き出すことであります。「なんじの信ずるごとく、なんじになれ!」。小さく信ずる者には小さく、大きく信ずる者には大きく、神の力が作用します。

この聖書の箇所の舞台・北部ガリラヤ地方

熱き信仰心のわくところに

「信ずる者には、すべての事ができる」。一切を可能にするもの、これを神の力というのです。キリストは、「神に信ぜよ。アーメン(真に)、なんじらに告ぐ。だれでもこの山に、動き出して海の中に入れと言い、その言ったことは必ず成ると心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」(マルコ福音書11章22~23節 私訳)と言われました。また、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」(ルカ福音書17章6節)と言われました。物理的な法則を超えて、不可能と見えることすら可能にするもの、それをキリストは信仰と呼ばれたのです。

四福音書を読みますと、キリストはいつでも一貫して、人々から“信ずる心”を引き出すことを伝道の眼目にしておられたことがわかります。信ずる心さえ人々の胸にわきはじめるならば、そのわき上がった心を神に向けしめて、驚くべき奇跡を続々と現されました。

「なんじの信ずるごとく、なんじになれ!」との一言に、うみだらけのらい病人もたちまちに潔(きよ)められ、長年、悪霊に苦しめられていた精神病者も、悪霊から直ちに救われました。そしてそのたびごとに、「あなたの信仰があなたを救った!」「あなたの信仰は大いなるかな」と言って、人々の胸に信ずる心のわいたことをほめちぎり、喜ばれました。

しかしキリストといえども、信仰心のない冷たい人々の間においては、不思議な力ある業(わざ)を行なうことができませんでした。郷里のナザレに帰られた時、人々は「この大工の息子のイエスが、このような知恵と奇跡力を、どこで習い覚えてきたのだろう?」と驚き怪しむばかりで、信じようとはしませんでした。それで、キリストは彼らの不信仰のゆえに、そこでは力ある業を行なうことができず、彼らの信仰なきを怪しまれた、とあります。

信仰は、驚くべきことを発見し、驚くべきことを引っ張り出す、心の綱(ロープ)です。しかし、この信仰の心が萎(な)えてしまったら何もできません。熱い信仰心の復活するところ、今でも復活のキリストの驚くべき贖いの御業を拝することができます。

私の集会には、原始キリスト教時代そのままに、熱烈にキリストの力に触れたがって、人々が集まられます。そして、その熱い信仰は、病気をいやす力を引き出し、困難な生活問題にも打ち勝ち、輝かしい成功と繁栄を収めて、皆さんが神の栄光を現す不思議な現実を展開しておられるのであります。

神の力を引き出すもの

福音とは何か? 「すべて信ずる者に、救いを得させる神の能力(ちから)である」(ローマ人への手紙1章16節)とパウロは定義しました。

信仰とは、人間が信じている、ということだけではない。こうありたい、と信じていることに、神の力がプラスしてくることをいうのです。そうすると、状況が変わってくるんです。信仰とは、神の力を引き出す方法をいうのです。「信仰によって救われる」というときの「δια ディア ~によって」というギリシア語は、経由する方法を表す言葉です。信仰を“通して”神の力は働く。信仰がなかったら救われません。

神の愛と力に対する信仰さえわき起こるならば、そこに不思議な奇跡が続出します。ただ病気のいやしぐらいではない。キリストは、荒野の奥で5000人の者が食物なしに行き暮れて、弟子たちが困り果てた時、「何という信仰の薄いことを言うか」と言わんばかりに、5つのパンを分けて5000人を食い飽かしめる、大奇跡を現されました。

また嵐吹く湖上で、弟子たちが「私たちは滅びてしまう」と恐れた時に、「おまえたちの“信仰はどこに”あるのか」と言って、一声で嵐を静めたまいました。信仰は、実際に困難な生活問題を奇跡的に解決し、大暴風雨の迫り来るような恐ろしい状況下をも、笑って過ごさしめる秘密力です。

現今の欧米流のキリスト教は、イエスの説かれた福音とは違うものであります。イエスは今のキリスト教のように、神学を説いたり、教理問答を教えたり、聖餐式(せいさんしき)や水の洗礼式を執行したり、合唱隊を集めたり、僧服を規定したりなどなさいませんでした。安息日ごとに寺院参りをして礼拝することを、宗教の最重要事とは思われなかった。野で、山で、また町々で、家の中で、悩める者、苦しめる者に「神の力にすがれよ! 神の力は偉大なることをなしたもう」と教え、また目に見ゆるように体験せしめたもうたのが、イエス・キリストでした。それでイエスに従った者たちは、信仰に命を張って付いてゆきました。

人々の胸の中に信ずる心が起こりさえするならば、驚くべき神の力が作用して、神の生命を受け、すべての奴隷状態から解放されて、どんなに喜ばしい世界に入れるか! 

にもかかわらず、人々が信仰の力を何ら知ることなく、みすみす人生を終わるなんて、と憂慮されてキリストは伝道に必死でした。しかし、イエスほどの大聖者が必死にお説きになっても、人々は信じるどころか、逆にイエスを十字架につけて殺してしまいました。

信仰によって生きる

今でもそうです。本当の意味で、水増ししない原始福音を説こうと思うならば、当然、内に外に戦いを覚悟せねばなりません。そして、私たちはどこどこまでもキリストが説かれた原始福音を目指して生きたい。そのために私たちは、はっきり自らの信仰を切り替え、また不信仰と訣別(けつべつ)せねばなりません。

現今は、信仰と称して信仰まがいのものがあまりにも多くあります。宗教行為が実に多岐にわたっております。キリストもご存じないような教理や、儀式が至るところで行なわれています。宗教の名において病院を経営したり、学校経営をしたりする。そんな宗教の代用品があまりにも多いため、人々はごまかされて、どうも信仰一筋に歩けません。

「あなたは教会に来るようになられた。それじゃ、これをお手伝いください。これにおつきあいください」というのに引き回されて、肝心の「信仰によって生きる」ことがボヤかされてしまいます。

「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(ルカ福音書10章27節)と聖書にあります。キリストだけを見上げ、聖書だけに学ぶことです。今日の既成宗教に調子を合わせていたら、信仰がおかしくなります。聖書がいかに永遠の書、霊感の泉であることか! 私たちは聖書を愛読して、そのとおりを信じ、行なったらよいのです。

原始福音に帰れ

私は18年前、独立伝道を志して立ちましたが、初めの間は伝道が伸び悩みました。だがある時、福音書をもう一度ほんとうに学び直し、「そうだ、この福音書そのままを、私の先生イエスのごとくに一切をやろう。とてもできそうにないけれども、やろう」と思いはじめてから、私の伝道は変わり、神の力が奇跡を伴って働きはじめました。そして、今も生きたもうキリストの御霊が鮮やかに注がれて、聖霊が激しく降臨したペンテコステの日の状況そのままが、この20世紀の日本国に現出されたのです。

原始福音の信仰とは、新約聖書に書いてあるままを信じ、それを現代に実行しようとするだけのことです。人々が実行しないなら、なおさら私はやろう。人々が何と悪口を言っても、私はキリストの弟子らしく、キリストが説き、使徒たちが行なったとおりのことをせねばならぬ、と思いました。

そうして神の力が働きだすと、病はいやされ、盲人の目は見えだし、足なえは立って歩み、恵まれた心は恵みを生んで、奇跡続出の伝道が始まったのでした。

普通の宗教の信心では、驚くべきことは起こらないでしょう。しかし、キリストの原始福音は、驚くべきことを一人ひとりの生涯になしたまいます。何となれば、その人が信じて、神の力によって救われるからです。大事なことは、自分の心の打破です。

「神は土をこねて最初の人間アダムを造られた」と創世記にあります。神は、アダムに自由意志を与えられた。人間は、神を信ずる自由も、信じない自由も与えられています。明るい善い未来を信ずることも、その逆を信ずることもできます。光と生命の世界を思いながら生きるのか、それとも暗く冷たい死の世界を信ずるのか、どちらに向くかによって、自分の人生が大きく変わってきます。これは非常に重大な問題です。

ヤコブ・ベーメ(※注)も言っています、「人間の心が、何を信ずるか。サタンかキリストか、暗黒か光明か。破壊を信ずれば破壊が、死を信ずれば死がやって来る。しかし生命を信ずれば、生命が息吹いてくる」と。

心をどちらに向けるかによって、私たちの人生は東と西のようにも大きく分かれてきます。お互い、かけがえのない尊い人生です。同じく聖書を読みながら、いつまでも味けない、教理的または儀式的信仰を続けていてはたまりません。今こそ信仰をはっきり、力強くダイナミックな原始福音の信仰に切り替え、信ずる心を熱く燃え上がらせつつ、驚くべきキリストの祝福の中を歩んでまいりたく存じます。

(※注)ヤコブ・ベーメ(1575~1624年)

ドイツのキリスト教神秘主義者。正規の神学教育を受けていない靴職人であったが、神に触れた神秘体験を書物に著す。ドイツのキリスト教敬虔主義や哲学に影響を与えた。

信の方向を反転せよ!

「信ずる者には、万事が可能である」と主イエスは宣言された。信仰とは、全能者の力を信じて生きる恩寵(おんちょう)です。信ずる心こそ、神が人間に与えられた、最高の天賦の性質です。人間にとって最も悲惨なのは、何も信ずることができなくなることです。信ずることができなくなることほど、不幸中の不幸はない。見ずして信じうる者こそ幸福です。

自分の知識を超えた深い真理は信ずる以外になく、自分を超えた高い力の作用は“信受”するよりほかありません。もし信ぜぬならば、希望の実現もなく、未来の開拓もありません。人間は無力でも、神の全能にすがれます。

愛は信ぜらるべきもの、信じえぬ心には愛は存在できません。神の愛を信じえずに知ろうとした時に、アダムはエデンの楽園を失いました。現代人の虚無性(ニヒリズム)と、生きる不安の焦燥――これ、神から賜った天賦の本性――信心――が破壊されたためです。否、破壊というより、信ずる心を善よりも悪に、光よりもやみに、希望よりも絶望に、創造よりも破滅に、神よりも悪魔に向けたからです。「信の誤用」が信の力を殺したのです。信の方向を180度、反転せよ! 神の大能にすがって生きよ!

「悔い改めて(反転して)、福音に信ぜよ」と主イエスが言われた理由は、これです。人間は信なきにあらず、人間の信の方向が反対だったのです。

「神は霊である。神を拝する者は、霊と真実(まこと)において拝せよ!」と主イエスは言われました。復活の生けるキリストを信じえなかった弟子たちも、「聖霊を受けよ!」と言って、イエスが気息(いき)を吹きかけられた時に、「おお、わが主、わが神!」と叫んで感動し、信ずる者となりました。人間は聖霊にバプテスマされる(浸される)と、不信の罪から救われ、信仰の義に生きてゆけます。信仰は、聖霊の賜物であります。

(1966年)


本記事は、月刊誌『生命の光』849号 “Light of Life” に掲載されています。