聖書講話「100倍を受ける道」マルコ福音書10章17~31節

一般に、宗教を行ずるためには、清貧に甘んじなければならない、と思われがちです。しかし、聖書の宗教は、必ずしも世の富が増えることを否定していません。富にとらわれる心が問題なのです。イエス・キリストは、世の富よりはるかに貴く、豊かな喜びを与える、永遠の生命を説かれました。
今回はマルコ福音書の、有名な「富める青年」の記事を通して学びます。(編集部)

マルコ福音書第10章には、次のような箇所があります。

それから、イエスは見回しながら、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の王国に入るのは、なんと難しいことであろう」。弟子たちは彼の言葉に驚き怪しんだ。イエスは再び彼らに答えて言われた、「子たちよ、神の王国に入るのは、なんと難しいことであろう。富める者が神の王国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうが、もっとたやすい」。彼らはいよいよびっくりして、互いに言った、「それでは、だれが救われうるだろうか」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人間にはできないが、神にはそうでない。神には、すべて可能である」

マルコ福音書10章23~27節 私訳

「富める者が神の王国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」、これは有名な言葉です。しかし、ラクダと針の穴とでは、あまりに違いがひどくてわからないかもしれません。ラクダは原文では「καμηλον カメーロン」ですが、ほかの写本には「καμιλον カミロン 綱」と書いてあるものもあります。「ロープを針の穴に通す」というほうが、よりわかりやすいかもしれません。ユダヤ教では、「象を針の穴に通す」という言葉もあるそうです。

エルサレムのロシア正教の教会(アレクサンダー・ネフスキー教会)には、昔のエルサレムの城壁の一部といわれる発掘箇所があります。そこには大きな門と、傍らに小さな門があります。この小さな門が、昔は「針の穴」と呼ばれたそうです。

エルサレム旧市街のロシア教会の地下で発見された古代の門の遺跡
(アーチ状の門の脇の壁に開いた四角い入口が「針の穴」との説も)
Wikimedia Commons : Djampa 

夜は門限ともなれば、大門は閉められて、小さい門、「針の穴」と呼ばれる門が開かれます。キリストが言われたのは、この小門のことだとも考えられています。とにかく、富める者が神の国に入るのは至難の業(わざ)だ、ということの譬(たと)えなのです。

しかしここでキリストは、一般に考えられているように、「富める者はほとんど神の国に入れない、富を捨てなければ神の国に入れないのだ」とおっしゃったのではありません。この言葉は、この前に語られた「富める青年」の挿話に続いて発せられたのですから、その話を読めば語られた背景がおわかりになるでしょう。

富める青年の物語

イエスが道に出てゆかれると、一人の男が走り寄ってきて、御前にひざまずいて、こう問うた、「善き師よ、永遠の生命を嗣(つ)ぐために、私は何をなすべきや?」。イエスは彼に言われた、「なぜ、わたしを善いと言うのか。神一人のほかには、善き者はない。いましめは、なんじが知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺き取るな、なんじの父と母とを敬え!』」。彼は言った、「師よ、私は幼い時から、これらを皆守りました」。するとイエスは彼に目を留め、いつくしんで言われた、「なんじ、なお一つを欠く。行って、なんじのもてる物をすべて売り、貧しい者に施せ! さらば天に財宝をもつようになろう。そして、来たりてわれに従え!」。すると、彼はこの言葉によって、憂鬱(ゆううつ)になり、悲しみながら立ち去った。多くの資産をもっていたからである。

マルコ福音書10章17~22節 私訳

この富める青年は、ユダヤの身分高き人でした。そして、イエス・キリストを「善き師よ!」と呼び、「永遠の生命を得るには、いかなる善をなすべきか」と、極めて倫理的な質問をしているところを見ても、真面目な人柄が想像されます。

キリストは、この青年をじっと凝視(みつ)め、いとおしく思われました。彼が立派な身分で、しかも品行方正だったからでしょう。しかし、キリストとの問答の果てに、「なんじ、なお一つを欠く」と言われて、富を捨てきれずに悲しんで御前を立ち去った。キリストは、こんな立派な富める青年こそ真の宗教を会得するのは極めて困難だ、ラクダが針の穴を通ると同様に神の国に入りにくいものだ、と言われました。現代でも立派で裕福な家庭に育った若者たちが、なかなか信仰をもとうとしないのを見れば、この消息がわかると思います。

この記事について一般の解釈では、「この青年は、自分の大きな富を失いたくなかったのだ。富めるがゆえに、ついに永遠の生命を得られなかった。財産をもつことは、天国行きの邪魔である」と考えられています。「自分に多くの資産があったので、悲しみながら立ち去った」という説明を読むと、なるほどそうかもしれません。

釈迦が妻子を捨て、王位を捨て、全財産を捨てて出家したように、また、アッシジの聖フランシスが富豪の子でありながら、好んで乞食(こつじき)となったように、同じような経過をたどらなければ神に救われず、宗教の悟りの喜びにも至れない、と考える人も多いでしょう。

自己義認では救われない

しかしルカ福音書19章を見ると、エリコの取税人の頭・ザアカイは金持ちだったのに、イエス・キリストは、「今日、救いがこの家に来た!」と言って祝福されました。その前に、彼がうれしくて「自分の財産の半分を貧民に施します」と誓ったことを思い合わせると、財産の全部を施すか、半分を施すかということで、永遠の生命が得られるか否かが決まるのではない、ということがおわかりになると思います。

むしろ、この富める青年には、決定的な問題があったのです。それは、「自分は幼い時から、すべての律法を守っている」と言って、自己義認(ぎにん)していることです。

それでイエス・キリストは、青年がユダヤ教的な律法の義を誇ることをとがめられたのです。「道徳的に立派であるならば、報酬として永遠の生命が与えられる」という思想が根本的に間違っています。イエスは、「もし真に律法を守り、隣人愛に生きているというのなら、全財産を投げ出してみよ。投げ出せぬのを見ると、律法を完全に守っているというのも、自己欺瞞(ぎまん)の独りよがりじゃないか」と言われたのです。

この会話の一部始終を見守っていた弟子たちは動揺しました、「それでは、だれが救われうるだろうか」と。当時は、神が祝福しておればこそ人は裕福になれる、という考え方もあったからです。ところが、その富める者の天国入りが難しい、と言われたので、彼らは大いに当惑したのです。

福音は道徳を超えた世界

27節に、「イエスは彼らを見つめて言われた、『人間にはできないが、神にはそうでない。神には、すべて可能である』」とあります。「だれが救われうるだろうか」という弟子たちの疑問に対して、キリストは「それは人間に条件があるよりも、救う、救わぬは神様のなさることである。神は全能である」と言われた。

富める青年が、自分は律法を立派に守っている、と公然と言う時、はなはだしい傲慢(ごうまん)です。神の前にいかに人間が不完全であるかを知らない。律法を守ることを救いの条件にすれば、不完全な人間には救いは厳しいこととなります。

しかし福音に触れると、ザアカイは自分が律法から外れたような卑しい身であることを知りながら、キリストをわが家に宿しまつる光栄に、もう全財産の半分をなげうっても惜しくない、という気持ちになりました。これが福音の力です! 律法では救われず、神に救われてみて初めて、律法の精神を守ることができるのです。

そして神に救われてみたら、この世の富というものが、いかにも小さく見えてきます。

ですから、神の生命、永遠の生命に触れることが第一で、善行はそれに続くものです。哲学者のイマヌエル・カントも言うように、「善人が善を行なうのであって、悪人に善を教えても、善を行なうには至らない」のであります。魂が善くないと、善を行なえるものでありません。人間は神の善き霊を宿さぬ限り、善悪を弁(わきま)えることすら難しいのです。

この青年は、イエスに向かって「善き師よ」と言ってひざまずいた。しかし、自分から「善き師よ」と言って、人間が善悪の基準を有する、と思っているところに間違いがあります。「神以外に善はない」とキリストが言われたのは、それであります。

禅宗の『無門関』という本の中で、後に禅の六祖となった慧能(えのう)が、「不思善、不思悪」にこそ自己の面目(真の自分の本質)が現れる、と喝破したことは有名な話です。

何が善だ、何が悪だ、と論じたりする倫理道徳以上に、それをハッと悟る純粋直観の世界が宗教なのです。キリストの「福音の世界」は超道徳であります。神以外には、絶対善というか、至上善なるものはありません。

イエスに従う者の光栄

その時、ペテロはイエスに言いはじめた、 「見よ、われらは一切を捨て、あなたに従いました」。イエスは彼らに言われた、「アーメン(真に)、なんじらに言おう。わたしのため、福音のため、家や兄弟や、姉妹や、母や父や子供や、畑を捨てた者は、だれでも皆、今この時に迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子、および畑を100倍にして受けない者はなく、また来たるべき時代には永遠の生命を相続するであろう。しかし、多くの先の者たちが後になり、後の者たちが先になるであろう」

マルコ福音書10章28~31節 私訳

世の道徳家は非難するでしょう。「キリストの名のために、家や財産、家族を捨てたら、それが100倍になって返ってくるばかりでない、来世に永遠の生命まで嗣ぐに至るとは、どうも功利的で御利益宗教だ」と、けなすかもしれません。けれどもイエス・キリストは、そのような冷たい理論家、律法主義者ではなかった。温かい血の通う人でした。

ペテロたちも、イエス・キリストに出会って天の喜びに満たされた時に、もう一切を捨ててもかまわないという気持ちになって、弟子となったのです。

またその後、イエス・キリストが天に帰られてから10日後のペンテコステの日に、永遠の生命、すなわち聖霊を注がれて、大いなる喜びを体験しました。それからというもの、ひどい迫害に遭いながらも世界の各地に出かけて伝道し、その喜びを分かち合いました。キリストの真の弟子であることは、いかに光栄なことであるかを思わざるをえません。

私自身も、終戦直後は戦時成金(なりきん)で巨万の富をもっていましたが、事業を全部なげうって伝道しはじめました。それは、つらい思いをして捨てたのではありません。喜んでうれしくて、神のために生きることは光栄だと思って伝道者になったんです。いざなってみると、つらいことがありました。苦しさ、悲しさに歯ぎしりして忍ばねばなりませんでした。しかし、そのような時に、キリストから来る神の慰めもまた倍しました。

豊かなる生活の秘訣

キリストは、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ福音書10章10節)と言われた。abundant life(アバンダント ライフ)、豊かなる生活、豊かなる信仰を与えるのがキリストの宗教でした。abundant(アバンダント)「豊富な」という英語は、abundāre(アブンダーレ) 「波立ちあふれる」というラテン語に由来しています。神の生命が物心両面に働き、海のごとく洋々として、引いては満ち、満ちては引く境地――これを経験するのがabundant life(アバンダント ライフ)なのです。

富を蔑視する聖人は多いが、しかし、富をも楽しみ、富の増殖を知り、教えられたのがイエス・キリストでした。与えても与えても、あふれてくる境涯にあるならば、捨てることなんか何でもない。富に執着して握りしめたりしない。また貧乏していても、少しも貧乏じみたりしない。潮の干満のように、引けばまた満ちるからです。

富の問題に限らず、宗教生活の極意を一言で評すれば、仏教の言葉ではないが、「身心放下(しんじんほうげ)」ということです。これは「身も心も、すっかり放下して(捨てて)、ひたすら道を学ぶ」という意味です。地上で100倍の幸福に入るにも、来世に永遠の生命を得るにも、秘訣(ひけつ)は「身心放下」して執着しないことだ、とキリストは説かれたのです。自分を十字架して身心放下すれば、迫害や困難もしのげます。十二使徒たちは家も財産も捨てて、ひたすらキリストに随順しました。そして、光栄ある生涯を終わりました。

己を捨ててかかる時に

事業や研究の面でも、古来、立志伝中の人々はこの呼吸を知っていたようです。

大倉喜八郎という明治時代の豪商がおりました。彼がなぜ豪商になったのか。

明治元年に、榎本武揚(えのもとたけあき)をはじめとする旧幕府軍と官軍との間に箱館(はこだて)戦争が起こりました。旧幕府側の勢力はまだ強く、いつ盛り返すかしれない時でしたけれども、喜八郎は官軍である明治政府の御用商人になりました。そして、たくさんの軍用品を積んで青森へ向けて船を出すことにしました。その時に取引先のアメリカ商人が、彼にこういうことを言いました、「西洋には保険という便利なものがある。もし保険金を払えば、船が沈没した場合には損害が補償される。あなたは安全だ」と。

すると彼はこう答えました、「私はそんなのんきな商売をしているのではない。今度の戦(いくさ)に一切をかける。私が船に乗り込み、沈没する時は私も沈む。軍用品を無事送り届けて、新政府側が勝った暁(あかつき)には私は報いられるだろう。だから保険なんかいらぬ」と。

彼が、のるかそるか命をかけて青森まで軍用品を運んだから、大倉財閥が生まれたのです。このような思い切った冒険は、よほど旺盛な生命力がなければできません。

寄せては返し、引いては満ちる波のように、宇宙の波動に身をゆだね、「捨てて得る」ことを知っている人々は幸福です。この捨て身の心構えが、永遠の生命を得させ、幸福と富を100倍にします。この宇宙のリズムに乗るか乗らぬかで、「先の者たちが後になり、後の者たちが先になる」(31節)でしょう。

イエス・キリストは言われました、「己(おの)が命を保つ者はこれを失い、己が命を捨てる者がこれを得る」と。自我を温存しようと思う者はこれを失う。しかし、自分の主義主張を捨ててでも事に当たろうとする時に、もっと豊かに生命が与えられるのです。

私たちは、自分の考え方に行き詰まってどうにもならないような時があります。でも、そんな場合にこそ、自分のちっぽけな頭で考えることをやめて、神に頼ろう。その時に、ありありと私たちは新しい道を発見するものです。

どうぞ、私たちはその道を知りたい。キリストが「100倍を受けるであろう」と言われるならば、一切を神にゆだねて、見えない神に導かれる生涯を歩み、驚くべき運命の展開をしとうございます。

(1968年)


本記事は、月刊誌『生命の光』848号 “Light of Life” に掲載されています。